2013/10/27

My back pages

Another side of Bob Dylan に収録されている曲で、The Byrdsがカバーして有名になった。
原曲は三拍子である。
30th anniversaryでそうそうたるメンバーが交代で歌ったのはThe Byrdsのバージョンである。
youtubeでカバーしている人はほとんどがbyrdsバージョンだ。「Bob dylanのmy back pages」と言いながら。
私はオリジナルの三拍子バージョンの方が断然好きだ。
ここ2週間くらいずっとこればかり聴いているのだが、歌詞の意味がよくわからない。
Crimson flames tied through my ears
Rollin’ high and mighty traps
Pounced with fire on flaming roads
Using ideas as my maps
“We’ll meet on edges, soon,” said I
Proud ’neath heated brow
Ah, but I was so much older then
I’m younger than that now 
出だしからいきなりわからない。crimson flames は真紅の炎、真っ赤な炎でいいとして、それが
tied through my earsとは? tied through という言い方は聞いたことがないが、~を通して結ばれるというようなことだろう。しかし、「真紅の炎が私の耳を通して結ばれた」とはどういうことか?

Rollin' high and mighty trapsここで区切れるのだと思っていたが、「migty traps」の述語がない。次の行に続くのか。それから mighty traps とは何か。強力な罠?

Pounced with fire on flaming roads
pounceという動詞も聞いたことがない。「急襲する」「責めたてる」という意味だそうだ。
「燃える道の火とともに急襲した」
using ideas as my maps
「概念を私の地図として使用して」
ここまでが一文なのか。

無理やり訳してみる。あえて直訳ぎみに。

「私の耳を通して結ばれたはげしくうねる真紅の炎と強力な罠が燃える道の火とともに概念を私の地図として使用し襲い掛かった」


"We'll meet on edges, soon," said I

「私たちは縁の上で会うでしょう、すぐに」と私は言った。
said I とひっくり返すのは時々見る。

edgesとは何か。崖とかそういう意味ではない感じだな。複数形だし。

on an edge でもなく on the edge でもなく、 on edges


Proud 'neath heated brow

このproudは過去分詞だろうか。browは、眉、額

「『私達は縁の上で会うでしょう、すぐに』と私は熱した額の下で自慢げに言った」

proundをこんな風に使うかな・・・ただ、proud, brow, now と韻を踏ませているだけかな・・・


Ah, but I was so much older then I'm younger than that now

「今より昔の方が老けてた」というだけの意味ではないような気もするが・・・

Half-wracked prejudice leaped forth
“Rip down all hate,” I screamed
Lies that life is black and white
Spoke from my skull. I dreamed
Romantic facts of musketeers
Foundationed deep, somehow
Ah, but I was so much older then
I’m younger than that now 

half-wracked は wreckedじゃないかと思ったが wrackedと言っている。
wrackは名詞だと波に打ち上げられた海草、難破船、漂着物だが、
動詞だと、苦悶させる、さいなむ、動揺させる、震撼させる・・・
偏見を主語として述語となるものは・・・

偏見が前方に跳ねる

すべての憎しみを引き裂け、私は叫んだ

人生は黒と白だと嘘をつく(のは誰?何?)

私の頭から喋った、私は夢見た

銃士のロマンティックな事実

foundationed は文法的におかしいが、故意か。


訳す気にもならない・・・


Girls’ faces formed the forward path
From phony jealousy
To memorizing politics
Of ancient history
Flung down by corpse evangelists
Unthought of, though, somehow
Ah, but I was so much older then
I’m younger than that now 
少女達の顔が前方経路を形成する
俗悪な嫉妬から記憶している古代史の政治家までの


軍団の伝道師によって飛びかかられた

考えてもみなかった、だけど、

A self-ordained professor’s tongue
Too serious to fool
Spouted out that liberty
Is just equality in school
“Equality,” I spoke the word
As if a wedding vow
Ah, but I was so much older then
I’m younger than that now 

自己規定の教授の弁舌は軽蔑するには深刻すぎて
自由は学校の中での平等であるととうとうと弁じた

”平等”、私はその言葉を結婚式の誓いのように言った。

In a soldier’s stance, I aimed my hand
At the mongrel dogs who teach
Fearing not that I’d become my enemy
In the instant that I preach
My existence led by confusion boats
Mutiny from stern to bow
Ah, but I was so much older then
I’m younger than that now 
兵士のような構えで私は自分の手をモンゴル犬に向けて構えた

mongrel dogs who teach
は、意味はヘンだが文法的には「犬が教える」となる。

私が私の敵になるとは恐れずに

私が説教する刹那には

私の存在は混乱の舟に導かれる
船尾から舳先に起こる反乱

Yes, my guard stood hard when abstract threats
Too noble to neglect
Deceived me into thinking
I had something to protect
Good and bad, I define these terms
Quite clear, no doubt, somehow
Ah, but I was so much older then
I’m younger than that now
そう、私の護衛は中傷が脅すと堅固に立ち
あまりに高貴で無視できない
だまされて考える
私は何か守るものを持っていたと

善と悪、私はこれらの用語を定義する
明確に、疑いなく、



・・・


難解なのか。本当に天才の書いた難解な詩なのだろうか。

まだ20代前半のBob Dylan。


彼の詩はときどき、ん?と思うフレーズが出てくることはあるが、
ここまでわけのわからない曲はあまりない。


わざと意味がなく支離滅裂に書いたのか、もしくはクスリでラリっているときに作ったのか、などとも考える。


ただ、歌い方が非常に力強く、咆哮するようで怒っているようでさえあるので、
あまりいい加減に書いたとは思えない。






2013/10/13

「R100」はなぜ受けなかったのか

R100の評判はかんばしくない。

ネットで検索するとほめている人は皆無である。


客の入りも悪いようで、私が観にいった劇場は地方の小さなところだが、
封切りから一週間たった三連休初日の土曜日18:10からの回で私を含めて3人しかいなかった。


この映画がなぜ受けなかったのか、よくなかったところ、疑問に感じたところなどを書いてみたい。


ある客がある映画を観るかどうかは、宣伝や試写を見た評論家のレビューなどから判断するのだろう。あとは監督や出演俳優の熱烈のファンであれば、どんな作品だろうと観にいく人もいるかもしれない。私がそうである。

だが、現在は松本人志の映画ならなんでも観たい、という人はほとんどいなくなってしまったようだ。過去三作で愛想が尽きたのだろうか?

私は松本監督は異色作を撮る人ではあっても、決して駄作を作る人ではないと思っているのだが、どうも、人々が映画に求めるものは私とは違うようで、納得感とか、胸のすくような感じ、石原慎太郎がよく言う「カタルシス」、登場人物に感情移入できること、泣いたり笑ったりできること、などであるらしい。



「R100」は私はおおいに楽しんでもう一回くらい観てみようと思っているが、『これは客がヒくだろうな』と思ったのは、女王様が寿司を叩き潰すシーンと、唾を吐きかけるシーンだ。どちらも1、2回ならSMだし、笑って済ますことができるが、執拗に繰り返される。ここは意図して繰り返されたのかもしれないが。


それから、『これはいらないんじゃないか』と思ったのが、中盤から現れる「R100」の製作スタッフのような人物達が登場し、映画についての諸設定が「自己批判」されるところ。これは大日本人で最後に「実写」シーンに切り替わったときのように、興ざめするというか、逃げじゃないかと思わせるようなところだ。ただ、もしこれがなかったら奇抜すぎて観客はついていけないかもしれない。


あとは、病気の妻とその父親の存在。私は途中で、主人公がM行為におぼれるのは病気の妻が苦しむのを代わってあげたいというような動機で、昏睡状態の妻は最後に目覚めるのではないかと思ったが、なんと妻も父親も女王様に丸呑みされてしまう。

終盤、Mだったはずの主人公が女王様達に戦いを挑み、虐げられた時にあらわれる喜びの表情が、戦っている最中に現れる。

そして女王様中の女王様、劇中では「CEO」とされる金髪白人の大女と二人きりで小屋に入っていく。その中で何がおこなわれたかはわからないが、小屋は光り輝いてベートーベンの歓喜の歌が流れる。

そして最後、主人公はお腹が大きくなる。裸になってお腹が大きくなった姿が映し出される。太ったのではなく、あきらかに妊娠した大きくなりかたである。そしてとなりにパンツ一枚の息子がいて笑っている。

息子が弟が欲しいと言われた、というシーンがあるのだが妻は病気で寝ていた。

その妻は女王様に食べられてしまい、主人公はおそらくCEOの子供を宿したのである。

CEOは女王様の中の女王様、つまりS中のSだ。ドMの主人公がドSの血を引く子供を宿したのである。

・・・

「ストーリー」というものを説明したら、こうなってしまう。

こんな内容だと聞いたら、バカらしくて観る気をなくすのも無理はないかもしれない。



この映画について、「主人公がどうしてこうなったのかが語られない」というようなことをメインにして批判しているブログを読んだのだが、私はこの映画について、そんなことは考える必要も説明する必要もないと思う。

ただのドMで、仕事は忙しいが退屈で、妻は病気で、楽しみがなくて変なクラブに入会したのだろう。



あと、地震が起きたのかと勘違いして起きていない、というシーンが3回くらいある。これについては「製作スタッフ」も指摘をして特に意味がないことが暴露される。


実際によくあることで、ある意味「あるある」的なおもしろさを狙ったのだろうか。それを三度も繰り返すことで、で、何もないのかよ!というものかもしれない。松本人志がふだんよくやっておもしろがっているように。



妻とその父が丸呑みされてしまうのも、観客に回復するのだろうかと期待させておきながらあっさりと裏切ってどうでもよくしてしまう。

主人公も息子も、自分の妻や母親が丸呑みされてしまったことを悲しみすらしない。

そんなことすらどうでもよく、ただ喜びというか快楽のみを追求する。


私が一番おもしろかったのは、その息子(嵐君という変わった名前である)がSMクラブとの戦いが始まって逃げている途中で車にひかれそうになり、その車の助手席の女性に「そんなところにいると引いちゃうわよ」と言われて、父譲りの例のCGによる恍惚の表情になるシーンである。


その助手席の女性は特に女王様ではない普通の女性で、それも、女優ですらないような、セリフもヘタクソないわゆる「素人」なところがまたおもしろかった。



私は「さや侍」の感動的な感じにはちょっと辟易したので、今回の映画の方が気持ちよく観ることができた。4作目にしてようやく、松本人志らしい、気負いのない作品ができたのではないだろうか。そうなったときに、それがヒットしなかったとしても、それはどうでもよいことだ。

松本氏も、吉本興業も、ファンですらそう思っているのではないだろうか。


興行収入がどうこうなどということには全く興味がない。ヒットすればそれは好きな人の作品だからうれしいことはうれしいが、売れたから成功などというのはいやらしい考えだ。

Mというのは、そういう世俗的な喜びに背を向けるものだ。松本人志は明らかにMである。ドMである。それは公言している。でも、その公言の仕方は単に性的な嗜好をカミングアウトしているようなものではなく、自分の生き方、ポリシーを表明しているようなところがある。

私もSかMかといわれればMだ。自ら苦しむようなことをして、「お前はMか」と言われることがよくある。だが、自分でもびっくりするくらいの加虐性が潜んでいることも自覚している。


この映画は、「真のMとは何か」を追求したものでもなく、「誰でもMとSの二面性を持っている」とか「Mだっていいじゃないか」などということを訴えているものでもない。


松本監督が考えている「SとM」というものは、世間一般で「あたしってM」「僕ドMです」「俺めっちゃS」などと言って喜んでいるものよりも、もっと高次な段階のものである。


2013/10/12

R100

最高傑作。

映画館には私以外にカップルが一組だけだった。

映画が始まる前の20分くらいの広告や予告編にイライラする。


ようやく本編が始まる。

最初に映るのはトイレの個室の上の部分で、タバコの煙が立ち昇っている。

そういった、美しくない絵にならないカットから唐突に始まるのは大日本人と同じ感じだ。

本作は形式的には大日本人と似ている。

しかし、全編に渡って地味だ。爆笑したり涙が出るような場面はない。

映像はモノクロというか、セピア色である。


電話をするシーンが何度かあるが、携帯電話ではなく、一昔前の電話機や公衆電話である。

あまり意味はないかもしれないが時代は現代よりやや古い設定のようだ。



この映画で一番よかったのはCGの使い方である。


主人公は女王様に虐げられると表情が変わる。その表情の変化は演技によるのではなくCGで作られる。顔が丸くなってて目が細くなる。朝青龍のような顔だ。


基本的に面白いのはそこだけだ。


終盤に少し展開の変化があるが、それは特に注目すべきところではない。


今までの作品にあったような、正義とか親子とかいったようなテーマもない。

しいて言えばSM、特にMについてがテーマかもしれないが、そんなに深刻に考えるようなものでもない。


ナンセンスで支離滅裂な内容である。


そしてそれこそは、松本人志に、少なくとも私が求めるものである。