2013/12/16

THE MANZAI 2013

よくない傾向が見えた。

それは、とにかく小さなボケを連発するタイプの漫才ばかりだったことである。

バカ騒ぎ、悪ふざけみたいなことを繰り返す。

もうちょっと起承転結というか、物語というか、あるまとまった世界が欲しかった。

感覚だけが競われたような感じだ。

2013/12/12

小林秀雄 「Xへの手紙・私小説論」

新潮文庫。

やっと読み終わった。

忙しくはあったが、本を読む暇がない程ではなかったが、本を読む気力がわかなかった。

電車の中では暇さえあればiPhoneを触ってtwitterなどを見ていた。


最近ようやく仕事が落ち着いてきて本を読む気力がわき、読みかけていたこの文庫を電車とバスの中で読み終えた。

小林秀雄の言っていることを完全には把握できないのだが、冷静で飛躍がなく、偶像破壊者であるという印象を受けた。

常識、中庸ということを語っていることもそれを示している。


血気盛んで飛躍やとっぴな発想があって強力な価値観を生み出すタイプではない。

私は作家というのはそういう人種だと思っていた。


小林秀雄はその正反対で、だから批評をしたのであろう。


2013/10/27

My back pages

Another side of Bob Dylan に収録されている曲で、The Byrdsがカバーして有名になった。
原曲は三拍子である。
30th anniversaryでそうそうたるメンバーが交代で歌ったのはThe Byrdsのバージョンである。
youtubeでカバーしている人はほとんどがbyrdsバージョンだ。「Bob dylanのmy back pages」と言いながら。
私はオリジナルの三拍子バージョンの方が断然好きだ。
ここ2週間くらいずっとこればかり聴いているのだが、歌詞の意味がよくわからない。
Crimson flames tied through my ears
Rollin’ high and mighty traps
Pounced with fire on flaming roads
Using ideas as my maps
“We’ll meet on edges, soon,” said I
Proud ’neath heated brow
Ah, but I was so much older then
I’m younger than that now 
出だしからいきなりわからない。crimson flames は真紅の炎、真っ赤な炎でいいとして、それが
tied through my earsとは? tied through という言い方は聞いたことがないが、~を通して結ばれるというようなことだろう。しかし、「真紅の炎が私の耳を通して結ばれた」とはどういうことか?

Rollin' high and mighty trapsここで区切れるのだと思っていたが、「migty traps」の述語がない。次の行に続くのか。それから mighty traps とは何か。強力な罠?

Pounced with fire on flaming roads
pounceという動詞も聞いたことがない。「急襲する」「責めたてる」という意味だそうだ。
「燃える道の火とともに急襲した」
using ideas as my maps
「概念を私の地図として使用して」
ここまでが一文なのか。

無理やり訳してみる。あえて直訳ぎみに。

「私の耳を通して結ばれたはげしくうねる真紅の炎と強力な罠が燃える道の火とともに概念を私の地図として使用し襲い掛かった」


"We'll meet on edges, soon," said I

「私たちは縁の上で会うでしょう、すぐに」と私は言った。
said I とひっくり返すのは時々見る。

edgesとは何か。崖とかそういう意味ではない感じだな。複数形だし。

on an edge でもなく on the edge でもなく、 on edges


Proud 'neath heated brow

このproudは過去分詞だろうか。browは、眉、額

「『私達は縁の上で会うでしょう、すぐに』と私は熱した額の下で自慢げに言った」

proundをこんな風に使うかな・・・ただ、proud, brow, now と韻を踏ませているだけかな・・・


Ah, but I was so much older then I'm younger than that now

「今より昔の方が老けてた」というだけの意味ではないような気もするが・・・

Half-wracked prejudice leaped forth
“Rip down all hate,” I screamed
Lies that life is black and white
Spoke from my skull. I dreamed
Romantic facts of musketeers
Foundationed deep, somehow
Ah, but I was so much older then
I’m younger than that now 

half-wracked は wreckedじゃないかと思ったが wrackedと言っている。
wrackは名詞だと波に打ち上げられた海草、難破船、漂着物だが、
動詞だと、苦悶させる、さいなむ、動揺させる、震撼させる・・・
偏見を主語として述語となるものは・・・

偏見が前方に跳ねる

すべての憎しみを引き裂け、私は叫んだ

人生は黒と白だと嘘をつく(のは誰?何?)

私の頭から喋った、私は夢見た

銃士のロマンティックな事実

foundationed は文法的におかしいが、故意か。


訳す気にもならない・・・


Girls’ faces formed the forward path
From phony jealousy
To memorizing politics
Of ancient history
Flung down by corpse evangelists
Unthought of, though, somehow
Ah, but I was so much older then
I’m younger than that now 
少女達の顔が前方経路を形成する
俗悪な嫉妬から記憶している古代史の政治家までの


軍団の伝道師によって飛びかかられた

考えてもみなかった、だけど、

A self-ordained professor’s tongue
Too serious to fool
Spouted out that liberty
Is just equality in school
“Equality,” I spoke the word
As if a wedding vow
Ah, but I was so much older then
I’m younger than that now 

自己規定の教授の弁舌は軽蔑するには深刻すぎて
自由は学校の中での平等であるととうとうと弁じた

”平等”、私はその言葉を結婚式の誓いのように言った。

In a soldier’s stance, I aimed my hand
At the mongrel dogs who teach
Fearing not that I’d become my enemy
In the instant that I preach
My existence led by confusion boats
Mutiny from stern to bow
Ah, but I was so much older then
I’m younger than that now 
兵士のような構えで私は自分の手をモンゴル犬に向けて構えた

mongrel dogs who teach
は、意味はヘンだが文法的には「犬が教える」となる。

私が私の敵になるとは恐れずに

私が説教する刹那には

私の存在は混乱の舟に導かれる
船尾から舳先に起こる反乱

Yes, my guard stood hard when abstract threats
Too noble to neglect
Deceived me into thinking
I had something to protect
Good and bad, I define these terms
Quite clear, no doubt, somehow
Ah, but I was so much older then
I’m younger than that now
そう、私の護衛は中傷が脅すと堅固に立ち
あまりに高貴で無視できない
だまされて考える
私は何か守るものを持っていたと

善と悪、私はこれらの用語を定義する
明確に、疑いなく、



・・・


難解なのか。本当に天才の書いた難解な詩なのだろうか。

まだ20代前半のBob Dylan。


彼の詩はときどき、ん?と思うフレーズが出てくることはあるが、
ここまでわけのわからない曲はあまりない。


わざと意味がなく支離滅裂に書いたのか、もしくはクスリでラリっているときに作ったのか、などとも考える。


ただ、歌い方が非常に力強く、咆哮するようで怒っているようでさえあるので、
あまりいい加減に書いたとは思えない。






2013/10/13

「R100」はなぜ受けなかったのか

R100の評判はかんばしくない。

ネットで検索するとほめている人は皆無である。


客の入りも悪いようで、私が観にいった劇場は地方の小さなところだが、
封切りから一週間たった三連休初日の土曜日18:10からの回で私を含めて3人しかいなかった。


この映画がなぜ受けなかったのか、よくなかったところ、疑問に感じたところなどを書いてみたい。


ある客がある映画を観るかどうかは、宣伝や試写を見た評論家のレビューなどから判断するのだろう。あとは監督や出演俳優の熱烈のファンであれば、どんな作品だろうと観にいく人もいるかもしれない。私がそうである。

だが、現在は松本人志の映画ならなんでも観たい、という人はほとんどいなくなってしまったようだ。過去三作で愛想が尽きたのだろうか?

私は松本監督は異色作を撮る人ではあっても、決して駄作を作る人ではないと思っているのだが、どうも、人々が映画に求めるものは私とは違うようで、納得感とか、胸のすくような感じ、石原慎太郎がよく言う「カタルシス」、登場人物に感情移入できること、泣いたり笑ったりできること、などであるらしい。



「R100」は私はおおいに楽しんでもう一回くらい観てみようと思っているが、『これは客がヒくだろうな』と思ったのは、女王様が寿司を叩き潰すシーンと、唾を吐きかけるシーンだ。どちらも1、2回ならSMだし、笑って済ますことができるが、執拗に繰り返される。ここは意図して繰り返されたのかもしれないが。


それから、『これはいらないんじゃないか』と思ったのが、中盤から現れる「R100」の製作スタッフのような人物達が登場し、映画についての諸設定が「自己批判」されるところ。これは大日本人で最後に「実写」シーンに切り替わったときのように、興ざめするというか、逃げじゃないかと思わせるようなところだ。ただ、もしこれがなかったら奇抜すぎて観客はついていけないかもしれない。


あとは、病気の妻とその父親の存在。私は途中で、主人公がM行為におぼれるのは病気の妻が苦しむのを代わってあげたいというような動機で、昏睡状態の妻は最後に目覚めるのではないかと思ったが、なんと妻も父親も女王様に丸呑みされてしまう。

終盤、Mだったはずの主人公が女王様達に戦いを挑み、虐げられた時にあらわれる喜びの表情が、戦っている最中に現れる。

そして女王様中の女王様、劇中では「CEO」とされる金髪白人の大女と二人きりで小屋に入っていく。その中で何がおこなわれたかはわからないが、小屋は光り輝いてベートーベンの歓喜の歌が流れる。

そして最後、主人公はお腹が大きくなる。裸になってお腹が大きくなった姿が映し出される。太ったのではなく、あきらかに妊娠した大きくなりかたである。そしてとなりにパンツ一枚の息子がいて笑っている。

息子が弟が欲しいと言われた、というシーンがあるのだが妻は病気で寝ていた。

その妻は女王様に食べられてしまい、主人公はおそらくCEOの子供を宿したのである。

CEOは女王様の中の女王様、つまりS中のSだ。ドMの主人公がドSの血を引く子供を宿したのである。

・・・

「ストーリー」というものを説明したら、こうなってしまう。

こんな内容だと聞いたら、バカらしくて観る気をなくすのも無理はないかもしれない。



この映画について、「主人公がどうしてこうなったのかが語られない」というようなことをメインにして批判しているブログを読んだのだが、私はこの映画について、そんなことは考える必要も説明する必要もないと思う。

ただのドMで、仕事は忙しいが退屈で、妻は病気で、楽しみがなくて変なクラブに入会したのだろう。



あと、地震が起きたのかと勘違いして起きていない、というシーンが3回くらいある。これについては「製作スタッフ」も指摘をして特に意味がないことが暴露される。


実際によくあることで、ある意味「あるある」的なおもしろさを狙ったのだろうか。それを三度も繰り返すことで、で、何もないのかよ!というものかもしれない。松本人志がふだんよくやっておもしろがっているように。



妻とその父が丸呑みされてしまうのも、観客に回復するのだろうかと期待させておきながらあっさりと裏切ってどうでもよくしてしまう。

主人公も息子も、自分の妻や母親が丸呑みされてしまったことを悲しみすらしない。

そんなことすらどうでもよく、ただ喜びというか快楽のみを追求する。


私が一番おもしろかったのは、その息子(嵐君という変わった名前である)がSMクラブとの戦いが始まって逃げている途中で車にひかれそうになり、その車の助手席の女性に「そんなところにいると引いちゃうわよ」と言われて、父譲りの例のCGによる恍惚の表情になるシーンである。


その助手席の女性は特に女王様ではない普通の女性で、それも、女優ですらないような、セリフもヘタクソないわゆる「素人」なところがまたおもしろかった。



私は「さや侍」の感動的な感じにはちょっと辟易したので、今回の映画の方が気持ちよく観ることができた。4作目にしてようやく、松本人志らしい、気負いのない作品ができたのではないだろうか。そうなったときに、それがヒットしなかったとしても、それはどうでもよいことだ。

松本氏も、吉本興業も、ファンですらそう思っているのではないだろうか。


興行収入がどうこうなどということには全く興味がない。ヒットすればそれは好きな人の作品だからうれしいことはうれしいが、売れたから成功などというのはいやらしい考えだ。

Mというのは、そういう世俗的な喜びに背を向けるものだ。松本人志は明らかにMである。ドMである。それは公言している。でも、その公言の仕方は単に性的な嗜好をカミングアウトしているようなものではなく、自分の生き方、ポリシーを表明しているようなところがある。

私もSかMかといわれればMだ。自ら苦しむようなことをして、「お前はMか」と言われることがよくある。だが、自分でもびっくりするくらいの加虐性が潜んでいることも自覚している。


この映画は、「真のMとは何か」を追求したものでもなく、「誰でもMとSの二面性を持っている」とか「Mだっていいじゃないか」などということを訴えているものでもない。


松本監督が考えている「SとM」というものは、世間一般で「あたしってM」「僕ドMです」「俺めっちゃS」などと言って喜んでいるものよりも、もっと高次な段階のものである。


2013/10/12

R100

最高傑作。

映画館には私以外にカップルが一組だけだった。

映画が始まる前の20分くらいの広告や予告編にイライラする。


ようやく本編が始まる。

最初に映るのはトイレの個室の上の部分で、タバコの煙が立ち昇っている。

そういった、美しくない絵にならないカットから唐突に始まるのは大日本人と同じ感じだ。

本作は形式的には大日本人と似ている。

しかし、全編に渡って地味だ。爆笑したり涙が出るような場面はない。

映像はモノクロというか、セピア色である。


電話をするシーンが何度かあるが、携帯電話ではなく、一昔前の電話機や公衆電話である。

あまり意味はないかもしれないが時代は現代よりやや古い設定のようだ。



この映画で一番よかったのはCGの使い方である。


主人公は女王様に虐げられると表情が変わる。その表情の変化は演技によるのではなくCGで作られる。顔が丸くなってて目が細くなる。朝青龍のような顔だ。


基本的に面白いのはそこだけだ。


終盤に少し展開の変化があるが、それは特に注目すべきところではない。


今までの作品にあったような、正義とか親子とかいったようなテーマもない。

しいて言えばSM、特にMについてがテーマかもしれないが、そんなに深刻に考えるようなものでもない。


ナンセンスで支離滅裂な内容である。


そしてそれこそは、松本人志に、少なくとも私が求めるものである。




2013/08/06

堀辰雄 「風立ちぬ」

初めて読んだ。岩波文庫。

きっかけはジブリの「風立ちぬ」である。

この小説の存在は中学生の頃から知っていたが、あまり読みたいとは思わなかった。



今までに読んだことのない世界である。

「魔の山」と「若きウェルテルの悩み」をちょっと髣髴とさせたが、この小説には懐疑とか絶望とか恨みとかいったものがない。

ところどころ、言葉遣いが変なところがあると感じた。


でも、一気に読んでしまった。

特に感動したというわけではないが。


わたしはジブリの映画をほとんど見たことがないが、「風立ちぬ」は見てみたいなと思っていた。

だが、この小説を読んでしまったら、もういいや、と思えた。


2013/08/01

中島らも 「アマニタ・パンセリナ」

集英社文庫。

中島らもの作品は、「今夜すべてのバーで」しか読んだことがない。それは、先にテレビドラマを見ておもしろかったので原作も読んでみたのだ。

今日、本屋へ寄って、なんとなく買ってきたのだが、家に帰って読み始めて、これは一度図書館で借りて読んだことがあるのを思い出した。

ただ、あまりちゃんと読んでいなかったのだろう、ほとんど憶えていなかった。


私はドラッグにとても興味がある。幸いカネも度胸もないので試せなかったが、コカインなどはぜひともやってみたいと思うくらいだ。

私は多分、依存心が強いというか、自己から逃避したい気持ちが強いのだろう。


中島氏は、人がドラッグをやる理由は「気持ちよいから」だと言っている。それは子供の頃くるくる回って目が回るのを楽しむのと同じようなものだという。

そしてその気持ちよさとは「自失」である。我を忘れて酩酊すること。そしてそれが行きつく究極は死である。


中島氏は最後、階段から転落して亡くなったらしいが、あれは自殺だったのではないだろうかと思った。

というか、それまでの生き方が全部自殺のようなものだった。そしてそれは本人も自覚していた。


私は大麻を合法化すべきだとか、ドラッグは精神を解放するだとかいう考えはもっていない。ドラッグなどをやる人間は心が弱いのだと思っている。自分は薬物に興味は持ちながらも、手を出していないことに誇りも持っている。


ドラッグに対しては否定的なのだが、ドラッグにおぼれた人にはあこがれといってもいい感情を持ってしまうことも否定できない。

2013/07/29

西内啓 「統計学が最強の学問である」

私は小説以外の本はあまり読まないのだが、この本にはちょっと興味を持って、電車の中などで少しずつ読んだ。

最近、「ビッグデータ」という言葉をよく聞くようになって、それにともなって統計学が注目され始め、「データサイエンティスト」なる職種まで登場してきた。

本書は、統計学がいかに有効で便利であるかをごく穏便に述べたものであって、タイトルほど挑発的なことは語られていない。「なぜ最強なのか。ほかの学問にくらべて何が優れているのか」といったことは全く語られていない。


私は新聞や電車の中などに大きく広告を打たれる、「○○が△△な理由」とか「・・・・になる方法」「○○はなぜXXなのか」など、あまり興味が無いけどその答えだけはとりあえず知りたい、と思わせるようなタイトルの本は読まないのだが、今回はまんまとタイトルにやられてしまった。


この本は、普通にタイトルをつけるなら「ビジネスに役立つ統計学入門」などになるだろう。それでは売れないだろうが。

1600円あったら、文庫本が何冊も買える。100円の古本なら16冊買える。絶対そっちの方がためになる。と思った。

2013/07/17

田中慎弥 「図書準備室」

芥川賞受賞作の「共喰い」を読もうと思ったのだが立ち寄った本屋にはこれしかなかった。

「図書準備室」と「冷たい水の羊」の2作がおさめられている新潮文庫である。

デビュー2作目とデビュー作だそうだ。


とりあえず「図書準備室」を読んだ。

主人公が法事が終わった後親戚相手に延々と独白する。

その独白のなかである教師のことが語られる。

独白のテーマはなぜ主人公が働かないのかということなのだが、話をきいてもどうしてそれが理由になるのかはわからない。それはさておいても、主人公がその話をした動機がよくわからない。

戦争とかリンチの話が出てくるのだが、それらを非難するような様子でもない。


長い独白が終わると、いつの間にか話し相手は小さな女の子になっている。


不思議な作品である。

この作品は芥川賞の候補になったそうだ。




田中氏の作品はあまり読む気をそそられなかった。西村氏が「40過ぎて風俗に通うフリーター」で、田中氏は「工業高校を出て一度も働いたことのない30過ぎの男」、というように紹介されて、「またいわゆる『ダメ人間』か」と思ったからである。


だが、作品を読むとそのようなイメージはなくなり、どうやってこのような文体や語彙を身につけたのだろうと感心するばかりである。

二人の作品を読んだのは芥川賞がきっかけである。わたしは現代作家の作品をほとんど読むことがないが、芥川賞は新聞、テレビ、ネットでも非常に大きく報道され、数ある文学賞のなかでも最も権威があるとされているようなところがあるので、わたしも芥川賞受賞作くらいは読んでおこうか、と思う。

ただ、それでもすべての作品を読んだわけではない。作者の生い立ちとか、年齢などに興味を引かれて読むのである。



作家の人生とか生活というものと、作品は切り離して考えるべきであろうが、どうしても小説を読むとその作家がどうやって生きているのか、生きていたのかということは気になってしまう。やはり小説にはその人の生き方が反映される。それは、にじみ出るというよりは主張に近い。


もしその主張が、「戦争反対」であったり、「勤勉」であったり、「科学技術の発達こそが生活を改善させる」というものであったら、その人は小説家にはならなかっただろう。

しかし、そのような主張であったほうが、その人の人生は「まとも」なものになっただろう。


だから作家は非常識だったりまともな勤め人に向かないのだ、と考えることはできる。私もそういう作家に興味を持ってしまう。

だが、それは小説というか文学の本質とは別のものだと思う。文学とはたしかに健康で明朗で社会に貢献することを説くものではないが、それから逸脱していることをまるで自慢し競い合いでもするかのようなものでもない。


「いわゆるダメ人間の書く小説」というものはそういう理由で、あまり読みたくないし、読んでも得るものが少ない。


じゃあ、誰がどんなものを書けばよいのか。

それは難しい問題であるが、ひとついえるのは、自意識過剰でないものである。小説によって自分を主張したり自分を売ろうとしないようなものである。

歌うような小説である。歌というのは相手を感動させるためというよりは、自分が感動して自然に口をついて出るようなところがある。何のために歌うかとか、どうやったらいい歌が歌えるかなどを考えなくても歌える。そして歌詞はあまり重要でなく、時にはララララとかフフフンなどという無意味な音ですらいい場合がある。

小説でもそのようなものを好む。滅多に出会えないのだが。

2013/07/11

小林秀雄 「一ツの脳髄」

新調文庫の「Xへの手紙・私小説論」に収録されている最初の作品である。

この文庫本は「様々なる意匠」を読みたくて買ったもので、とりあえずそれだけ読んで放ってあったものだ。

今日、外出中に時間があって読んでみたらおもしろかった。

小林秀雄というのは評論家で、論説文を書く人だと思っていたが、この作品は論説ではない。

小説というよりは、散文詩のように感じた。


文章は淡々とした描写が続いて、筆者のポリシーとかメッセージのようなものは全くといっていいほど見えない。


とくに劇的な情景が描かれるわけでもない。

大どんでん返しがあるわけでもない。

だが、私はこの短い作品を読んでいて心地よさを感じた。こういう文章を書いてみたいと思った。

「すべらない話」というテレビ番組があるが、「オチの無い話」というテーマで、みんなが淡々と描写したらおもしろいんじゃないか、などと思いながら読んでいた。


松本映画における親子観

「R100」には今までのようなテーマがない、と書いたが、親と子ということが非常に重要なテーマのひとつであることに気づいた。

「大日本人」、「さや侍」でも親子が描かれた。「しんぼる」でも、年老いたレスラーが登場した。


「R100」では、主人公の妻の父が登場する。そして息子。そして、主人公は男なのに子供を宿すという奇妙な展開になる。

息子は父譲りのMである。

実の母は病気で家庭には不在だったがさらに丸呑みされていなくなってしまった。

父は怪物のようなドSの外国人女性の子を宿している。嵐君にとってお母さんになるのか。


大日本人でも、年老いた父親があっさり死んでしまうシーンがあった。

でも、登場人物達が自分の親や妻を気遣っている様子も描かれる。


確かに、人の死など、怪物に丸呑みされるようなものかもしれない。

主人公はどんな子を生むのだろうか。





2013/07/08

Prince

Princeって、Bob Dylanに似ているところがある。

一般的にはこの二人は全然違うジャンルのミュージシャンで、どちらかが好きな人はもう一方をあまり好きでないのではないだろうか。

具体的にどのアルバムがとかどの曲がとか、ということは言えないのだが、何度か、プリンスとディランって共通点があるなあ、と思ったことがある。

Dylanの Knocked out loaded というアルバムの、 Driftin' too far from shore という曲があるのだが、そこでキーボードの印象的なリフが演奏されている。

私はこの曲が気に入っていた。カッカッカッ、チャチャチャ! というシンプルなイントロで始まる。

そのチャチャチャ!というのがシンセサイザーで弾かれているのだが、これを弾いているのはボブディランである。そして、そのリフは、プリンスの When doves cryを聴いて思いついたそうである。

ディランとプリンスの接点として、自分の感覚以外で知っていることはこれだけである。


私は高校生の頃、貸しレコード屋でレコードを借りることをささやかな趣味としていた。
借りるのはほとんどが洋楽だった。

当時、テレビでベストヒットUSAという番組が土曜の夜に放送されていた。
私は子供の頃はラジオでランキングの番組、当時は「ベストテン」と呼ばれていた、をよく聴いていたが、中学生になった頃から洋楽を聴くようになった。

私が高校生になった頃、プリンスは商業的にもっとも成功していた時期だった。

私はプリンスはあまり好きではなかったのだが、大ヒットしていたので、とりあえず聴いてみようと思って、貸しレコード屋で 1999 を借りた。

90分テープに録音して、何度か聴いた。

なんだか気持ちが悪いな、と思っただけで、特にいいとは思わなかった。

だがその後、Parade, around the world in a day, sign o'the times などを借りたり買ったりして、プリンスの主要作はだいたい聴いてきた。

そして今。初めてプリンスを聴いてから30年近く経った。

iPhoneには彼のアルバムがほぼ全部入っている。

今聴くと、1999は大傑作だと思う。

私はどんなミュージシャンでも、初めて聴いたアルバムがほとんど全部最高傑作になってしまうのだが、1999もそうである。

多分、最初に聴くときは世間で評判がいいものを選ぶからそうなるのだろう。

もうひとつは sign o'the times である。これは発売直後に何度も繰り返し聴いた。

そして、プリンスはギタリストとしても非凡である。

それから、ライブがいいミュージシャンである。

見た目はゲイっぽいのだが、そして私はずっとゲイだと思いこんでいたのだが、そのケはないようだ。

それどころか、同性の結婚について否定的なコメントをしてさえいる。

2013/07/07

東京国際ブックフェア 読書推進セミナー 「人生を楽しく豊かにする読書法 教えます!」

平野 啓一郎、田中 慎弥、柴崎 友香の三氏によるトークショー。

無料だったので予約して観にいってきた。


来場者はけっこうたくさんいて、会場も予想していたよりも広かった。


この三氏の中で作品を読んだことがあるのは平野氏だけだ。

平野氏はtwitterをfollowしていて、彼についてはどういう人間か、自分なりに把握できている。

彼が芥川賞をとってからずっと、気になっていた。それは三島由紀夫、森鴎外、キリスト教といった、現代ではあまり注目されない世界に関わっている人だったからだ。

twitterのツイートを読んでいても、常識があるというか、冷静というか、理性的というか、とにかく非凡な人だなあと思う。



私は読書法については常々迷いがあるというか、苦労している。

「本を読め」というのは多くの人が言うことであるが、「読書」が意味するものはあまりに広い。


私にとって読書とはいわゆる純文学作品、古典とか名作とされているものを読むことである。

金儲けとか出世とか時間を有効に使うとか、そういったハウツーものとか、単に情報収集としての読書、あるいは教養としての読書というのは、私には興味のないものだ。

このブログで記録している読書録にも、そういう類の本は一切ない。



このセミナーのことを知って、おそらく私が求めている読書についての話をしてくれるだろうと思った。



セミナーは平野君が仕切り役となって進行していった。こういうことをできるのが彼である。


子供の頃の読書体験から、学校の国語の授業のこと、自分が作家になっていく過程などが語られた。

「読書法」というよりは、作家にとっての読書とはどのようなものであるか、というようなことが多く語られた。



印象に残ったのは、田中氏の、「読むように書く」という言葉である。


田中氏は、小説を書くときにあまり計画を立てずに、ひとつの文を書いたら、その文につながる文を書いていくのだという。


また、小説にはテーマとかメッセージとかいうものがあるのではなく、小説そのものが伝えたいことである、ということも言っていた。



セミナーの終わりに、来場者からの質問に答える場面があった。


ある人が、「読書していて読めなくなったらどうすればいいか?」という質問をした。

田中氏は、「わからないものはわからないまま読めばよい」というようなことを言った。


私はこのことにも納得した。

読書というと、著者の書いたことに感動して新しい世界を知って、自分が成長する、というもののようにみなされているところがあるが、そんな作品ばかりではない。それは、自分の読解力がないこともあるし、本当に駄作であることもある。


私はなるべく既に評価の固まった、古典とか傑作とかいうものを読むようにしているが、それでも、本当に感動することはまれである。


感動しないのに、わからないのに読む意味はないと思うかもしれないが、わたしは、傑作と言われている作品を読んだが全然おもしろくない、と感じることも非常に貴重な経験だと思う。

2013/06/29

尾崎豊の死因

尾崎豊が死んだのを知ったのは、日曜の朝6時ごろに巣鴨駅のキオスクの前を通りかかった時だった。

私は当時サラリーマンであったが、給料が安くて浪費家だったので金に困っており、週末に日雇いのアルバイトをするようになった。

その日もアルバイトをするために早起きして巣鴨にある事務所に行ったのだが、事務所が閉まっていて、仕方なく家へ戻ろうとしたときだった。

キオスクの店頭にあったサンケイスポーツの大きな見出しに「尾崎」「怪死」という文字が見えた。

その新聞を買ったかどうかは覚えていない。当時はまだインターネットなどなく、携帯電話はあったかもしれないが私はもっておらず、ニュースといえばテレビ、新聞、ラジオで知るものだった。

私は尾崎豊が好きでよく聴いていたのだが、彼が死んだ頃には熱が冷めていて、ほとんど聴いていなかった。

1992年4月のことである。


その後、だんだん死んだ時の状況がわかってきて、死因は「肺水腫」だったということがわかった。

さらに、泥酔していて、全裸で民家の庭でのたうちまわっていたということだった。


そして、「致死量をはるかに超える覚せい剤が検出された」という情報を聞いて、私はやっぱり自殺か、と思った。


彼の死については他殺説などもあるらしいが、私は最初から今までずっと、自殺であろうと見ていた。

死から20年ほどたって、「遺書」なるものが公開されたが、あれはおそらくいつ死んでもいいように書かれたものであって、1992年4月25日に死ぬと決めて書いたものではないだろう。


「肺水腫」という死因にほとんど意味はない。問題はどうして肺水腫を引き起こすほどの泥酔状態と薬物の過剰摂取があって、全裸で転げまわるような状態になったのか、ということである。

ビルから飛び降りて死んだ人の死因が「脳挫傷」というのと同じようなものだ。



私は彼が自殺したと確信している。では、その理由は何か。

自殺の理由となるものには、生活苦、失恋、後追い、犯罪を犯した自責の念、などがあるが、彼の死の理由に具体的な理由はないと思う。


他殺説の根拠とされるあざだらけの写真があるが、あれは自分で転げまわって壁や地面にカラダを叩きつけたときにできたものだと思う。

遺作となった「放熱への証」は、気が抜けたというか、魂の抜け殻というか、まちがいなく尾崎豊がリリースしたアルバムの中で一番の駄作である。


自分でもその自覚はあったと思う。『俺にはこんなものしか創れないのか』という愕然とした思いがあったのではないだろうか。

それも死に駆り立てたひとつの理由かもしれない。

でも、アーティストとして才能が枯渇したからといって死ぬことはない。

やはり、彼にはほとんど生まれもっての希死念慮というものがあった。

いつ死んでもおかしくない男だった。

いつでも死んでやる、と思って生きていた男だった。


その覚悟を表明したのが例の遺書であった。


そして、その生き方による当然の結末がおとずれたのが、1992年4月25日だった。



そういえば、自殺の動機としてあげられるものがもう一つある。

それは抗議とか、自分の信念を表明するとか、身の潔白を証明するなどである。


僧侶が焼身自殺したなどというのがそれである。

尾崎豊の死も、それに近いかもしれない。

2013/06/25

ホームラン級のバカ

「ホームラン級のバカ」という言葉はTBSテレビで放送されていた「ガチンコ!」という番組の中の、不良が大学受験に挑戦するという企画の中で、講師役である大和龍門がいった言葉である。

この言葉自体は非常に有名で、ちょっとした流行語になった。

だが、最近この言葉について調べてみたら、どうもこのフレーズを大和龍門が頻繁に使っていたかのように誤解されているようだが、このフレーズを使ったのは一度きりである。

私はガチンコを楽しみにして見ていたので間違いない。


さらに、この言葉は不良達全員に言われたのではなく、ある一人の生徒に向かって発せられた言葉である。

その生徒は、大学受験に挑戦するという企画に参加していながら、高校を卒業していないということが発覚した。その時に、その生徒にむかって、大和は「ホームラン級のバカだな」とあきれたのである。それが最初で最後である。


それから、「ガチンコ」という言葉を世間に広めたのもこの番組がきっかけではないだろうか。放送されたのは1999年から2003年。私はほとんど全部観ているが、番組放送当時は今ほど「ガチンコ」という言葉は使われていなかった。もともとの意味は格闘技で八百長ではない真剣勝負のことを言うだけだったが、その後、意味が拡大されていき、今では「マジ」と同じように、会話の中で「ガチで?」と、「それ本当?」というような意味で使われるまでになった。


2013/06/03

ブッダ

これもYahoo!ブックスで読んだ。

ときどきリーダーが落ちることがあってイライラする。
本のダウンロードもけっこう時間がかかる。

「ブッダ」を読むのは初めてである。

ブッダの伝記と言えるかもしれないが、彼を取り巻く大勢の人間のドラマが並行してあるいは交差して描かれる。

ブラック・ジャックよりは丁寧に描かれている。

フィクションが多少含まれているだろうが、おおむね史実に基づいているようである。


ブッダと言えば、「王子という身分を捨てて出家し苦行するが苦行では悟りを得られず菩提樹の下で瞑想して悟りを開いた」というような事が語られるが、本作品では悟りを開いた後の仏陀の人生が描かれている。


「仏教」が一大教団となって、教団を支配しようとするダイバダッタのような人物が現れたりする。


ブッダが悟ったことはどんなことだったのかは、いろんな人が語るのを聞いたことがあるが、私は誰の話を聞いてもピンとこない。執着を捨ててあるがままに生きる、無抵抗、非暴力、すべては無であるなどというのを聞いても、「そんな単純なことじゃないだろう」といつも思う。


2013/06/02

ブラック・ジャック

Yahoo!ブックスで無料配信していたので22巻を全部読んだ。

連載されていたのは私が小学生の頃で、読んだことはあった。

だがとくにおもしろいと思った記憶もない。


手塚治虫と言えば漫画家の中では神のような存在というイメージがあるが、今回ブラック・ジャックを全部読んでみて、意外に荒っぽいというか雑と言うか、荒唐無稽なところがあるのだなと感じた。

それは絵も、話もどちらもである。

読みきり形式なのだが話がプツんと突然終わってしまうようなものがけっこうある。


読んでいて、石森章太郎、松本零士、鳥山明などを思い出したのだが当然手塚が彼らに影響を与えたのだろう。


2013/05/13

小林秀雄 「様々なる意匠」

今年のセンター試験の国語で小林秀雄の文章が出題されてそれが難問であったことが話題になった。私もやってみたがたしかに何を言いたいのかよくわからない文章だった。

小林秀雄の書いたものは少しだけ読んだことがあるが、どんな内容だったかはほとんど覚えていない。

「様々なる意匠」は昭和4年、小林秀雄が27歳のときに書かれたもので、この作品が彼の文芸批評家としての名を世に知らしめたものだったようだ。

タイトルだけは聞いていたが今回初めて読んだ。
新潮文庫の「Xへの手紙・私小説論」というタイトルの本のなかに収められている。


やっぱりよくわからない。「意匠」というのは文学の「ナントカ主義」という物のことである。挙げられていたのは、「マルクス主義文学」「写実主義」「象徴主義」「新感覚派文学」「大衆文芸」などである。

自分でもそういっているが特にこれらを批判したり否定したりしているわけではない。

でも、私には小林はこのような「ジャンルわけ」みたいなものがあまり重要でないこと、ごく表面的な分類でしかないと言いたいのではないかと感じた。


たくさん固有名詞が出てきた。ボオドレエル、バルザック、マルクス、プラトン、アルマン・リボオ、スタンダアル、井原西鶴、フロオベエル、モオパッサン、ジェラル・ド・ネヴァル、ポオ、マラルメ、ワグネル、ベルリオズ、「ドン・キホオテ」、ダンテ、グウルモン、ニイチェなど。

とくに、マルクスについて、プロレタリア文学について多く語られている。はっきり言ってはいないが、彼はマルクスを只者ではないと認めつつも非常に警戒しているように感じる。

私はこれらの人物の名前はだいたい知っているが、作品を読んだり音楽を聴いたりしたことがあるのはほんの一部でしかない。

とにかく大変な量の読書をして考えた人なのだろう。27歳なのに、老人のような文章である。

2013/05/01

村上龍 「五分後の世界」

幻冬舎文庫。

ある場所である人が好きな本としてあげていて、タイトルにちょっと興味を持って読んでみた。

よくわからない小説だった。

分類するならSFであろう。

日本が降伏しないまま戦争を続けた世界に主人公が迷い込むという話だ。

まず、そういう話であることがわかるまでが長い。

描かれている世界はいわば異次元の世界なので、現実感がなく、想像もむずかしい。


村上龍の作品は「限りなく透明に近いブルー」しか読んだことがない。

「ブルー」はおもしろく読んだ覚えがあるが、「五分後」を読んで、「こんな文体だっけ?」と感じた。

なんだか語彙が貧弱で文体もストーリーも退屈というかとらえどころがない。


何故「五分後」なのか、それにどんな意味があるのかは最後まで読んでもよくわからなかった。

2013/04/29

J.D.サリンジャー 野崎孝訳 「ライ麦畑でつかまえて」

白水uブックス。 上半分が青で、下半分がクリーム色で、ピカソの書いた子供の落書きみたいな犬だかなんだかわからない顔の描いてある表紙の本。

これは私が高校生、高校3年だったと思う、の頃に読んで、大変感動したものである。

感動したので友人に貸したのだがその友人はあまりおもしろくなかったらしく、なかなか読まなかったのだがそのうち彼とは疎遠になってしまった。

今回読んだのは、数年前に古本屋で見かけて懐かしいなと買っておいたものである。


サリンジャーの作品は全集を買っていくつか読んだことがあるが、「ライ麦」はちょっと異色で、文体が極端に口語的なようだ。そのため訳者も非常に苦労したらしい。


「ライ麦畑でつかまえて」というタイトルはすごくゴロがよいが、「The cather in the rye」という原題とは少しイメージが変わる。


私はこのタイトルを見たときに、女の子が自分の好きな男の子にむかってあたしを捕まえて、捕まえてごらん、というような意味なのかと思った。


だが、実際は主人公は少年であり、捕まえて欲しいのではなく自分が捕まえたい、という意味だった。

そして捕まえるのは自分の好きな女の子ではなく、落ちこぼれそうな子供達であった。


主人公のホールデン・コールフィールドは、自分の周囲の人間、学校の同級生とか、教師とか、街で出会った人々などに悪態をつきっぱなしなのだが、その悪態のつき方がユーモアがあって、愛情があって、読んでいて心が和む。本気で人を憎んだり否定したりしていないのだ。


久しぶりに読んでみて、文体に違和感や古臭さを感じるところもあったのだが、やっぱり名訳だと思う。

最近、村上春樹が翻訳を出したが、タイトルは「キャッチャーインザライ」だった。「つかまえて」を超えるタイトルが見つからなかったのだろう。

読んでないのだが、野崎訳に満足できなかったらもう原文を読めばいいと思う。


サリンジャーがなくなったニュースは聞いたのだが、野崎さんはもっとだいぶ前に、1995年に亡くなっていた。

2013/04/19

プラトン 「饗宴」

岩波文庫、久保勉訳。

古本屋の店頭で100円で売られていたものだがきれいで読んだ形跡がない。

「饗宴」は非常に有名で、高校生くらいの時に必読図書だとどこかに書いてあったか誰かにすすめられたかしたものであるが、読んだことはなかった。読みかけたことはあるがやめてしまった。

ただ、この中に、「人間はもともと男女が一体だったがそれが切断されてお互いを求め合うようになった」という話だけは知っていた。


私はソクラテスものが好きで、古本屋の100円コーナーなどで見つけては読んでいる。「国家」は気合を入れて新品を読んで、感動したというか恐ろしくなったのを覚えている。


「饗宴」は、ソクラテスを含む何人かが「エロス」について語り合う内容であるが、その様子はそのまま描写されるのではなく、そこに同席した者が思い出して語るというまだるっこしい形式になっている。そういう形式をとった理由については、「序説」というのが40ページくらいあって書かれているのだが途中まで読んでやめて、本編を読んだ。


居合わせた者達が「エロスを賛美しよう」ということになって、順番に語っていく。「エロス」というのは神の名前としてである。有名な、男女が一体だった話をするのはアリストファネスである。これは歴史の教科書に出てくるあのアリストファネスのようである。あらためて聴くと馬鹿げた話で、喜劇作家だからか、と思わせる。ちなみにその昔の人間の姿には男女がくっついたものだけでなく、男同士、女同士がくっついたものもあり、同性がくっついていたものは同性を求めるということも語られている。


ソクラテス以外は皆無条件にエロスを賛美するのだがソクラテスだけは少し違って、「エロスそのものが美しく善いものだ」という考えに疑問を呈する。そして、ディオティマという婦人に聞いた話として、エロス賛美というか、愛、美、善の本質についての話がされる。

訳注によるとこのディオティマという人物は創作だろうということである。しかし、どうしてこうまだるっこしいことをするのだろう、プラトンは。


ソクラテスによると、愛するというのは対象を所有し生殖することによって滅ぶべき者が永遠を手にすることであるという。さらに、それは肉体的なことにとどまらないという。

そしてソクラテスが語り終えた後にアルキビヤデスという若者がやってきて、ソクラテス賛美を語る。その時に、彼はソクラテスと一緒に寝たが何もされなかった、ということを語る。

ソクラテスものを読んでいると少年愛の話が出てくる。アルキビヤデスが何もされなかったというくらいだから、この少年愛には肉体的な行為が伴っていたのだろう。


私はいつも、この少年愛に引っかかる。生殖を目的とした愛よりも、生殖以上のものを目的とした愛の方が高尚である、という考えはわからなくもないが、生殖しないのにその肉体を愛するのはやっぱりただの倒錯としか思えない。


そしてもうひとつ、ソクラテスがただの哲学者、思索者でないのは、「神々」への強烈な「信仰」があることである。それは単なる社会慣習としてのものにとどまらず、下から上への一方的なものでもなく、交流があったようにうかがえる。

キリスト教とはもちろん違う。むしろそれと対立する偶像崇拝である。でも、ソクラテスだけでなく、当時のギリシアの人々は本当に強烈なインスピレーションを得られていたようである。ギリシアでは民主制が実現した。天動説もすでに唱えられていた。文学や彫刻作品は今でも古典とされていて、こうして私がプラトンの書いたものを読んでなるほどと思っている。


文字通り、当時のギリシアは「神懸かっていた」。ただしその神は非常に人間味のあるものであったという。私は「神」という存在が人間の創作品だという考えには同意しない。唯一神が存在すると思っている。ギリシア神話の神々は人間の作り出した創作物であり、偶像だといってかんたんに片付けられるものでもない。

本作品中でエロスは「神霊(ダイモーン)」として、神々と人間のあいだの伝達役のようなものして存在するというところがある。

ダイモーンというのは何かのたとえではなくて、実際に存在するのではないだろうか?ギリシア人達はそれを偶然のせいか環境のせいか知らないが、知覚できたのではないだろうか?

・・・俗に言う、天使である。

2013/04/16

ランボオ 「地獄の季節」「飾画」

岩波文庫の小林秀雄訳。

高校生のときに一度読んだはずだがほとんど記憶がない。

久しぶりに読んでみたが、やっぱり、意味がわからない。

これは散文なので、韻文の詩よりは少し内容が把握できる。でも、やっぱり非常におぼろである。


文体が古めかしく小難しいのは小林秀雄の訳文のせいだろうか?

でも、これは19歳の頃に書かれた物である。少年が書いたと言ってもいい。


一人称が「俺」になっているのだが、日本語の「俺」は少し悪すぎるというか、フォーマルでなさすぎるイメージがある。

フランス語では je であって、英語の I もそうだが、それはおそらく非常に透明というか軽い言葉であるはずだ。それを「私」「僕」「わたし」「ぼく」「俺」などと訳すのは訳者の受ける印象によるだろう。

金子光晴訳の「イリュミナシオン」も持っているが金子は全部「僕」にしているようである。



よくわからないのだが、少なくともランボーは世界を手放しで美しい世界だとは見なしていない。それどころか、何があったか知らないが、自分も、フランスも、何もかもがくだらなく醜く無意味に見え絶望していたようである。まだ十代だったのに。

彼がいくら天才だったとしても、私には小林秀雄の文体は堅苦しく老人くさく思える。

でも、1938年から今まで、改版をしながらも読み継がれていることからしてやはり名訳なのだろう。

もしくは、誰もわからないからなんとなく独特の雰囲気のあるこの訳を読んでわかったような気になっているだけなのかもしれない。

「地獄の季節」の表題だが「飾画(Les Illuminations)」も収められている。こちらの方が分量は多い。

全然意味がわからない。並べられる言葉がなじみがなさすぎて何のイメージも湧かない。「飾画」からして、わからない。「イリュミナシオン」だと、イルミネーションを連想する。

エジソンが電球を発明したのは1879年で、ランボーが25歳のときだ。「イルミナシオン」が書かれた時期は不明だが1875年にはもう詩を書くのをやめていたそうだから、少なくとも現代の電飾のようなものではない。

「地獄」にくらべて、絶望感や反逆性のようなものは薄く、わたしがイメージする一般的な詩に近い。色を表す言葉がよく出てくる。しかし、やはり、ランボーの詩からしっかりとした情景を思い浮かべることはほとんど不可能である。




2013/04/11

映画 「ベニスに死す」

ルキノ・ビスコンティ監督の映画。観たことはなかったが何度もその作品と監督の名前は聞いていた。

原作は岩波文庫の翻訳を2回読んだ。感動するとか、好きな作品というわけではないが、なんだか不思議な、強い印象を持っている。

観たのは早稲田松竹という名画座である。

平日の名画座なのに、ほぼ満席であった。


原作と映画で大きく違うのは音楽である。小説で音楽の効果を使うことはほとんど不可能だが、映画にとって音楽はなくてはならないものである。

私が特に印象的だったのは、流しというか楽団というかチンドン屋のような連中である。彼らがおどけながら演奏するのに、皆がほとんど表情を変えず困ったような顔をしていたのがおもしろかった。


この映画を観ている間中、私の頭の中には「滑稽」という言葉が浮かんでいた。

主人公の行動は滑稽である。少年をつけまわしたり、化粧をしたりするのは原作通りだが、それが小説よりも映画では滑稽さを増していてほとんど見るに耐えないくらいだった。


私はこの映画を大傑作だと賞賛する気にはなれないが、原作の持つ不思議さは再現されていたように思う。

タッジオや、伝染病や、タッジオを追いかけ病気になる主人公は何かの象徴だろうか。


主人公は英語をしゃべり、タッジオの家族はイタリア語を話すがイタリア語のセリフは訳されない。原作でもたしか主人公はイタリア語がわからず少年の名前というか呼び名である「タッジオ(タッジウ)」だけを聞いていたからそれでよいのだろう。




2013/04/02

ボルヘス 「八岐の園」

岩波文庫の「伝奇集」におさめられている。
プロローグと八つの短い話で、映画のオムニバスのような形式である。

ボルヘスを読んだのは初めてだ。
twitterでよく目にする名前なので、読んでおこうとおもっていた。
最近流行っているのだろうか?

一年ほど前に一度買ってあったのだがパラパラとながめただけで読めずにブックオフへ売ってしまった。

先日ポオの詩論を買いにいったときにたまたま目に入ったのでついでに買った。

今までに読んだことのない作風である。

「メタ小説」とでもいうのだろうか。

ときどき、ハっとさせられるようなフレーズが出てくることはあるが、なんともとらえどころのない話である。

登場する人名や作品名は架空のものが含まれているようだが、実在するものも混じっている。

ときどき、全く意味がわからないような文も出てくる。誤訳じゃないか?と思うところがある。

それは翻訳ものにはつきものなので気にせずに読み進む。


ヴァレリーのムッシュー・テストについての言及が何度かあった。

あれと似た印象を受けるところもあった。


読み終えるまで戸惑い続けた。

私は小説でも映画でも、それらが描くものは架空であり想像されたものであるということを前提にして読んだり観たりする。

そのときには、それは架空ではあっても、当然本当に存在しているものとしてのめりこもうとする。

それはすべての芸術の大前提である。


ところが、本作品は、架空の登場人物が架空の存在を語っている。架空が存在してリアリティを得るのも大変なのに、さらにその中で架空の世界が登場するとわたしの想像力が追いつかない。


「伝奇集」というタイトルから予想していたのとは違うものであった。もっとストレートに不思議な話、奇妙な出来事が書かれていると思ったのだが、百科事典のなかの一項目についての話だったり、
架空と思われる作家や作品について語られたりしている。

一度読んだだけではよくわからない作品であった。


2013/03/30

ポオ 「構成の原理」「詩の原理」

ポオというと日本人にとっては詩人というよりも推理(恐怖)小説作家、江戸川乱歩が名前をつけた由来の人というイメージが強いのではないだろうか。私もその一人で、子供の頃少年探偵団シリーズを読んで、その元祖みたいな人だとしてポオを知った。

だがボードレールとかランボーを知ったときにそれらの詩人に大きな影響を与えたとして詩人としてのポーを知った。

最近ちょっとランボーを読んでみているのだが、私は「詩」がいまひとつよくわからない。歌謡曲とかの「歌詞」も、歌うからよいのであって、詩だけで完結する作品というのはなかなかおめにかかれない。

私が読んだ主な詩集は、宮澤賢治と萩原朔太郎で、彼らの詩であればいくつかいいなと思って書き写したり暗唱したりしたこともある。

詩と言えば、シェークスピア、ゲーテ、バイロン、ボードレールなど海外の古典というか伝説みたいな詩人達がいるが、翻訳を読んでもよくわからない。かと言って原文を読んでももっとわからない。

ボードレールはけっこう読んだのだが全部翻訳である。なんとなくボードレールとはどういう男なのかはわかっているつもりだが、特に彼の詩についてはその真価の半分もわかっていないと思っている。


私は詩に対して近寄りがたい思いを持っている。詩とは神秘的なもので、天才にしかかけないものであり、文学の究極が詩であるというくらい、偉大なものだと思っている。だが、それがわからない。小説ならヘタクソでもなんとか書けるかもしれないと思うが、詩は無理だ。

だから、詩とは何か、ということがその秘密が知りたくてしょうがない。

というわけで、ポオが詩について書いたものを読んでみた。創元推理文庫におさめられているものである。

書いてあることは特に目新しかったり感心するようなことはなかった。少なくとも、自分が詩を書くヒントになるようなものはなかった。

「構成の原理」では、自分の The Raven を例にとって、どのように詩を書いたかが語られている。ひらめきとかインスピレーションといったものによって筆にまかせて書いたのではなく、いかに読者をひきつけるかを周到に計算して理詰めで組み立てたと言うことが語られる。 nevermore という単語を選んだのにも、raven を登場させたのにも、約100行という行数にも理由があってのことだという。いろんな芸術家の言うことを聞いていると、常識的なこと、論理的なことを語る人が多い。有名で大家と呼ばれる人ほど、「センス」とか「感覚」というものに頼っていないという印象を受ける。


2013/03/23

西村賢太 「暗渠の宿」

つづいて、「暗渠の宿」という作品を読んだ。 

女と同棲する話だが、やっぱり藤沢清造の話が出てくる。 というか、それが話の中心になっている。部屋の中に、墓標をいれるガラスケースまで作ってしまう。

これほどまでに、一人の人を尊敬できるものだろうか。 これはもはや「学者」ではないか。

2013/03/17

西村賢太 「けがれなき酒のへど」

西村賢太は昭和42年生まれで、私とほぼ同い年である。

芥川賞をとったときに、中卒であるとか風俗がどうだとかいうことばかりがクローズアップされて、そんなことが売りの作家なんかと思っていたが、ほとぼりが冷めてyoutubeで彼が出演したテレビ番組を見ていてその人柄に魅力を感じて、読んでみたいなと思った。

「苦役列車」は見つからなかったが、新潮文庫のコーナーに何冊か彼の作品があった。「暗渠の宿」というタイトルのついた文庫の中に収められていたのが、「けがれなき酒のへど」である。

これは、風俗では満足できない男が本物の恋愛にあこがれそれを実現しかけて裏切られる話であるが、これで終わりかな、と思わせたところで彼が傾倒している藤沢清造という作家についての話に切り替わる。

この文庫は駅の売店で買って電車の中で読み、自宅の最寄り駅に着いたが読み終わらないので居酒屋へ入って読み終えた。

人目もはばからずにニ、三度噴出した。

俗に言う「ダメ人間」を描いている。

ダメ人間を描いたと言えば、私が知っているのは太宰治と町田康であるが、なぜか彼の文体には三島由紀夫的なものを感じた。

私の乏しい読書体験の中から、今回初めて読んだ西村賢太の文体と似ている作家を探すと、三島由紀夫になる。


主人公が風俗嬢に対して抱く勝手な幻想と、それを裏切る女、その描写は思い込みが激しく、自分が勝手に理想化してそれにそぐわない現実を罵倒する感じが三島に似ている。

それが本気なのかふざけているのかわからないところも似ている。


ダメ人間を描いているという点で似ていそうな町田康とは、まったく異なる。

町田の方が、さらっとしている。現代的である。一般受けするだろう。

西村の描き方は、自虐的とか露悪的とかいうのではなく、なんというか、超現実的な感じがする。

主人公をだます風俗嬢像は、非現実的で、想像の産物感が強い。



そういう、想像力過剰なところが、三島由紀夫っぽいと感じるところである。

2013/03/16

Bob Dylan "Christmas in the heart"

Bob Dylanが、数年前に出したアルバム。 クリスマスソングの定番がおさめられている。 

日本人でも皆知っているような曲ばかりである。 子供でも知っているような曲もある。

 多くのディランファンがこのアルバムの発表に戸惑ったことだろう。 「まあ、たまにはこういうのもいいか。チャリティーだし。」という風に片付けた人が多かっただろう。

 しかし私はこのアルバムをそんなふうに、「遊び」で出したアルバムというふうには片付けられなかった。 最近のディランは声があまりに汚く、ほとんどメロディーというものを無視していたが、 このアルバムでは久しぶりに彼がメロディーを歌っているのを聴くことができた。

 それから、若い女性、男性のコーラスと競演している。 これも普段はしない事だが、非常によく調和していた。

 ボブディランのアルバムのなかで最高傑作を一枚選べというのは愚問であるが、 私はこのアルバムを選ぶことがそれに対する唯一のまともな答えではないかと思う。

 

2013/02/24

ヘッセ 「シッダールタ」

今朝目覚めて、朝食をとろうとして、飲みすぎた翌日によくそうなるように、牛乳が飲みたくなった。冷蔵庫から牛乳をとりだし、味噌汁の椀にそそいで飲んだ。飲みながら、仏陀がスジャータからおかゆだか何かをもらって悟ったという話を思い出し、『仏陀が悟ったことはこの牛乳のおいしさのようなものか』と考え、「シッダールタ」を思い出した。

新潮文庫の高橋健二訳を持っている。平成六年四十五刷のものである。一度読んでいるはずなのだが、内容はほとんど覚えていなかった。「シッダールタ」というのは仏陀のことかと思っていたが別人で、ブッダは「ゴータマ」として登場する。シッダールタは覚者と言われたゴータマに帰依せず、世俗で遊女や商人や渡し守と交わって過ごす。ともに修行していたゴーヴィンダはゴータマに帰依するが、老年になってシダールタと出合った時に悟りの境地に達していたのはシッダールタの方だった・・・。

禁欲や修行によっては悟りに到達できないというのはブッダについての辞書的な説明でも書かれていることである。ブッダは贅沢な暮らしをして家族も持った後に出家し修行したのちに悟った。シッダールタは修行していたが俗世間に戻って俗世間で悟りを得た。シッダールタは子を作るのだがその子もシッダールタで、ゴータマもシッダールタであるから、この作品には3人のシッダールタが登場する。

主人公のシッダールタは最後には釈迦の悟ったのと同じような境地に至ったかのように描かれている。ヘッセは、釈迦のような人物は一人の天才宗教家ではなく、同じような「悟り」に至った人が何人もいたと考えたのではないだろうか。釈迦が家族を持って裕福に暮らしており、苦行では悟りを得られなかったことからも、人はどんな生活をおこなってもそれが修行となり悟りに至れる、というように考えた。

おそらく、多くの人は悟りとか仏教というものについて、そのように考えていると思う。つまり常識的な仏教観である。

私の見解は異なる。やはりブッダは一人の天才宗教家であった。彼のおこなった修行、断食などの苦行はやはり悟りに至るために必要なことであった。それも、本作品の主人公のように修行の身から俗世間に戻るのと、俗世間から出家して修行をするのとでは全く意味が異なる。俗世間で欲望にまみれて生活することも苦行であり修行である、というのは聞えはいいが、やはりそれは煩悩であり堕落であって、悟りに至る道ではない。人間の欲望というのはやはり恐ろしいものだ。

「カラマーゾフの兄弟」でも、修道院にいたアリョーシャが俗世間へ出る。そしてそれは長老がすすめたことでさえあった。そもそも作家になるような人が俗世間の欲望を断って修道院で過ごしたり断食することをよしとすることはできないだろう。「カラマーゾフ」でも、アリョーシャは苦悩しながら真人間であり続ける。それが人のあるべき姿である、というのが常識人の考え、というか、そのように考えないと自分という存在を肯定できない。

私には「俗世間で生きることこそ修行である」というのは非常に危険というか虫のいい考えに思えてならない。

ちなみにこの作品を読もうと思ったのは、Pete Townshendがこれにインスパイアされて曲を作った、というのを聞いたからである。

2013/02/11

また本が読めなくなった。

読めない。何を読んでも数ページで飽きる。

モーパッサン「女の一生」、ホーソン「緋文字」、「ノルウェイの森」、ソルジェーニツィン「マトリョーナの家」、カミュ「ペスト」、三島由紀夫「盗賊」・・・・

こんなところを読みかけては挫折しました。

でも、基本的に私は「1ヶ月に1冊読む」とか義務付けるのは嫌いだ。とくに小説とか詩とかいうのは、読めないときはいくら努力しても、辞書を引いたりしても入ってこないが、読めるときはすーっと入ってくるものだ。それなりの経験とかこころの準備みたいなものが必要なのだ。

読めない本を読んで、つまらないとか、意味がわからないとか感じることにも意味があって、自分に足りないものがあると悟ったり、自分の状態がよくない、何か悩みがあるとか迷いがあるとか、やるべきことがあるとか、そういうのを知るきっかけにもなるのではないか。

おもしろそうだからと思って買ってはみたものの読めずに本棚に置いておく。あれをいつか読みたい、読まねば、と思いながら生活することは自分の生活を多少変えると思う。私にとっては魔の山がそうだった。


あとは、相変わらず「不朽の名作」みたいな小説しか読まないのもどうかなと思う。もっと実用的なものとか、話題の本とかも読んだほうがいいかなと思う。

でも読書って、音楽や映画もそうかな、やっぱり別天地を味わえるのが醍醐味ではないだろうか。みんながそれを読んで楽しんでると思うと、それだけで私は敬遠したくなってしまう。

2013/01/21

センター試験をやってみた

「詳説 世界史 B」とZ会問題集アプリで結構勉強したので力試しにセンター試験をやってみた。世界史Bは64点だった。7割はいける、あわよくば8割くらい、それくらいだったら大学受験してみようかと思っていたがそう甘くはなかった。でも代ゼミの予想平均点は61点なので、まあよしとしよう。確か現役のときは平均を下回っていた。

ついでに他の科目もやってみた(カッコ内は代ゼミの予想平均点)。

英語 180 (122)、国語 113 (107)、数学(数I・数A)  22 (57)、生物 37 (66)、世界史 64 (61)

英語と国語は10分くらい時間をオーバーしている。理科社会は2科目ずつやるのか?今日はつかれたのであしたにする。英語はすばらしい。TOEICよりやや易しいくらいの難度か。国語は得意科目だったのにショックだ。古文がほとんどチンプンカンプン、漢文もすっと読めない。数学、生物がひどいがまあ仕方ないか。生物は現役のとき選択した科目で8割はとれたのだが、これもほとんどチンプンカンプンだった。

2013/01/17

詳説 世界史 B

高校の世界史の教科書である。私は高校時代受験科目に世界史を選択したが成績はよくなかった。しばらく前に買ってあった山川出版の「詳説 世界史B」を、iPhoneアプリのZ会問題集をときながらとりあえず全部読んだ。アンリ4世とかジェームズ1世とかシャルル何世とか、こんなこと覚えてどうするんだ、というのは受験生だったときと同じ感想である。

あらためて感じたことは「朝(王朝)」というものの重要性である。要は、血統のことである。それが、ほとんど国名と同様の意味を持っていた。ただそれは昔の話で、次第に王というものは廃されていき、多くの国は「共和国」となっていった。「教科書史観」では、それが当然の流れ、王政というのは古い制度とみなしているところがあり、また歴史を専門としていない一般の人にもそういう認識があるだろう。イギリスやフランスで起こった革命はすばらしいことである、という。

私はフランス革命とかナポレオンとかアメリカ独立というところではあまり心が躍らない。私は西アジアとかモンゴルあたりのそれほど大きくない得体の知れない国々の興亡のあたりがわくわくする。勉強のために覚えるには厄介なところだが。

アメリカと日本は普通「共和制」とはいわないが、広義には共和制と言ってもいいのではないだろうか。要するに「王様のいない国」である。日本の天皇はもはや王様ではない。

こないだ読んだ聖書に関する記述は、モーセ、ダヴィデ、イエス、パウロ、ペテロくらい、合計で10行くらいだろうか。

「戦争と平和」に関連するのはアウステルリッツの戦い、三帝同盟、アレクサンドル1世など、5行くらいかな。


1、2週間くらいしか読んでないのにボロボロになった。

情報量はどれくらいなのか。字はけっこう大きい。
1ページ26行x33文字、355ページ、30万4590字だが、図や写真などが多いので8割くらいとして約24万字。

私の持っている文庫本で同じくらいの字数のものを探してみたら、三島由紀夫の「春の雪」が概算で31万字だった。「世界史の教科書なんか読んでらんない」と思っている人も、文庫本1冊程度の情報量であると考えると、たいしたことはないと思えるのではないか?





2013/01/09

Bob Dylan "Idiot Wind"



Someone’s got it in for me, they’re planting stories in the press
Whoever it is I wish they’d cut it out but when they will I can only guess
They say I shot a man named Gray and took his wife to Italy
She inherited a million bucks and when she died it came to me
I can’t help it if I’m lucky 
People see me all the time and they just can’t remember how to act
Their minds are filled with big ideas, images and distorted facts
Even you, yesterday you had to ask me where it was at
I couldn’t believe after all these years, you didn’t know me better than that
Sweet lady 
Idiot wind, blowing every time you move your mouth
Blowing down the backroads headin’ south
Idiot wind, blowing every time you move your teeth
You’re an idiot, babe
It’s a wonder that you still know how to breathe


ボブ・ディランの曲です。

BLOOD ON THE TRACKS に入っています。

このアルバムは傑作とされていて、最高傑作とする声も多いです。

私も傑作とは思いますが、最高傑作には絶対に選ばないですね。


ただ、ブートレッグシリーズという、3枚組みのCDが発売されて、そこにこのアルバムの発売直前に差し替えられたという別テイクの曲がいくつか入っていたのですがそれがすばらしく、もし差し替えられていなかったら最高傑作になっていたかもしれません。

Idiot Windの別テイクもありました。聴いてない方はぜひ聴いてください。


さて、この Idiot Windという曲ですが、あらためて歌詞を読んでみると不可解な詩です。

まず、"Idiot Wind" という言い方を、この曲以外に聴いたことがありません。

でも、ディランは女に対して冷たく突っぱねるような曲をよく書いています。

It Ain't Me, Babe

I don't Believe in You

Like a Rolling Stone

など。


Idiot Windも、この手の曲か、と聴いていたのですが、それにしても、

"Idiot wind, blowing every time you move your mouth"

"Idot wind, blowing every time you move your teeth"

というと、私は「口臭」を連想してしまいます。



ディランは、"Idiot Wind"という言葉をどういう時に思いついたのか。

私は女がくだらない事、知性のかけらもないことをしゃべったときに、口臭を嗅いだのではないか?
と思いました。


もちろん、歌詞に「臭い」とは書いていませんが、

mouth, teeth, breath ときて、idiot wind と来たら、これは「口臭」のことだ、と考えるのは至極当然のことではないでしょうか?







2013/01/07

泉鏡花 「義血侠血」

泉鏡花は夏目漱石より後に生まれているが、その文章を読むと漱石より古い世代の人かと思ってしまう。私にとって漱石の世界は「現代」に含まれている。それを現代と呼ぶのか近代と呼ぶのかはともかくとして、漱石以前の作家は「昔の作家」だ。

泉鏡花の作品は短編で、ストーリーの起伏が大きく、劇的である。夏目漱石の作品のように、主人公があれこれ考えるが結局何もしないのとは対照的である。

漱石はおそらくあまりに作り話っぽい書き方がイヤだったのだろう。

泉鏡花の作品の特徴が彼の特徴なのか、それともこの時代は多かれ少なかれそうだったのかは他の作品を読んでいないのでよくわからない。

登場人物が江戸弁で会話するのが心地よい。

「虚言(うそ)と坊主の髪(あたま)はいツた事はありません。」

「吉公、手前(てめえ)また腕車(くるま)より疾(はえ)えといつたな。」

「応(ああ)、言った。でもさう言はねえと乗らねえもの。」

とか。


泉鏡花の文体は古臭く文語体に近いのだが、内容が過激で陰惨さや不気味さをもっているところは現代的といえるかもしれない。

「義血侠血」は、ある男が偶然であった女にあることがきっかけで金を援助してもらって学校へ行って出世する話かと思ったら予想外の事態となって最後は悲劇的な結末を迎える。


同じ本に収められている「夜行巡査」「外科室」という作品も、血や死が描かれる、強烈な作品である。

しかし主人公の行動原理は高潔であり、卑怯ではないので、暗い気持ちにはならない。


2013/01/03

ヨイトマケの唄

今年は紅白歌合戦をラジオで聴いた。最初から最後まで。紅白を全部通したのはおそらく生まれて初めてである。今回私が注目したのは、矢沢永吉、三輪明宏、斉藤和義などである。注目はしていなかったが気になったのはきゃりーぱみゅぱみゅと、途中で西田敏行らが歌った歌、あとはYUIかな。それから、赤組司会の堀北真希の声がよかった。

三輪明宏は「ヨイトマケの唄」を歌った。この唄に感動したという声をインターネットの諸サイトでちらほら見たが、私はこの唄のよさがわからない。

いいと言う人は歌詞の内容に感動するようである。歌詞の内容は一言で言うと「労働賛歌」である。しかもこの唄は「土方」という言葉により差別問題も扱っており、さらに、その「土方」仕事をしていたのは父ではなく母である。母子家庭だったのだろうか。

バカにされながらも母の働く姿に感動した子は、「勉強しよう」と決意し、大学を出てエンジニアとなる。彼は自分の人生を「成功」だと考えているようである。

そのことはもちろん悪いことではない。しかし、私には少し引っかかるものがある。

この男は、「俺は土方仕事なんか嫌だ、バカにされたくないから一生懸命勉強して大学を出てエンジニアになるんだ」という気持ちがあったのではないか。

私は「土方」が差別される理由がよくわからない。私に言わせれば机に座って汗ひとつかかず不毛な会議や書類のやりとりをしている「ホワイトカラー」とか「管理職」と呼ばれる人々の方がよっぽど卑しいと思う。

「土方はイヤだから勉強してホワイトカラーになる」というのは賢明な考えではあろうが、美しく感動的なものではなく、私から見れば卑しいとさえ感じる。

この男が母に感じているのは、「土方のようなみっともない仕事をして、バカにされながら私を育ててくれてありがとう、僕はあなたみたいな人間にならずに済むように大学へ行って出世します」ということだ。

私はその学問観にも疑問を感じる。

学問というものは、各個人の生活の糧を得るためのものではない。学問の目的はそんなことではなくて、人類全体への貢献を目指すものである。「土方にならないように大学へ行く」などという動機は卑小極まりない。

私は努力や自己研鑽を否定するのではない。

だが、それらの目的が単に「グレずにまともな人間になって安楽な生活をする」という、ごく個人的な利己的なものであることに幻滅を感じるのである。

007 スカイフォール

新宿ミラノ3にて。007シリーズを見るのは初めてである。

監督のサム・メンデスは名前はどっかで聞いたことがあるなというくらいで他の作品を見たことはない。出演者も誰も知らない。

なんで007が戦っているのかよくわからない。

登場人物の年齢層が高い。

ただ、画面はどぎつくなく、CGは使われていたかもしれないがそんなに大仰なものはなく、登場人物達が大声で怒鳴りあったりすることもなく、比較的淡々とした映画なので落ち着いて見ていられた。

主要キャラクターの一人、いってみれば「悪役」「敵役」ということになる男の不気味さ、醜さが少し後を引く。

スカイフォールというのは実在する地名なのか?

荒野の中の大きな屋敷というのは、先日半分くらい読んだ「嵐が丘」を思い出させた。

この映画もやや暗い映画だ。

「ボンドガール」が出てきても全然ときめかない。

でも、その淡々とした感じがよかった。

敵役をもっと凡庸な悪人にしてしまい、上司?の女性も死なないようにして欲しかったくらいだ。

そうしてしまったら退屈すぎるか。