先日twitterのあるbotだったと思うが、elvis presleyともう一人が並んで写っている写真が添付されていて、それはロックの殿堂とフォーク(カントリーだったかな)の殿堂の両方にはいっている二人、と紹介されていた。
elvisでないほうは誰だかわからなかったのだが、ちょっと調べてジョニーキャッシュだとわかった。
ジョニーキャッシュという名前は聞いたことがあったが、どんな人でどんな歌を歌っているのかも知らなかった。
そこで彼のベスト盤のようなものを入手して聴いてみたら、すごくいいなと思った。
声は低音で、エルヴィスと似ているが、もっと低くて、朴訥というか、飾りのない声である。
そして、The Ballad of Ira Hayes という曲があった。
この曲は、Bob Dylanが歌っているのを聴いたことがあった。
ジョニーキャッシュの曲なのか、と思ったら、それもカバーでPeter La Fargeという人が作った曲らしい。
3人の歌うのを聴いてみたが、それぞれまったく別の曲である。
Bod Dylanのはとても劇的で、感傷的といってもよい。
ジョニーキャッシュのは淡々としている。 Peter La Fargeのものもそうだ。
もともとは、ほとんど語っているような歌である。
Ira Hayesというのは実在の人物で、インディアンの血を引くのだが第二次大戦でアメリカのために戦って、硫黄島で何人かの兵士たちが星条旗をたてている有名な写真に写っている一人だそうだ。
彼は英雄扱いされたのだが戦後は不遇な人生を歩み酒におぼれて若くしてなくなった。
そのことを歌ったのが The Ballad of Ira Hayes である。
Dylanの歌うのを聴いたときは歌詞に興味を持たなかったのだが、
淡々と歌われていたジョニーキャッシュのを聴いたときのほうが、歌詞に興味を持った。
ジョニーキャッシュはNashville skylineでdylanとデュエットしている。
それは聴いたことがあったが、あれはちょっと気負いすぎというか、いつものジョニーキャッシュではない。
2014/02/21
2014/02/20
マルクス・アウレーリウス 「自省録」
岩波文庫。神谷美恵子訳。
1956年第一刷、1981年第29刷の、古本屋で買ったものである。
著者のことは、世界史の授業で「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」という、ローマ皇帝の中でも五賢帝の一人で名君として有名な人物だとして習って知っていた。
また、後漢書にある「大秦王安敦」は彼のことだと覚えていたが、彼またはアントニヌス・ピウスと言われているようだ。
とくに何かを論じているというわけではなく、短いつぶやきのようなものの集まりである。
「自省録」と言っても、自分のことを見つめて反省しているというより、万人に対して、人はこのように生きるべきだと教え諭すような言い方である。
西暦121年に生まれた人であるが、言っていることは現代でもほとんど「常識」であるといってもいいくらいに違和感がない。
人物としては繊細で温和で内向的で、両親や教師などに非常に愛されたのだろうな、ということがうかがえる。
私はこれを寝る前に少しずつ読んでいったのであるが、だんだん、「この人はイエスを、キリストをどう思っていたのだろうか」ということが知りたくなった。
「神」という言葉はたくさんでてくるのだが、それはもちろんキリストのことでもなければ聖書にでてくる神でもない。
プラトンやソクラテスの名前がよく出てくる。
解説などによると彼の思想は「ストア派」に分類されるらしい。
禁欲的で、自然に従うことを説いている。
キリスト教については、まったく触れられていないと言ってよい。解説にも「言及しているとおぼしき箇所がいくつかあるがきわめて皮相」とある。
マルクスアウレリウスの時代はキリスト教が迫害されていた時代にあたる。
解説では彼は以前からの法律を踏襲していただけで積極的に迫害していたわけではない、と書いてある。
たしかに、「自省録」に書いてあることを考えているような人であれば、熱心に説かれたらキリスト教は受容されたのではないかと思える。
彼はいわゆる「まじめないい人」である。
おそらくキリスト教は狂信的なカルトであると認識していて、それがどんなものかなど興味ももたなかったであろう。
本書については、わたしはそれほどすばらしい名著だとは思わなかったし、著者についても尊敬にまでは至らなかった。
それはなんといっても、世界についての苦悩や、矛盾に対する疑問のようなものがほとんど見られないからだ。
子供をあいついで亡くしていて、それについて何度か触れられているが、結局しかたがないことだからあきらめるべきだと言っている。
「賢帝」とか「哲人皇帝」とかいっても、なんせローマ皇帝だからね。
何不自由なく暮らしていたはずだ。たくさんの人の貧しい暮らしの上で。
1956年第一刷、1981年第29刷の、古本屋で買ったものである。
著者のことは、世界史の授業で「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」という、ローマ皇帝の中でも五賢帝の一人で名君として有名な人物だとして習って知っていた。
また、後漢書にある「大秦王安敦」は彼のことだと覚えていたが、彼またはアントニヌス・ピウスと言われているようだ。
とくに何かを論じているというわけではなく、短いつぶやきのようなものの集まりである。
「自省録」と言っても、自分のことを見つめて反省しているというより、万人に対して、人はこのように生きるべきだと教え諭すような言い方である。
西暦121年に生まれた人であるが、言っていることは現代でもほとんど「常識」であるといってもいいくらいに違和感がない。
人物としては繊細で温和で内向的で、両親や教師などに非常に愛されたのだろうな、ということがうかがえる。
私はこれを寝る前に少しずつ読んでいったのであるが、だんだん、「この人はイエスを、キリストをどう思っていたのだろうか」ということが知りたくなった。
「神」という言葉はたくさんでてくるのだが、それはもちろんキリストのことでもなければ聖書にでてくる神でもない。
プラトンやソクラテスの名前がよく出てくる。
解説などによると彼の思想は「ストア派」に分類されるらしい。
禁欲的で、自然に従うことを説いている。
キリスト教については、まったく触れられていないと言ってよい。解説にも「言及しているとおぼしき箇所がいくつかあるがきわめて皮相」とある。
マルクスアウレリウスの時代はキリスト教が迫害されていた時代にあたる。
解説では彼は以前からの法律を踏襲していただけで積極的に迫害していたわけではない、と書いてある。
たしかに、「自省録」に書いてあることを考えているような人であれば、熱心に説かれたらキリスト教は受容されたのではないかと思える。
彼はいわゆる「まじめないい人」である。
おそらくキリスト教は狂信的なカルトであると認識していて、それがどんなものかなど興味ももたなかったであろう。
本書については、わたしはそれほどすばらしい名著だとは思わなかったし、著者についても尊敬にまでは至らなかった。
それはなんといっても、世界についての苦悩や、矛盾に対する疑問のようなものがほとんど見られないからだ。
子供をあいついで亡くしていて、それについて何度か触れられているが、結局しかたがないことだからあきらめるべきだと言っている。
「賢帝」とか「哲人皇帝」とかいっても、なんせローマ皇帝だからね。
何不自由なく暮らしていたはずだ。たくさんの人の貧しい暮らしの上で。
谷崎潤一郎 「細雪」 上
古本屋できれいな文庫本があったので買っておいたもの。
細雪はずっと前から読まねばならないと思っていたがなかなか読めなかった。
谷崎潤一郎の作品は、春琴抄、痴人の愛、鍵などを読んで、おもしろいなと思っていたが、細雪は読み始めるものの世界になかなか入っていけず、すぐに読むのをやめてしまっていた。
私が読んだ他の作品のように、この作品には劇的なことが起こらない。もういい年頃なのに独身の女性の縁談というのが一応話の核のようになっているが、それも見合いをするものの特に魅力的な相手でもなくなんとなく気乗りせずに破談になったりする。
それ以外には特になんということもない日常が淡々とつづられる。その中にはクスリとしてしまうようなエピソードもときどき挟まれるが、はっきり言ってしまえば退屈である。
谷崎潤一郎という人はどちらかというと浪漫派というか、劇的で過激な話を書く人というイメージがあったのだが、細雪はそうではなく、自然主義というか、リアリズムというか、現実的な描写に徹している感じだ。
登場人物の心理にもあまり触れない。登場人物はそれほど激しく悩んだり苦悩している様子もない。
上巻の最後では雪子の縁談と破談、それと同じころに起きた幸子の流産という、ちょっとした山場があって終わる。
なんとか「世界」が見えてきたので、中、下が楽しみになってきた。
ちなみに、冒頭の「こいさん、頼むわ」というセリフであるが、わたしはこれを何十回と読んでよくわからなかったのは、「こいさん」と呼ばれたのは「妙子」なのになんで「こいさん」なのかということだった。
少し話が進んだときに説明がある。
「『こいさん』とは『小娘(こいと)さん』の義で、大阪の家庭で末の娘を呼ぶのに用いる普通名詞であるが」
細雪はずっと前から読まねばならないと思っていたがなかなか読めなかった。
谷崎潤一郎の作品は、春琴抄、痴人の愛、鍵などを読んで、おもしろいなと思っていたが、細雪は読み始めるものの世界になかなか入っていけず、すぐに読むのをやめてしまっていた。
私が読んだ他の作品のように、この作品には劇的なことが起こらない。もういい年頃なのに独身の女性の縁談というのが一応話の核のようになっているが、それも見合いをするものの特に魅力的な相手でもなくなんとなく気乗りせずに破談になったりする。
それ以外には特になんということもない日常が淡々とつづられる。その中にはクスリとしてしまうようなエピソードもときどき挟まれるが、はっきり言ってしまえば退屈である。
谷崎潤一郎という人はどちらかというと浪漫派というか、劇的で過激な話を書く人というイメージがあったのだが、細雪はそうではなく、自然主義というか、リアリズムというか、現実的な描写に徹している感じだ。
登場人物の心理にもあまり触れない。登場人物はそれほど激しく悩んだり苦悩している様子もない。
上巻の最後では雪子の縁談と破談、それと同じころに起きた幸子の流産という、ちょっとした山場があって終わる。
なんとか「世界」が見えてきたので、中、下が楽しみになってきた。
ちなみに、冒頭の「こいさん、頼むわ」というセリフであるが、わたしはこれを何十回と読んでよくわからなかったのは、「こいさん」と呼ばれたのは「妙子」なのになんで「こいさん」なのかということだった。
少し話が進んだときに説明がある。
「『こいさん』とは『小娘(こいと)さん』の義で、大阪の家庭で末の娘を呼ぶのに用いる普通名詞であるが」
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