2013/07/29

西内啓 「統計学が最強の学問である」

私は小説以外の本はあまり読まないのだが、この本にはちょっと興味を持って、電車の中などで少しずつ読んだ。

最近、「ビッグデータ」という言葉をよく聞くようになって、それにともなって統計学が注目され始め、「データサイエンティスト」なる職種まで登場してきた。

本書は、統計学がいかに有効で便利であるかをごく穏便に述べたものであって、タイトルほど挑発的なことは語られていない。「なぜ最強なのか。ほかの学問にくらべて何が優れているのか」といったことは全く語られていない。


私は新聞や電車の中などに大きく広告を打たれる、「○○が△△な理由」とか「・・・・になる方法」「○○はなぜXXなのか」など、あまり興味が無いけどその答えだけはとりあえず知りたい、と思わせるようなタイトルの本は読まないのだが、今回はまんまとタイトルにやられてしまった。


この本は、普通にタイトルをつけるなら「ビジネスに役立つ統計学入門」などになるだろう。それでは売れないだろうが。

1600円あったら、文庫本が何冊も買える。100円の古本なら16冊買える。絶対そっちの方がためになる。と思った。

2013/07/17

田中慎弥 「図書準備室」

芥川賞受賞作の「共喰い」を読もうと思ったのだが立ち寄った本屋にはこれしかなかった。

「図書準備室」と「冷たい水の羊」の2作がおさめられている新潮文庫である。

デビュー2作目とデビュー作だそうだ。


とりあえず「図書準備室」を読んだ。

主人公が法事が終わった後親戚相手に延々と独白する。

その独白のなかである教師のことが語られる。

独白のテーマはなぜ主人公が働かないのかということなのだが、話をきいてもどうしてそれが理由になるのかはわからない。それはさておいても、主人公がその話をした動機がよくわからない。

戦争とかリンチの話が出てくるのだが、それらを非難するような様子でもない。


長い独白が終わると、いつの間にか話し相手は小さな女の子になっている。


不思議な作品である。

この作品は芥川賞の候補になったそうだ。




田中氏の作品はあまり読む気をそそられなかった。西村氏が「40過ぎて風俗に通うフリーター」で、田中氏は「工業高校を出て一度も働いたことのない30過ぎの男」、というように紹介されて、「またいわゆる『ダメ人間』か」と思ったからである。


だが、作品を読むとそのようなイメージはなくなり、どうやってこのような文体や語彙を身につけたのだろうと感心するばかりである。

二人の作品を読んだのは芥川賞がきっかけである。わたしは現代作家の作品をほとんど読むことがないが、芥川賞は新聞、テレビ、ネットでも非常に大きく報道され、数ある文学賞のなかでも最も権威があるとされているようなところがあるので、わたしも芥川賞受賞作くらいは読んでおこうか、と思う。

ただ、それでもすべての作品を読んだわけではない。作者の生い立ちとか、年齢などに興味を引かれて読むのである。



作家の人生とか生活というものと、作品は切り離して考えるべきであろうが、どうしても小説を読むとその作家がどうやって生きているのか、生きていたのかということは気になってしまう。やはり小説にはその人の生き方が反映される。それは、にじみ出るというよりは主張に近い。


もしその主張が、「戦争反対」であったり、「勤勉」であったり、「科学技術の発達こそが生活を改善させる」というものであったら、その人は小説家にはならなかっただろう。

しかし、そのような主張であったほうが、その人の人生は「まとも」なものになっただろう。


だから作家は非常識だったりまともな勤め人に向かないのだ、と考えることはできる。私もそういう作家に興味を持ってしまう。

だが、それは小説というか文学の本質とは別のものだと思う。文学とはたしかに健康で明朗で社会に貢献することを説くものではないが、それから逸脱していることをまるで自慢し競い合いでもするかのようなものでもない。


「いわゆるダメ人間の書く小説」というものはそういう理由で、あまり読みたくないし、読んでも得るものが少ない。


じゃあ、誰がどんなものを書けばよいのか。

それは難しい問題であるが、ひとついえるのは、自意識過剰でないものである。小説によって自分を主張したり自分を売ろうとしないようなものである。

歌うような小説である。歌というのは相手を感動させるためというよりは、自分が感動して自然に口をついて出るようなところがある。何のために歌うかとか、どうやったらいい歌が歌えるかなどを考えなくても歌える。そして歌詞はあまり重要でなく、時にはララララとかフフフンなどという無意味な音ですらいい場合がある。

小説でもそのようなものを好む。滅多に出会えないのだが。

2013/07/11

小林秀雄 「一ツの脳髄」

新調文庫の「Xへの手紙・私小説論」に収録されている最初の作品である。

この文庫本は「様々なる意匠」を読みたくて買ったもので、とりあえずそれだけ読んで放ってあったものだ。

今日、外出中に時間があって読んでみたらおもしろかった。

小林秀雄というのは評論家で、論説文を書く人だと思っていたが、この作品は論説ではない。

小説というよりは、散文詩のように感じた。


文章は淡々とした描写が続いて、筆者のポリシーとかメッセージのようなものは全くといっていいほど見えない。


とくに劇的な情景が描かれるわけでもない。

大どんでん返しがあるわけでもない。

だが、私はこの短い作品を読んでいて心地よさを感じた。こういう文章を書いてみたいと思った。

「すべらない話」というテレビ番組があるが、「オチの無い話」というテーマで、みんなが淡々と描写したらおもしろいんじゃないか、などと思いながら読んでいた。


松本映画における親子観

「R100」には今までのようなテーマがない、と書いたが、親と子ということが非常に重要なテーマのひとつであることに気づいた。

「大日本人」、「さや侍」でも親子が描かれた。「しんぼる」でも、年老いたレスラーが登場した。


「R100」では、主人公の妻の父が登場する。そして息子。そして、主人公は男なのに子供を宿すという奇妙な展開になる。

息子は父譲りのMである。

実の母は病気で家庭には不在だったがさらに丸呑みされていなくなってしまった。

父は怪物のようなドSの外国人女性の子を宿している。嵐君にとってお母さんになるのか。


大日本人でも、年老いた父親があっさり死んでしまうシーンがあった。

でも、登場人物達が自分の親や妻を気遣っている様子も描かれる。


確かに、人の死など、怪物に丸呑みされるようなものかもしれない。

主人公はどんな子を生むのだろうか。





2013/07/08

Prince

Princeって、Bob Dylanに似ているところがある。

一般的にはこの二人は全然違うジャンルのミュージシャンで、どちらかが好きな人はもう一方をあまり好きでないのではないだろうか。

具体的にどのアルバムがとかどの曲がとか、ということは言えないのだが、何度か、プリンスとディランって共通点があるなあ、と思ったことがある。

Dylanの Knocked out loaded というアルバムの、 Driftin' too far from shore という曲があるのだが、そこでキーボードの印象的なリフが演奏されている。

私はこの曲が気に入っていた。カッカッカッ、チャチャチャ! というシンプルなイントロで始まる。

そのチャチャチャ!というのがシンセサイザーで弾かれているのだが、これを弾いているのはボブディランである。そして、そのリフは、プリンスの When doves cryを聴いて思いついたそうである。

ディランとプリンスの接点として、自分の感覚以外で知っていることはこれだけである。


私は高校生の頃、貸しレコード屋でレコードを借りることをささやかな趣味としていた。
借りるのはほとんどが洋楽だった。

当時、テレビでベストヒットUSAという番組が土曜の夜に放送されていた。
私は子供の頃はラジオでランキングの番組、当時は「ベストテン」と呼ばれていた、をよく聴いていたが、中学生になった頃から洋楽を聴くようになった。

私が高校生になった頃、プリンスは商業的にもっとも成功していた時期だった。

私はプリンスはあまり好きではなかったのだが、大ヒットしていたので、とりあえず聴いてみようと思って、貸しレコード屋で 1999 を借りた。

90分テープに録音して、何度か聴いた。

なんだか気持ちが悪いな、と思っただけで、特にいいとは思わなかった。

だがその後、Parade, around the world in a day, sign o'the times などを借りたり買ったりして、プリンスの主要作はだいたい聴いてきた。

そして今。初めてプリンスを聴いてから30年近く経った。

iPhoneには彼のアルバムがほぼ全部入っている。

今聴くと、1999は大傑作だと思う。

私はどんなミュージシャンでも、初めて聴いたアルバムがほとんど全部最高傑作になってしまうのだが、1999もそうである。

多分、最初に聴くときは世間で評判がいいものを選ぶからそうなるのだろう。

もうひとつは sign o'the times である。これは発売直後に何度も繰り返し聴いた。

そして、プリンスはギタリストとしても非凡である。

それから、ライブがいいミュージシャンである。

見た目はゲイっぽいのだが、そして私はずっとゲイだと思いこんでいたのだが、そのケはないようだ。

それどころか、同性の結婚について否定的なコメントをしてさえいる。

2013/07/07

東京国際ブックフェア 読書推進セミナー 「人生を楽しく豊かにする読書法 教えます!」

平野 啓一郎、田中 慎弥、柴崎 友香の三氏によるトークショー。

無料だったので予約して観にいってきた。


来場者はけっこうたくさんいて、会場も予想していたよりも広かった。


この三氏の中で作品を読んだことがあるのは平野氏だけだ。

平野氏はtwitterをfollowしていて、彼についてはどういう人間か、自分なりに把握できている。

彼が芥川賞をとってからずっと、気になっていた。それは三島由紀夫、森鴎外、キリスト教といった、現代ではあまり注目されない世界に関わっている人だったからだ。

twitterのツイートを読んでいても、常識があるというか、冷静というか、理性的というか、とにかく非凡な人だなあと思う。



私は読書法については常々迷いがあるというか、苦労している。

「本を読め」というのは多くの人が言うことであるが、「読書」が意味するものはあまりに広い。


私にとって読書とはいわゆる純文学作品、古典とか名作とされているものを読むことである。

金儲けとか出世とか時間を有効に使うとか、そういったハウツーものとか、単に情報収集としての読書、あるいは教養としての読書というのは、私には興味のないものだ。

このブログで記録している読書録にも、そういう類の本は一切ない。



このセミナーのことを知って、おそらく私が求めている読書についての話をしてくれるだろうと思った。



セミナーは平野君が仕切り役となって進行していった。こういうことをできるのが彼である。


子供の頃の読書体験から、学校の国語の授業のこと、自分が作家になっていく過程などが語られた。

「読書法」というよりは、作家にとっての読書とはどのようなものであるか、というようなことが多く語られた。



印象に残ったのは、田中氏の、「読むように書く」という言葉である。


田中氏は、小説を書くときにあまり計画を立てずに、ひとつの文を書いたら、その文につながる文を書いていくのだという。


また、小説にはテーマとかメッセージとかいうものがあるのではなく、小説そのものが伝えたいことである、ということも言っていた。



セミナーの終わりに、来場者からの質問に答える場面があった。


ある人が、「読書していて読めなくなったらどうすればいいか?」という質問をした。

田中氏は、「わからないものはわからないまま読めばよい」というようなことを言った。


私はこのことにも納得した。

読書というと、著者の書いたことに感動して新しい世界を知って、自分が成長する、というもののようにみなされているところがあるが、そんな作品ばかりではない。それは、自分の読解力がないこともあるし、本当に駄作であることもある。


私はなるべく既に評価の固まった、古典とか傑作とかいうものを読むようにしているが、それでも、本当に感動することはまれである。


感動しないのに、わからないのに読む意味はないと思うかもしれないが、わたしは、傑作と言われている作品を読んだが全然おもしろくない、と感じることも非常に貴重な経験だと思う。