2014/09/15

細雪(中)

最後、男が病気になって片足を切断することになるが、
死んでしまう。

2014/07/08

最近

いやー、最近全然本を読んでない。

映画も見てない。

音楽も、古いのを聴いてるだけで新しいものを全然買ってない。


仕事が忙しくて、というわけでもないのだが、

落ち着いてじっくり考えたり見たり聞いたりする気になれない。


常に疲れている。


2014/04/10

Suzanne Vega 2014/04/07 @EX THEATER ROPPONGI

行ってきました。

来日を知ったのは今年の3月頃だったかな。

2008年に来ているし、2013年にはフジロックに来たようだが、

どちらも気づかなかった。


4/7は月曜日だし、仕事も忙しいときだったのであきらめていたのだが、

都合がついて、二日前の土曜日でもチケットは買えた。


6時半に仕事を終えて、EX THEATERへ向かった。



満員ではなかったが、ほとんど席はうまっていた。

でも、そんなに大きい会場ではなくて、500人くらいだったんじゃないか。



ステージにはスザンヌ・ヴェガと、もうひとり、Gerry Leonardというギタリストが立った。


私は知らなかったが、そこそこ有名な人らしい。


まあ、悪くはなかったが、私はいなくてもいいと思った。


スザンヌヴェガが一人でギターを弾き語りしてくれても全然よかった。


スザンヌヴェガはもう50過ぎで、子供もいるのだが、若々しくて、「かわいい」という感じで、

歌声はいつもiPodで聴いているのと全然変わらなかった。


MCは、英語でペラペラしゃべる。「ドウモアリガトウ」なども言うが、

普通に英語でしゃべりかける。


会場にはガイジンもけっこういて、彼らが彼女に答えていた。



スザンヌヴェガのライブを見れただけで大満足であったが、

心の底から感動したというほどではなかった。


というか、なんだか後味の悪い思いさえした。



ライブの後にサイン会があるという情報を事前に知って、

小さなノートを用意していた。


ライブが終わって、サイン会に参加する人は残るように、というアナウンスがあって、

30分くらい待って、サイン会が始まった。


スザンヌ・ヴェガと、Garry Leonardが座って、サインをしていた。

私は黙ってノートを差し出し、サインをもらうと「Thank you」と言った。

スザンヌ・ヴェガも、「Thank you」と言ってくれた。



何か一言話しかけている人もいた。握手をしている人もいた。

でも私はthank you というのが精一杯だった。



近くで見たスザンヌ・ヴェガは楠田エリコみたいだった。


あまりジロジロは見られなかった。

というか、全然見られなかった。


正直、近くで見たりサインをもらったりする必要は全然なかった。



なんだか、その夜は複雑な心境だった。


2014/02/21

The Ballad of Ira Hayes

先日twitterのあるbotだったと思うが、elvis presleyともう一人が並んで写っている写真が添付されていて、それはロックの殿堂とフォーク(カントリーだったかな)の殿堂の両方にはいっている二人、と紹介されていた。

elvisでないほうは誰だかわからなかったのだが、ちょっと調べてジョニーキャッシュだとわかった。

ジョニーキャッシュという名前は聞いたことがあったが、どんな人でどんな歌を歌っているのかも知らなかった。

そこで彼のベスト盤のようなものを入手して聴いてみたら、すごくいいなと思った。

声は低音で、エルヴィスと似ているが、もっと低くて、朴訥というか、飾りのない声である。


そして、The Ballad of Ira Hayes という曲があった。

この曲は、Bob Dylanが歌っているのを聴いたことがあった。


ジョニーキャッシュの曲なのか、と思ったら、それもカバーでPeter La Fargeという人が作った曲らしい。

3人の歌うのを聴いてみたが、それぞれまったく別の曲である。


Bod Dylanのはとても劇的で、感傷的といってもよい。

ジョニーキャッシュのは淡々としている。 Peter La Fargeのものもそうだ。


もともとは、ほとんど語っているような歌である。



Ira Hayesというのは実在の人物で、インディアンの血を引くのだが第二次大戦でアメリカのために戦って、硫黄島で何人かの兵士たちが星条旗をたてている有名な写真に写っている一人だそうだ。

彼は英雄扱いされたのだが戦後は不遇な人生を歩み酒におぼれて若くしてなくなった。


そのことを歌ったのが The Ballad of Ira Hayes である。


Dylanの歌うのを聴いたときは歌詞に興味を持たなかったのだが、

淡々と歌われていたジョニーキャッシュのを聴いたときのほうが、歌詞に興味を持った。


ジョニーキャッシュはNashville skylineでdylanとデュエットしている。

それは聴いたことがあったが、あれはちょっと気負いすぎというか、いつものジョニーキャッシュではない。











2014/02/20

マルクス・アウレーリウス 「自省録」

岩波文庫。神谷美恵子訳。

1956年第一刷、1981年第29刷の、古本屋で買ったものである。


著者のことは、世界史の授業で「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」という、ローマ皇帝の中でも五賢帝の一人で名君として有名な人物だとして習って知っていた。

また、後漢書にある「大秦王安敦」は彼のことだと覚えていたが、彼またはアントニヌス・ピウスと言われているようだ。


とくに何かを論じているというわけではなく、短いつぶやきのようなものの集まりである。

「自省録」と言っても、自分のことを見つめて反省しているというより、万人に対して、人はこのように生きるべきだと教え諭すような言い方である。


西暦121年に生まれた人であるが、言っていることは現代でもほとんど「常識」であるといってもいいくらいに違和感がない。


人物としては繊細で温和で内向的で、両親や教師などに非常に愛されたのだろうな、ということがうかがえる。


私はこれを寝る前に少しずつ読んでいったのであるが、だんだん、「この人はイエスを、キリストをどう思っていたのだろうか」ということが知りたくなった。

「神」という言葉はたくさんでてくるのだが、それはもちろんキリストのことでもなければ聖書にでてくる神でもない。

プラトンやソクラテスの名前がよく出てくる。

解説などによると彼の思想は「ストア派」に分類されるらしい。

禁欲的で、自然に従うことを説いている。



キリスト教については、まったく触れられていないと言ってよい。解説にも「言及しているとおぼしき箇所がいくつかあるがきわめて皮相」とある。


マルクスアウレリウスの時代はキリスト教が迫害されていた時代にあたる。

解説では彼は以前からの法律を踏襲していただけで積極的に迫害していたわけではない、と書いてある。

たしかに、「自省録」に書いてあることを考えているような人であれば、熱心に説かれたらキリスト教は受容されたのではないかと思える。


彼はいわゆる「まじめないい人」である。

おそらくキリスト教は狂信的なカルトであると認識していて、それがどんなものかなど興味ももたなかったであろう。


本書については、わたしはそれほどすばらしい名著だとは思わなかったし、著者についても尊敬にまでは至らなかった。

それはなんといっても、世界についての苦悩や、矛盾に対する疑問のようなものがほとんど見られないからだ。

子供をあいついで亡くしていて、それについて何度か触れられているが、結局しかたがないことだからあきらめるべきだと言っている。



「賢帝」とか「哲人皇帝」とかいっても、なんせローマ皇帝だからね。

何不自由なく暮らしていたはずだ。たくさんの人の貧しい暮らしの上で。






谷崎潤一郎 「細雪」 上

古本屋できれいな文庫本があったので買っておいたもの。

細雪はずっと前から読まねばならないと思っていたがなかなか読めなかった。

谷崎潤一郎の作品は、春琴抄、痴人の愛、鍵などを読んで、おもしろいなと思っていたが、細雪は読み始めるものの世界になかなか入っていけず、すぐに読むのをやめてしまっていた。

私が読んだ他の作品のように、この作品には劇的なことが起こらない。もういい年頃なのに独身の女性の縁談というのが一応話の核のようになっているが、それも見合いをするものの特に魅力的な相手でもなくなんとなく気乗りせずに破談になったりする。

それ以外には特になんということもない日常が淡々とつづられる。その中にはクスリとしてしまうようなエピソードもときどき挟まれるが、はっきり言ってしまえば退屈である。

谷崎潤一郎という人はどちらかというと浪漫派というか、劇的で過激な話を書く人というイメージがあったのだが、細雪はそうではなく、自然主義というか、リアリズムというか、現実的な描写に徹している感じだ。

登場人物の心理にもあまり触れない。登場人物はそれほど激しく悩んだり苦悩している様子もない。

上巻の最後では雪子の縁談と破談、それと同じころに起きた幸子の流産という、ちょっとした山場があって終わる。


なんとか「世界」が見えてきたので、中、下が楽しみになってきた。


ちなみに、冒頭の「こいさん、頼むわ」というセリフであるが、わたしはこれを何十回と読んでよくわからなかったのは、「こいさん」と呼ばれたのは「妙子」なのになんで「こいさん」なのかということだった。

少し話が進んだときに説明がある。

「『こいさん』とは『小娘(こいと)さん』の義で、大阪の家庭で末の娘を呼ぶのに用いる普通名詞であるが」


2014/01/20

飛んでイスタンブール

先日ある飲食店で、「飛んでイスタンブール」がかかっていた。

流行ったのは私が小学生高学年の頃である。


歌詞の意味はさっぱりわからなかった。

「イスタンブール」を知らない。

それが地名であることすら知らない。



今になってあらためて聴いてみると、もう固有名詞はどんなものかはわかっている。


そして、これもおかしな詩だなと思った。


「いつか忘れていった こんなジタンの空箱

ひねり捨てるだけで あきらめきれるひと」


ジタンとはタバコの銘柄の名前である。


日本人にはあまりなじみのない名前だ。



その人がそのタバコを吸っていたのだろう。



「いつか忘れていった」とあるから、別れた人のことなのだろう。

歌手は女性だし、おそらく女が男を思い出して語っているのだろう。


この詩も、「いわんとしていることはなんとなくわかるが文法的におかしい」

類の詩である。



詩とはそういうものだと考えている人がいるかもしれないが、
私は絶対にそうだとは思わない。

支離滅裂になんとなく雰囲気がいい言葉をならべてごまかすのが詩ではない。



「いつか忘れていった」のだから、それははっきり憶えていないのである。


「こんなジタンの空箱」とあるが、ここで「ジタン」というちょっとめずらしい固有名詞が登場するので惑わされてしまうが、


「ジタンの空箱」という、特定の箱が示されている。


それも、誰もが吸うタバコではない。

となると、その印象は強烈で、誰のものでいつのことかもはっきり覚えているはずだ。



「ひねり捨てるだけで あきらめきれるひと」



これは女が、男がおいていったタバコの空き箱をひねり捨てて、

それだけで忘れられるような、特別な思い入れもない、そんなに深くない関係だったのだろう。


だが、「いつか忘れていった」とあるから、

その関係は少なくとも一夜だけではない。


空き箱を忘れたことが「いつか」ということは、結構長い間関係を持ったはずである。


簡単にあきらめ、忘れられるといいながら未練を断ち切れない、という詩なのだろう。


だが、基本的な事実関係がしっかりしていないので、信憑性も、現実感も、必然性も、

切迫感もない。


たぶん、作詞者もそれはわかっていて、あえてあいまいに、意味が不明瞭になるように書いたのだろう。


「おいでイスタンブール」

「飛んでイスタンブール」


意味はないのだ。


彼女がイスタンブールにいるのか、かつていったことがあるのか、

それすらもはっきりしない。


誰が飛ぶのか。飛んでくれと頼んでいるのか。


ただごろがよかっただけなのか。







2014/01/13

Tilda Winston

Tilda Winstonはブロークン・フラワーズにも、リミッツオブコントロールにも出ていた。


「リミッツ・・・」はなんとなく思い出したが、「ブロークン・・・」はどこだったかな・・・


Only lovers left alive

ジム・ジャームッシュの新作が2013年12月に公開されていたのを、年が明けてから知って見に行った。

有楽町のTOHOシネマズシャンテで見た。

日曜日の14:25からの回だったが、客はけっこう入っていた。6、7割はうまっていただろうか。


吸血鬼の話である。


タンジールの街並みが美しい。

主人公(と私はとらえた)のイヴ(tilda winston)が美しい。

何歳だろう?と思って観終わったあと調べたら50を過ぎていた。
名前はなんとなく聞いたことがあるような気がするが、知らない女優だった。

主人公はおそらくアダムなのだろうが、この人物がちょっと透明すぎた。

アダムとイヴはどちらもものしずかな常識人で、映画は静かに落ち着いて、悪く言えば退屈に進んでいくのだが、妹のエヴァが登場して雰囲気が変わる。

エヴァはまだ子供の無邪気な女の子である。


この3人ともう一人、年老いた吸血鬼が登場するのだが、彼らが吸血鬼であることの描写や説明はほとんど最低限に抑えられている。

血を飲んだ後に口をあけて恍惚の表情になるときに歯が見える。


中盤くらいになって、私はジャームッシュの映画にはあまり急激なストーリー展開などなく、いつのまにか終わってしまうんだろうなと思っていた。



終わって映画館を出るときには駄作だな、と思った。
これは「リミットオブコントロール」の時と同じだ。

でも、吸血鬼がむやみに人に噛み付かず、病院から極秘に血液を譲ってもらってそれを飲んで暮らしている、というのはなかなかおもしろいなと、後から思った。


そういえば、序盤で木製の弾丸を作るのだが、結局最後まで使われることがなかったな・・・・





TOHOシネマズシャンテはちょっと場所がわかりにくくて少し迷った。

いつものことだが、予告が聴覚的にも視覚的にもうるさい。誰が観るか、というような映画ばかり。


それから、あらためて思ったのだがお尻が痛くなる。座っているうちにだんだんずり落ちてきて、姿勢を正すのだが、そのときにお尻が痛い。そして、姿勢を正すときに後ろの人に頭が邪魔じゃないかと気になる。

もう少しスクリーンを上にして、やや前面に傾け、椅子もそれに対応して少し後ろに倒すように設置したらいいんじゃないだろうか。寝転がるのに近い体勢となる。






2014/01/09

ロック(笑)

「どんな音楽を聴きますか?」と言われたときに返答に困る。

iTunesにはいっている曲のジャンルの中で一番多いのは「Rock」で、1000曲くらいあった。

だが、私は「ロックが好きです」とは口が裂けても言えない。

そして私はボブディランとかザフーとかセックスピストルズとかを聴いているときに「ロックを聴いている」という意識はまったくない。


そもそも音楽にジャンルなどあるのだろうかというのが私の考えであり、ジャンルなどというものは無視している。


さらに、「ロック」に関しては、スピリッツというのか、メッセージ色とか、ポリシーとか、反骨精神、反逆、反体制みたいなものを帯びていなければならないとされているようなところがある。


「そんなのロックじゃない」「ロックってのはこういうもんだ」

などと、「ロック」のファンやアマチュアミュージシャンはよく言う。プロはあまり言わない。

「ロック」に関してのミュージシャンの発言で私が知っているものをあげる。


「ロックは死んだ。セックスピストルズは史上最高のロックバンドだった。」(ジョンライドン)

「俺はザ・フーは世界で唯一のロックとは何かがわかっているバンドじゃないかと思うことがある」(ピート・タウンゼント)

「ロックンロールに別の名前をつけるとしたら『チャック・ベリー』だ」(ジョン・レノン)



ロックンローラーは強い酒を飲まなきゃいけないとか、無鉄砲で後先考えないとか、大衆にこびないとか、そういったつまらないこだわりがまとわりつくのがいやなので、私は「ロック」というジャンルわけを好まないのだ。


だが、確実に「ロック」という音楽のジャンルは存在しているとも思う。

ロックは誰が始めたのか。ビルヘイリー&コメッツだとか、チャックベリーだとか、エルヴィスプレスリーだとか、ビートルズとかローリングストーンズだとか、諸説あるが、ブルースが源流であるのは間違いないだろう。

そしてブルースというのは私は「無調音楽」だと思っている。

ブルースの音階は長調でも短調でもない。


そして、ロックはブルースと何が違うのかというと、シャッフル性がなくなったものだと私は理解している。ブルースはタッタタッタタッタタッタという、ハネるリズムであったが、ロックではズッタンズッタンあるいはズタタタズタタタという、直線的というか平板的なリズムを特徴としている。


その生み出す世界はやはり無の世界、虚無の世界である。





2014/01/06

くちなしの花

今朝バスを待っているときに腕時計のバンドがゆるいので締めなおしていたら、「くちなしの花」を思い出した。

いまでは指輪もまわるほど
やせてやつれた おまえの噂

この詩はなんかおかしい。
「指輪がまわるほどやせる」というのはあまり聞かない。
かなりのやせ方だ。

さらに、それが「噂」になっているのである。

人がやつれたときに、「あの人やつれて指輪もまわるくらいらしいよ」と言うことはありえないだろう。

「すっかり頬がこけて・・・」
「白髪が増えて・・・」

他人が見て「やつれた」というのはその程度であって、「指輪がまわる」というのは自分自身を見つめているときにしかわからないことだ。


そしてもうひとつは、

くちなしの白い花
おまえのような花だった

「くちなしの花のような女性であった」

これはよい。

しかし、「くちなしの花はあの女性のようだった」というのはおかしい。

「くちなしの花のような女」というときの「花」は、もちろんその花の性質、つまり色とか形とかあるいは匂いなどを言うのであって、特定の花ひとつを指すのではない。

だから、たとえその女が過去の、別れた女であったとしても、くちなしの花に似ていたという事実は変わることがない、つまり過去形にはなりえない。


「やせてやつれて」くちなしの花のようではなくなってしまった、という場合であれば、

「おまえはくちなしの白い花のような女だったのに」などというべきである。


この歌の場合は、「くちなしの白い花を見ると、その花に似ていたおまえのことを思い出す。おまえはくちなしの花のような美しい女だった」ということがいいたいのであろうが、文法的にそうなっていない。



もちろん私もそんなことを気にして聴いていたわけではなく、
言いたいことはわかっていたが、
やっぱりこの詩はあまりよくない詩だと思う。