2012/11/30

森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」

この作品は乃木大将の自決直後に、それをテーマにして書かれたものだときいて読んでみた。非常に短くて、買った帰りの電車の中で読んでしまったが、チンプンカンプンであった。家に帰って巻末の斎藤茂吉の解説も頼りにしてもう一度読んでみてようやくどんなことが書いてあるかがわかってきた。

乃木大将と弥五右衛門に共通しているのは、過去の自分の過ちを理由に殉死しているという事である。乃木氏の場合は西南戦争の時のことであるから30年以上も経過していることになる。乃木大将の殉死は世間を驚かし、その行為を批判したり正気の沙汰ではないという意見も多かったようである。鴎外はそれに対し、武士というのは、殉死というものはほとんど狂気のようであるが、けっしてそうではないと、弥五右衛門の例を示したのではないだろうか。

乃木大将の殉死については、夏目漱石のこころでも触れられており、こころの主人公の先生も過去のこと、これはいわゆる「三角関係」であるが、に罪悪感を感じ自殺する。夏目漱石も、乃木大将の死を批判する気はなかっただろう。むしろ感動してこころを書かせたのではないだろうか。だが、こころでは主人公は武士でなく、一般人どころかろくに仕事もしていない無為徒食の人間である。こころの先生の自殺と、乃木大将や弥五右衛門の殉死を同じようなものと見るのは無理がある。

夏目漱石は、武士道に賛同できなかった、少なくとも、明治の時代になって武士でもない一般人に殉死のような行為を理解するのは無理だ、私は殉死などできない、という思いがあったのではないだろうか。「こころ」では明治天皇の死と乃木大将の殉死について、自殺する先生にその事を言及させている。だが、先生は明治天皇に殉じたのではなかった。彼の死は、全く個人的な、自分の苦悩による自殺であって、自決とか殉死とは呼べるものではなかった。

夏目漱石は、「現代人に自決などできるものではない」という意識があったのではないだろうか。私から見ると、「こころ」は非常に遠まわしにかすかにではあるが、乃木大将の自決を批判している。

自決と言えばもう一人、三島由紀夫である。彼の行為は茶番であるとかそれこそ正気の沙汰ではないという批判が乃木大将よりも強く、ほとんど理解されなかったのではないか。しかし、彼の自決が世間に与えたショックは相当なものであったらしく、当時のことを振り返る人は皆そのニュースを知ったときの衝撃をよく覚えている。

三島の死は衝撃であると同時に不可解なものであったようだが、ほとんどの場合「自決」と言われる。「自殺」と呼ぶことは少ない。

私は殉死も自決も自殺も、ほめられたものではないと思うが、ばかげているとか卑怯だとか弱虫だとかいうこともできない。


里見弴 「文章の話」

里見とんの作品は読んだことがない。古本屋の店頭に置いてあった岩波文庫を買った。どうやら小学生向けに書かれたもののようだ。それにしてはちょっと難しいのではないかと思った。語り口は饒舌だが、なんというか、老人くさいというか、古臭いというか、昭和12年ごろ書かれたものだから仕方がないかもしれないが、なんだか生活臭がするような人間臭い文章である。

自分が文章を書く上で、何か新しいことが読めたわけではないが、一人の作家が文章とは何か、言葉とは何かということをまとまったものに表現したものには興味があった。だから本書は文章どうこうよりも、里見とんという人について書かれているものとして読んだ。


2012/11/28

「戦争と平和」 (10) 第三巻 第二編

アンドレイ公爵の父が亡くなる。ロストフとマリヤが出会う。ボロジノ役。ピエールが戦場へ行く。アンドレイ公爵が重傷を負う。トルストイのナポレオンに対する批判が強くなってくる。ピエールは戦場へ行くのだが戦うわけではなく、戦地を観光するかのように見てまわっている。アンドレイ公爵は治療を受けているときに、片足を失ったアナトーリを見る。

「中巻」が終わった。あとは「下巻」を残すのみ。

2012/11/25

「戦争と平和」 (9) 第三巻 第一編

戦争再開。第三巻の最初に、トルストイの戦争観が書かれている。戦争というものはたとえばナポレオンとかアレクサンドル皇帝などの思想や判断などによって起こるものではないというようなことだ。この小説には数え切れないくらいの人物が登場し、戦場の場面もあれば舞踏会や狩猟やお祭りの仮装大会や、結婚、不倫、裏切りなどもつづられる。ナポレオンは誰もが知っている憎き人物なのだが、彼も当然一人の人間であって、もちろん彼だけが歴史を動かしていたのではないのである。われわれは過去の歴史を振り返ったときにまるでシーザーとかジンギスカンとかナポレオンとか、ヒトラー、スターリンなどの人物達が、彼らだけが歴史をつづってきたかのように思いがちだが、当然、その時代にはピエールとかアンドレイ公爵とか、ニコライ・ロストフのような人物がいて、結婚したり、妻に失望したり、死別したり、バクチで大損したり、恋をしたりしていたのである。小説を読んでいれば、むしろナポレオンや戦争などよりもそちらの方がよっぽど大事で、感動的でもあるのである。しかしまた、戦争というものが避けようのないもの、ほとんど宿命のようであること、それに身を捧げること、それについても安易におろかなことだと片付けることもできないのである。

2012/11/22

「戦争と平和」 (8) 第二巻 第五編

ピエールの生活が乱れる。アナトーリがナターシャを誘惑し、ナターシャはアンドレイ公爵との婚約を破棄する。駆け落ちを計画するが失敗しアナトーリは去りナターシャは自殺を図るほどに悲しむがピエールが励ます。という感じ。ピエールの妻エレンは完全に「悪役」になってしまった。

第二巻が終わって、約半分である。あと半分は長いなとも思うが、登場人物たちに親近感が沸いてきていて、読み終わってしまうのがさびしい気もする。

予定ではもう読み終わっていたはずだが、あと1週間くらいかかるかな・・・。

2012/11/20

「戦争と平和」 (7) 第二巻 第四編

ニコライ・ロストフが休暇をもらって帰省したときの話。狩にいったり、お祭りがあって仮装をして、仮装したソーニャを見て結婚を決意する。 今度こそ「平和」の話。ただし、ニコライがソーニャを選んだことについて両親はがっかりするのだが。 狩では犬を130頭連れて行くなど、やはり常識はずれの貴族の話である。 ちょっと読むのが億劫になった。 「また戦争にならないかな・・・」などと思いながら読んでいた。 ただ、最後にニコライとソーニャの話が出てくるように、必ず何かしらのヤマがあるので読めている。 第五編で二巻が終わって、半分か。

2012/11/18

「戦争と平和」 (6) 第二巻 第三編

舞踏会とか、夜会とか。ピエールは社会運動家のようになる。妻を亡くしたアンドレイ公爵は父に反対されるがナターシャに結婚を申し込む、など。

さて、登場人物達はみな、「公爵」「伯爵」などという肩書きのついた人々、つまり貴族である。私もそうだったが、多くの人は小説を読むときにはそのような肩書きをほとんど無視して、一人の人間として、男や女、父や母、夫、妻、友人、などという関係とその間に生じる感情などを読んで、共感するのではないだろうか。だが、この第三編を読み終えるくらいに、私はそのような読み方でいいのだろうか?と思い始めた。

果たして、当時のロシアにとっての爵位というのはどのような意味を持っていたのだろうか?今、私の生活に爵位などというものはもちろん関わりがない。日本にも士族とか華族とかいう制度があったが今は廃止された。従僕とか侍女などもいない。家政婦さんはいても、それはあくまでも職業であり、契約して何かをしてもらうだけであって、主従関係はない。しかし、1800年頃のロシアを舞台にしたこの小説を読むときに、そういう時代だから「公爵」だの「伯爵」だのという肩書きがついているだけであると考えていわば「読み捨て」てしまって良いのだろうか?

本作品内では、人の呼び方はいろいろ変わる。たとえば主人公のピエールはだいたい「ピエール」と書かれるが、「ベズーホフ伯爵」と書かれることも多い。「アンドレイ公爵」はときどき「ボルコンスキイ」と書かれる。ピエールの妻となったエレンは、「ベズーホフ伯爵夫人」とか「エレーナ・ワシーリエヴナ」などと書かれる。が、基本的に登場人物の名は爵位をつけて書かれる。

これらは、当時の習慣だからそのように書かれているのだろうか?われわれは「戦争と平和」を読むときに、「貴族社会を描いたドラマ」として読むべきなのだろうか?それとも、時代や国や身分が変わっても、人の心の動き、感じることは同じなのだ、というような普遍的なものを読むべきなのか?

私はいままで、「普遍性」を読み取ってきた。しかし、いい加減にそれに無理を感じている。舞踏会とか、夜会とか、その際の服装とか、会話の内容とか、身分による関係であるとか、あまりに今の自分には縁がなさすぎる。前にあった、ニコライが作った多額の借金とかもそうである。


現代のわれわれがNHKの大河ドラマを見るときに、平清盛とか源義経が出てくれば、普通の一人の人間とは見ない。それらの人物が泣いたりすれば、「ああいう人にも泣くことがあるのか」というように見るだろう。「戦争と平和」も、そのように読むべきなのではないだろうか?

つまり、登場人物に感情移入することが難しいのではなく、それをしてはいけないのではないか?

公爵とか伯爵というものが、どれくらいの重みを持つのかがよくわからない。もう、一般人とはかけ離れた本当に特権階級なのか、それとも公爵などたくさんいて、あまり普通の人と変わらないのか。

2012/11/15

「戦争と平和」 (5) 第二巻 第二編

ピエールが「マソン(フリーメーソン)」に入会する。

フリーメーソンというと私には闇の秘密結社みたいな恐ろしいものというイメージがあるのだが、「七つの徳」などを見ても特に恐ろしいことは何もない。魔の山でもセテムブリーニはフリーメーソンだということが出てきたが、その際にも別に秘密でもなんでもなくさらっとしていた。

そしてピエールは社会改革を目指すような人間になる。「キリスト教的社会主義」みたいなものだ。私が胡散臭いと感じるものである。


フランスとの戦争は一時和平状態となり、アレクサンドル皇帝とナポレオンが勲章を与え合う。

など。

「上巻」が終わった。つまり、約1/3だ。意外にすっと読めた。

「戦争と平和」 (4) 第二巻 第一編

「平和」の世界。子供が生まれたり、浮気を疑って決闘をしたり、バクチで大負けしたり、求婚したりする。

ニコライ・ロストフは「4万3千ルーブリ」という金額を負け、父に頭を下げて助けてもらう。

どのくらいの金額なのだろうか?「ルーブリ」はドストエフスキーの小説でも出てきて、どれくらいかなと思うのだがわからなかったが、「1ルーブリは約1000円」という情報を見つけた。だとすると4300万円ということになる。

貴族だから、これくらいはあり得るのか。小説だし。

それから、決闘。魔の山でも決闘シーンが登場したが、やけに簡単に決闘をする。まあ、小説だけど。それにしても、拳銃を持って向かい合って打ち合うなどという恐ろしいことがよくできるなと思う。

戦争ではないけれど、「平和」とも言えないか。

「戦争と平和」 (3) 第一巻 第三編

ピエールとエレンが結婚する。マリヤがアナトーリとの縁談を断る。どちらも、本人以外の意向が強く働いている。

そして、アウステルリッツのいわゆる三帝会戦。いままで会話の中でしか出てこなかったナポレオンが登場して、負傷して捕虜となったアンドレイ公爵に言葉をかける。アンドレイ公爵には尊敬していたナポレオンが小さなものに映る。

会戦のくだりはわくわくして一気に読んだ。私は戦争を描いた小説はほとんど読んだ記憶がないが、登場人物の心理と状況が織り交ぜて語られて緊迫感が伝わってくる。

ロシア・オーストリアの皇帝が登場し、それを見るものの目には神々しい人物として映っており、筆者にも尊敬の念が感じられる。

第一巻が終わった。

2012/11/12

「戦争と平和」 (2) 第一巻 第二編

第一編と第二編は、ほとんど別の物語のようである。第二編は戦争の話。相手はフランス軍である。客観的な描写が続く。従軍している人々に緊張感はなく、使命感や愛国心なども見えず、仕事としてしかたなくやっている。実際の戦争はそういうものなのだろう。トルストイは従軍の経験も豊富なようだ。交戦になるとさすがに緊張したシーンになるが、その緊張も、戦争に意義を見出し国のために戦うといった緊張ではない。ただひたすら自分の命を守りそのために敵を倒すのだ。

第一編の社交場でのやりとりは全く縁がなく理解に苦しんだが、戦争についてもまた縁がない。でも、こちらの方がリアリティのようなものを感じられた。と言っても、大勢の登場人物がしっかり把握しきれず、何人かの人がわいわいがやがややってんな、と遠くから見ているような感じだ。

そんな読み方でいいんじゃないだろうか。とりあえず。第二編を読み始めたときはもうやめようかとさえ思ったのだが、戦闘シーンになって引き込まれた。戦闘シーンといってもそんなに勇壮なものではない、みっともないとさえ言えるようなシーンだったが。

「戦争と平和」なんて、凡庸なタイトルだなと、若い頃は思っていた。戦争に批判的な姿勢は感じられるが、安直な反戦文学などではない。もっぱら「ボナパルト」と呼ばれるナポレオンについては、登場人物達のリアルな心情の変化や行動のはるか上に、まるで「本当に実在するのか」とさえ感じる程に現実感なく流れている。このナポレオンの存在が、この小説を引っ張っている。


2012/11/11

「戦争と平和」 (1) 第一巻 第一編

とんでもないものに手をつけてしまった。

ここで原文が読める。
http://ilibrary.ru/text/11/index.html

登場人物の多さ。次から次へと新しい名前が登場する。

人間関係は、夫妻、友人、従兄弟、従姉妹、親子、私生児などがからみあう。

登場人物も子供、壮年、老人まで幅広く、

現代の日本では縁遠い、従僕、侍女などというものも存在する。

公爵、伯爵などの身分も実感しにくい。


この小説にはナポレオンが関係していることは知っていたが、今のところナポレオンは、登場人物の話題に上る人間にすぎない。

現代のわれわれが、カダフィがどうした、オバマがどうした、と語るようなものだろうか。


登場人物の人名はノートにメモしているが、まだ1割も読んでいないのに、誰が誰でどういう関係なのかが把握しきれていない・・・




2012/11/10

「戦争と平和」を読む (0)

「戦争と平和」 中村白葉訳 河出書房新社の全集。
父が買ったものだが読んだ形跡がない。

約182万2500字。原稿用紙に換算すると4557枚。
聖書より1割くらい多い。

11/10から開始、11/19終了予定。

トルストイは短いのしか読んだことがない。

「アンナ・カレーニナ」を読もうとして挫折した経験あり。




2012/11/09

マキアヴェッリ 「君主論」

「君主論(IL PRINCIPE)」 マキアヴェッリ著、黒田正利訳
岩波文庫、昭和10年第一刷、昭和50年第38刷発行

1512~1513に書かれた。当時の著者は今の私と同じくらいの年齢である。

もっと古い時代の人かと思っていたが、ルネサンス期の人、レオナルドダヴィンチと同時代の人だった。

この書についてはあまりにいろいろなことが言われすぎていて、どうせああいうものだと思って読まないか、変な先入観を持って読んでしまいやすいのではないだろうか。

私は古本屋の店頭の100円コーナーにあったのを見つけて買ったが、これまた読まずに本棚に置いてあったものである。


君主のとるべき態度を語っているのであるが、それは私がイメージしていたような冷たいものというより、必死さを感じた。また、聖書でモーセがイスラエルの民に言って聞かせるような強固で絶対的なものでもない。

そしてそれらは原理原則のようなものではなく、過去の歴史を振り返って経験則として導き出されたものである。それがいいとか悪いとかを判断する前に、他民族多国家がひしめくヨーロッパだから生まれた思想ではないだろうか。これは、天から降りてきたものではなく、明らかに地上から芽生えたものである。そういうものが、「ルネサンス」なのだろうか。

最後の方で、なるほどと思ったところが一箇所だけあった。

由来運命の神は女神である。だからこれを支配するためには撲ったり突いたりする必要がある。冷静に事を処理する人よりも、どうもこうした人にもっとよく従うものであるらしい。だから運命は、女と同じく、つねに若者の友である、これ青年は思慮浅く、乱暴で、しかもよく大胆に彼女を支配するからである。



2012/11/07

よくわからない「不安の概念」



 次に読んだのはキェルケゴールの「不安の概念」である。

岩波文庫の、斎藤信治訳、1951年第一刷、1993年41刷発行のものだ。

これも買ってはみたが読まずにいたものだ。発行年からすると、20年くらいたっていることになる。

私は高校生の頃に、「死に至る病」を読んで、「俺は悟った」と友人に言ったくらいに感動した。

「不安の概念」は、パラパラとめくってみると原罪、アダムとイブのことなどが書かれていたので、謎めいている「失楽園」のエピソードが一体どういうものかが解明されているかと期待していた。

しかし、これは期待しているようなものではなかった。


20年くらい前に買ったが読めなかったものだ。

序文や緒論もちゃんと読む。

緒論を読んで、面食らった。なんだこれは。何を言ってるんだこの人は。さっぱりわからない。

しかし、私は腹を決めて、わからないなりにとりあえず最後まで読み通そうと決心した。


内容は、死に至る病と似たところがあるが、いまひとつ肝心なところに触れていないというか、突っ込みが足りないというか、本音が出ていない、と感じた。


キェルケゴールの作品を久しぶりに読んで、おそらくヘーゲル用語と思われるものに戸惑った。
直接的、止揚、弁証法、宥和、精神、規定、措定、統一、綜合など。

彼はヘーゲルに強い影響を受けながらも最終的にはそれに批判的な立場を取ったということが言われている。

私は、キェルケゴールのことを「哲学者」だと思っていない。単なる一人の人間として、深く考えた一人の人として、その言葉を受け取っている。

心理学、倫理学、教義学のどの範疇なのかどうだこうだというのは、「死に至る病」でも最初の方に言及されていたが、それはあまり重要なことではない。

それから、本書も、死に至る病も、「哲学書」として分類されているが、私はこれを哲学書だとは思っていない。

ソクラテス、カント、そしてキェルケゴールは、哲学者とされているが、彼らは皆、「哲学でわかることとわからないこと」を区別した。

そして、神とか、原罪とか、絶望とか、不安とか、そういう、誰もが昔から悩まされそれが何であるかを考え議論してきたものは、哲学や科学で解明できるようなものではない、という立場をとっている事で共通している。私はそのように捉えている。

「不安の概念」は「死に至る病」よりも哲学臭い。

私は彼がこのように哲学臭く語るのは皮肉なのではないかと思うことがある。

偽名にしているのもそれだからではないのか。







2012/11/06

聖書は創作物か

村松剛著「ユダヤ人」(中公新書)を読んだ。

この中で、旧約聖書の内容を、考古学者などが研究した「史実」と照らし合わせていくところがある。

たとえば「大洪水」であるが、紀元前4000年頃、「ペルシャ湾から北西に約500キロ、幅百七十キロつまりメソポタミア平原のほとんど全部に及んだ」とか。

「部族を統一するためには、共通の過去、共通の運命を強調しなければならないから、教えは必然的に歴史的に、―歴史主義的になる。」

つまり、著者は神も聖書もモーセの創作物だと言っている。「モーセエジプト人説」まで紹介している。

聖書に書いてあることをそのまま信じるほうが無理があるかもしれないが、私は数千年を超えて読まれてきた書でもあるから敬意を払って、基本的にすべてを受け入れる立場である。

そのような立場についての異論というか、信条の違いみたいなものはあるが、非常に参考になることが書いてあった。

異教の偶像崇拝のことを「姦淫」ということについてであるが、やはりそれは文字通りの肉体による淫らな性的行為が伴っていたようだ。ひとつは豊作を祈願し酒を飲み踊り乱交する「オルギア」。

それから、「神殿娼婦」という、「売春」を聖なる行為とする習慣があったようである。神殿娼婦、神殿男娼という言葉は聖書にもあった。


私は聖書にはある程度の誇張や象徴的な表現が含まれているとは思うのだが、本質的な虚偽はないと思っている。民衆を従わせるとか部族統一などのために創作されたものではないと考えている。


よく日本人には「日本教」という宗教があると言われる。だいたい悪い意味で言われるようだが、日本人は勤勉で謙虚で礼儀正しいのは間違いない。しかもそれは、戒律とか神なしに実現しているのである。これは本当に驚異的なことだ。はたしてこれは「天皇」によるものだろうか?ニュースや新聞では「天皇陛下」と呼ばれる。「陛下」をつけなかったら大問題になるだろう。日常生活では天皇という存在は日本人にとってほとんど縁がない。しかし、だからと言って天皇が軽んじられているわけでもない。

天皇はまさに日本国民の「父」のような存在で、これは理想的な徳治する王ではないだろうか。

会社勤めをし、むやみに転職せず、時々居酒屋で宴会をする、という日本人の働き方も、「日本教」ならではだと思う。私は「飲み会」が非常に苦手だ。酒を飲むのに、節度を失ってはならず、この会には厳然たるタブーがある。


私は本書を読んで、なんだか寂しくなったというか、興ざめした。
聖書を読んだときに味わった昂揚がすっかり収まってしまった。

聖書のダイジェストというか、「聖書とはこういうことが書いてある」という本は、買ったことはないが立ち読みでパラパラと見てみたことがあるが、聖書は要約し得ない。

聖書には互いに矛盾するような書が一緒に収められている。その一番わかりやすい例が新約聖書と旧約聖書である。その他、細かいところで食い違うようなところ、不明なところもたくさんある。

だが私は、それらを全部読んで、その矛盾や疑問まで含めて、聖書には意味があると思っている。創世記から始まって、律法、歴史、詩、預言、黙示などが集められた。この執筆と編纂も数千年に渡って行われてきた。それを、アブラハムかモーセかわからないが、だれかが創作し、それを子孫が引き継いで受け継がれたものだとは私にはどうしても思えない。


2012/11/04

新約聖書を読む (27) ヨハネの黙示録

青い馬がどうしたとか、
赤い龍とはローマ帝国のことだとか、ソ連のことだとか、
666はネロのことだとか、
にがよもぎはチェルノブイリのことだとか、

恐れ多いものとして一目おいていた黙示録であった。

聖書を全部読めば、黙示録に書いてあることがどういうことかわかるかと思っていたが、
まったくわからない。

エゼキエル書に書いてあることと似たようなことが書いてある。

聖書を研究するのは意味のあることかもしれないが、黙示録には近寄らない方がいいと思う。

私は、ヨハネの黙示録は聖書から除外した方がいいんじゃないかとさえ思う。

手紙も、パウロの手紙以外はなくてもいいんじゃないかと思う。



これで、旧約聖書、新約聖書を通読した。

一回通読したくらいですべてわかるようなものではないと思うが、
とりあえず、大きな建物の概観を把握したようなものだろうか。

新約聖書を読むのに費やした時間は約9時間だった。

新約聖書を読む (26) ユダの手紙

このユダはイスカリオテのユダではない。

ソドム、ゴモラ、モーセ、カイン、アダム、エノクなど懐かしい名前を出している。

新約聖書を読む (25) ヨハネの第三の手紙

no comments.

新約聖書を読む (24) ヨハネの第二の手紙

no comments.

新約聖書を読む (23) ヨハネの第一の手紙

このヨハネは福音書を書いたヨハネだろうか?

言っていることが似ているので多分そうだろう。

罪と愛について語っている。

なんか胡散臭い。

新約聖書を読む (22) ペテロの第ニの手紙

誰が書いたのかとか、本当に書いたのかとか、そういうことを詮索するのはやめよう。

私はこの手紙を初めて読んだとき、とても身につまされたのを覚えている。


彼らは、真昼でさえ酒食を楽しみ、あなたがたと宴会に同席して、だましごとにふけっている。その目は淫行を追い、罪を犯して飽く事を知らない。彼らは心の定まらない者を誘惑し、その心は貪欲に慣れ、のろいの子となっている。

新約聖書を読む (21) ペテロの第一の手紙

一番弟子。

といっても、三度師匠を否定しているが。

この手紙には「信仰」という言葉は出てこない。

「肉の欲を避けなさい」

「りっぱな行いをしなさい」

「神の僕にふさわしく行動しなさい」

という、現代でも言われるような常識的な道徳をすすめている。


この手紙、ヤコブの手紙もそうだが、本当に書かれたものなのだろうか。

パウロの手紙は各地に伝道したからその必要性もわかるが、
ヤコブ、ペテロ達に手紙を書く必要があっただろうか?

新約聖書を読む (20) ヤコブの手紙

直弟子の手紙である。

宛名は「離散している十二部族の人へ」である。

パウロは復活したイエスしか知らない。

ヤコブは十字架に付く前のイエスと、最後は見捨てたにしても、行動を共にした弟子である。
その言葉は重い。

パウロと正反対ともとれるような事を言っている。
「人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰によるのではない。」

パウロは律法と信仰をならべて語った。律法とは、「行い」と言ってもよいだろう。

パウロの手紙を読んでいると、信仰さえあれば行いはいらない、いくら「善行」を積んでも、信仰がなければ救われない、「善行」がなくても信仰があれば救われる、という気になる。

でも、現代の日本人から見れば、ほとんどの人がヤコブの言っている事の方が正しいと思うだろう。

つまり、信じているだけでは意味がなく、行動で示すことが大事だと。

アブラハムがイサクをささげたことを、パウロは「信仰」であると言い、ヤコブは「行い」であると言った。

言いたいことは同じなのかもしれないが、信仰していることを示すには行いが必要である。でも、なんの信仰もないのに形式的に行動してもそれは意味がないだろう。


これは微妙な問題だが、私はやはり「信仰」が重要だと考える。

信じなければ行えないのは確かだし、行わなければ信じているかどうかはわからないのも確かだが、やっぱり、信じているかどうか、罪を自覚しているかどうか、そこが重要なのだ。



新約聖書を読む (19) ヘブル人への手紙

この手紙は誰からということが書いていないが、パウロ以外の誰がこれを書けるだろうか?

私はガラテヤ人への手紙が最も重要だと言ったが、それは撤回して本書が最重要としたほうがいいかもしれない。

この手紙は他の手紙とは少し調子が違うのだが、それは無理もない、だって「ヘブル人」への手紙なのだから。

「ヘブル人」。

私が何もしらずに聖書を読み始めた頃は、ローマ、コリント、テサロニケ、などのさまざまな人々に宛てている手紙であるとしか知らず、「ヘブル人」とはどういう人なのかを知らなかった。


「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。」

新約聖書を読む (18) ピレモンへの手紙

「キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、」

という卑屈なまでのへりくだりから始まる。


パウロに子供がいた!その名はオネシモ

・・・と思ったら、これは実の子ではないようだ。
でもそれはwikipediaの記述なのでどこまで本当かは怪しい。

「すでに老年になり」と書いてあるが、このころパウロは何歳くらいだったのだろう?


新約聖書を読む (17) テトスへの手紙

テトスも弟子みたいですね。

きよい人には、すべてのものがきよい。しかし、汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまっている。彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である。

俺の事か!

新約聖書を読む (16) テモテへの第二の手紙

パウロの手紙は、遺書のようなものだ。

主の囚人 
キリスト・イエスの良い兵卒
人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。
わたしが世を去る時はきた。


新約聖書を読む (15) テモテへの第一の手紙

テモテはパウロの弟子のようだ。

弟子にあてた手紙なので、落ち着いている。

作り話やはてしのない系図などに気をとられることもないように、命じなさい。

新約聖書を読む (14) テサロニケ人への第二の手紙

「主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動かされたり、あわてたりしてはいけない」

不品行とか、怠惰な生活とか、そういうことに悩まされていたようである。

新約聖書を読む (13) テサロニケ人への第一の手紙

テモテとは誰か。

パウロの手紙で必ずと言っていいほど連名で記される人。


新約聖書を読む (12) コロサイ人への手紙

わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。

「あがなう」という言葉は旧約聖書でもかなり古いところから使われていた。意味ありげに。

だがそれが、「ゆるし」であると明言されていたところがあっただろうか?


新約聖書を読む (11) ピリピ人への手紙

なんか、思いつめている。

「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。」

「キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。」


パウロの熱心さはときどき不思議に思うくらいなのだが、これは彼がいままでおこなってきた迫害についての罪悪感ではないだろうか。

直接手を下しはしないものの、イエスのことを教えるものを捕らえて死に至らしめさえしていた男である。その罪悪感を振り払うために、つまり、罪滅ぼしのために伝道していたのではないか。もう、いつ死んでもいいと、自分の死に場所を探していたのではないか。


2012/11/03

新約聖書を読む (10) エペソ人への手紙

それでは、不品行や貪欲はどうやってそれを抑えるのか。

律法は成就した。われわれは律法の下にはおらず、信仰の下におり、あたらしく生まれ変わった。

それでは、新しく生まれ変わった我々は、肉の欲望に迷うことが一切なくなったであろうか?

そんなことはない。われわれの肉体は以前と全く変わることがない。

それどころか、律法という檻がなくなったことによって、解き放たれた獣のように暴れまわっている・・・・

と、ならないのだろうか?


イエスが十字架についたのを目の当たりにした人々はそれどころではなかったかもしれないが、そんな事は遠くで昔にあったことにすぎないという人々にとっては効力がない。

新約聖書だけを読んでいて不安になるのはそういうところだ。

新約聖書を読む (9) ガラテヤ人への手紙

短いが、これは非常に重要な書である。

私の友人でクリスチャンである男は、「聖書のエッセンスはローマ人への手紙だ」と言った。

しかし、私は新約聖書で最も重要なのはローマ人への手紙ではなく、本書だと思っていた。そのことは彼には言わず、割礼のことをちょっと茶化しぎみに話したことを覚えている。

「ガラテヤ人への手紙」の重要性は、昔読んだ本の中でも指摘されていた。というか、私はその本をきっかけによく読んで、その通りだと思うようになったのである。


この手紙は、想像だが、パウロが伝道する新しい教えが広まり始めた後で、あまりに律法が軽視されていることに不安を感じた人々が、律法の重要性を指摘し始めたことに対するパウロの反対意見であろう。

あれほどそむき続けた律法が、今度は何度言ってもやめられなかった偶像のようなものになったのである。

パウロはパリサイ派だったから、律法のことはいやと言うほど知っていて、それに人々が悩まされ重荷となっており、しかもそれによっては救われないことを痛感していたから、律法ではなく信仰を重んじるイエスの福音を聞いて、信仰の重要性を強調した。

そしてこの手紙は、それに対する反動のように律法へ帰ろうと言い出した人たちに対して書かれたものなのであるが、パウロは「もう律法なんか守らなくていいんだ」とは言わない。イエスが「律法を成就するために来た」と言ったように。


それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。

このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。



新約聖書を読む (8) コリント人への第二の手紙

パウロは肉の軽視を強調する。肉の欲をほぼ全否定する。
食べたり飲んだり結婚したりは、いい事ではないが許されている、という立場である。


さて、聖書にはパンとパン種のたとえがよく出てくる。
福音書に、「5つのパンと2匹の魚を5千人にも分けて、パン屑が12のかごに一杯になった」、「七つのパンと小さな魚を4000人にわけてパン屑が7つのかごに一杯になった」
という話が出てくる。

私はこれは間違いなく何かのたとえであると思うのだが、ずっと何のたとえだかわからなかった。
これは弟子たちがある事実を暗号のようなものとして記していることではない。なぜならその後で、イエスがこのことについて弟子たちに「まだ悟らないのか」と言っているからである。だから上記の出来事は象徴的なできごとではあろうが、実際に起きたことなのである。

まず、どうやっても5つのパンはそのままでは5000人は満腹にならない。私がまず考えたのは、「5つしかないのなら私は食べない」と皆が言ったのでパンが余ったということかと思った。しかし、ちゃんと「食べて満腹した」と書いてあるし、残ったものは「パンくず」であったからそれは違う。

イエスは「天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された」とある。
ここに秘密がある。このことによって、「5つのパンと2匹の魚」が5000人を満腹させた上に、12のカゴにいっぱいになるほどのパン屑があまったのである。

これはイエスのおこなった奇蹟で、パンが本当に、物理的に増えて、ほんとうに屑が12の籠に一杯になった、ということだろうか。

でもそれなら、「5つのパンが1万個に増えて人々は食べきれなかった」と書かれるだろうし、12のカゴに一杯になるほどのパン屑がでるというのはあまりにお行儀が悪すぎないか。それに、「5つ」「2匹」「12のかご」という数字があまりにも意味深である。

この答えのヒントを、イエスが示している。

マタイによる福音書16章
「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒せよ」
・・・・
「まだわからないのか。・・・・五つのパンを五千人に分けたとき、幾かご拾ったか。
・・・・
わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。
・・・・
そのとき彼らは、イエスが警戒せよと言われたのは、パン種のことではなく、パリサイ人とサドカイ人との教えのことであると悟った。

「パン種」は「教え」のことだとするなら、「パン」とは何か。パンは、パン種によって膨らまされるものである。

出エジプト記12章
そしてその夜、その肉を火に焼いて食べ、種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならない。

私はパンを作ったことはないが、パンはイースト菌を入れてしばらく置いて発酵させる。そういう役目をするものが「教え」にたとえられるなら、「パン」は一体何のたとえなのか。

発酵といっても、べつにパンの量は増えない。膨らんで大きくなったように見えるが、粉の量は同じだ。つまり、パン種というのは小さなものを大きいものに見せかけるようなものの事だろうか。

もしくは、逆に、小さなものを膨らませておいしくするという善い意味だろうか?


マタイによる福音書13章
天国は、パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる。

ここでは善い意味でたとえられている。

「種入れぬパンを食べる」というのは、ふくらんでいないパンがいかにおいしくなく、パン種がいかに重要かを思い知らせる意味があったのだろうか。


インターネットで検索すると、これらのたとえがどういう意味なのかを説いている人がたくさん見つかるが、どれも微妙に異なる。

あまり急いで結論は出さないようにしよう。
パンが膨らむのには時間がかかることだし。


新約聖書を読む (7) コリント人への第一の手紙

結婚について言及されている。独身を奨励しているが結婚を否定もしていない。

復活、死について言及されている。
イエスの存在を否定する人は少なくても、その復活を信じない人は多いのではないだろうか。好意的に受け取る人でも何かの象徴のようにしか捉えない。

私も復活というのは何かのたとえ、方便なのではないかと思えてならない。

ただ、七面倒くさい屁理屈をこね回すくらいなら、復活を信じる。


そもそも、イエスという人を今我々が知るのはすべて伝聞による。それも、最もその人の人となりを知るのに有用とされているのが4つの短い福音書しかないのである。

人が誰かを賞賛あるいは批判するときに、第三者の書いたその人のほとんど噂のような話、その中で彼が言ったとされる言葉を対象にするだろうか?

そんなことはただのあら捜し、言いがかりではないだろうか?

とにかく、われわれはイエスに関してはあまりに情報が少なく、彼自身についての判断のしようがないのである。

ただし、彼に出会った人、彼の事を信じる人、その人を信じる人達が伝えること、成した事、死に様、それらを見たときに、架空や想像の産物が引き起こしたとはどうしても思えないのである。

新約聖書を読む (6) ローマ人への手紙

私は大きな勘違いをしていた。

それは、パウロはユダヤ人ではないと思っていたことである。異邦人のなかから、異邦人に伝道するために選ばれたのだと思っていた。ところが彼はユダヤ人であるどころか、パリサイ派である。モーセの律法を熟知していた人だったのである。

だからイエスを迫害していたのである。それが突然改心する。これは改宗と言ってもいいくらいの大きな転換である。

ローマ人への手紙を読んでいると、戦争が終わって瓦礫の山と化した町に暖かい日差しがさして草木が生えてくるようなさっぱりした平和な気持ちになる。パウロの手紙は皆そんな感じだ。「ところどころ思い切って書いた」と言っているが、もう人間には守るものは何もなくてすき放題やっていいんだと思いそうにさえなる。

この手紙は冒頭に「パウロから」とあるのでパウロが書いたということで間違いないと思うのだが、最後の方に「(この手紙を筆記したわたしテルテオも、主にあってあなたがたにあいさつの言葉をおくる。)」とあるので、口述筆記のようなものだったのだろうか。

新約聖書を読む (5) 使徒行伝

これは、「パウロ記」である。

イエスに批判されたパリサイ人であったパウロ(サウロ)が改心して、猛烈な勢いで伝道をして、ついにローマで裁判を受けるまでになる。

使徒行伝を読んでいると、「イエスがキリストである」ということが争点であってそのためにパウロは殉教するのであり、「キリスト教」という別の宗教になった理由もそこにある。

キリストが十字架についてしまったことは、やはりユダヤ人の過ちであり、その過ちを教えることも伝道の重要な目的であり、迫害された理由でもあったのだろう。

新約聖書を読む (4) ヨハネによる福音書

感動的な福音書である。一気に読まされた。

しかし、そのことが私にとって、この福音書を他の3つよりも胡散臭いものとさせている。
なんかできすぎているというか。

でも、特にイエスの存在や他の福音書を否定するようなものではない。

新約聖書を読む (3) ルカによる福音書

「あなたの罪は許されたと言うのと、起きて歩けと言うのと、どちらがたやすいか。」

私はこれの答えがわからない。こういう言い方はわれわれもよく使うが、それは何かを教えるときに、答えを教えてしまうのは簡単だがそれでは学んだことにならない、自分で答えを出すように導く、というような使い方である。しかし、イエスのこの質問は、それと同じように考えてもわからない。

病人に対し、最初は「あなたの罪はゆるされた」という。しかし、パリサイ人の論議を聞き(見抜いて)「どちらがたやすいか」と聞いた後に、「起きて歩け」と言った。

結局、どちらがたやすいのか。最初に言ったのが「罪は許された」であるから、おそらく「起きて歩け」という方がたやすいのであろう。でも、それではいけなかったのだ。

どうしていけなかったのか?「罪はゆるされた」と言われたら起きて歩かねばならないのか。

つまり、罪が許されるというのは、イエスの一言でなされるのではなく、「許された」という言葉を聞いた者がそれを信じて行動することが必要だ、というような意味なのだろうか?

しかし、そうだとしたら、「起きて歩け」とは言ってはならなかったのではないだろうか?


それからもう一つ、イスカリオテのユダの「裏切り」について。
イエスは自分が捕らえられて十字架につく事を知っていた。知っていたというか、そのために来たということを言っている。そうであるなら、ユダのしたことは「み旨」に、神の意志にかなうことではないのか?実際に、イエスが十字架につくことは予定ではなかった、という考えの人たちがいるのを私は知っている。

しかし、少なくとも福音書は、イエスは十字架につくために生存したということを伝えている。もし、そうでないなら、それは作者の無知ということになる。私は聖書を読むときには、とりあえずは作者の意図を読む。そもそも、何かを読む、人の話を聞くということはそれでしかない。最初から否定する目的で、批判する目的で、揚げ足取りをするつもりでは、何も受け取れないのだ。私が聖書について提示する疑問は、あくまでもその理解を深めるための疑問である。



私は神を、聖書で主と書かれている神が存在することを信じている。また、イエスが実在し、十字架についたことは事実であると信じている。しかし、その「信じている」というのは、客観的科学的に情報や資料を吟味してたどりついたものではない。聖書を信じないのは自由だが、では聖書ではない書物はどうして信じられるのか。聖書を信じようとフラウィウス・ヨセフスを信じようと、それはその人の意思や信念に過ぎないのは同じことではないか。

だから、私はひとつ間違えば、ふとした時には「イエスなど存在しなかった」あるいは「単なるカルト宗教をおこした狂人」であって、ユダヤ教みたいなメンドクサイものを廃止したほうが楽しく生きられるという誰かの創作物なのだと考えることもある。

そんなときには、中途半端に科学的客観的な判断で「イエスという人は実在し、彼の言動には一目置くが私はクリスチャンにはならない」というような穏健な態度をとる人を私は軽蔑する。イエスというのは、信じるか否定するかのどちらかだ。ひとりの天才宗教家とか、思想家のようにみなすことは私がもっとも嫌うことである。

2012/11/02

新約聖書を読む (2) マルコによる福音書

マルコって誰?
弟子の中には名前がない。
ではマタイによる福音書のマタイは弟子の、取税人マタイ?

二つの福音書は内容がほぼ同じだがなぜ二つ、さらにルカとヨハネの福音書まであるのか?

複数の人によるひとつの出来事の叙述を示すことによって真実であることを証明する目的だろうか?

wikipediaによると、マルコはペテロの通訳であり弟子であった人だそうだ。
パウロはインテリでギリシア語が堪能だったようだが、ペテロはそうではなかった。

新約聖書が書かれた時期は不明だが、50年から70年頃とされているようだ。

「新約聖書はギリシャ語で書かれている」と言われていて私もそれを当然のことと思っていたが、なぜギリシャ語なのだろう?

弟子が書いたとしたら、彼らはギリシャ語を書けたのだろうか?

ローマの支配下にあったユダヤにおいて、ギリシャ語とはどういうものだったのだろうか?
今の日本でいう英語のようなものだろうか?


さて、新約聖書になって登場した新しい言葉をあげておく。


  • バプテスマ
  • 聖霊
  • 神の国(天国)

バプテスマは洗礼と同じ意味のようだが、そんなものは旧約聖書では一切登場しなかった。いつ頃、どういう目的や意義があって始まったのだろうか。
初めて「バプテスマ」という言葉を知ったとき、なんの説明もなく誰もが知っていることのように書かれていたのでユダヤ教の恒例行事みたいなものだと思っていたが、そうではなかった。

聖霊も、よくわからない。

そして、天国。旧約聖書を読んでいたときにふと気づいたのだが、旧約の世界では「来世」という概念はない。死ぬことを天にのぼるなどという事はあっても、「死後天国へ行けるように神の戒めを守る」というような考えは一切ない。求めるものそして主の与えるものは土地であり食物であり家畜や奴隷を多くもつことが「祝福」であった。要は「現世利益」である。

「天国」はイエスが導入した概念だったのか?「天国は近づいた」と言うと、待ってました、みたいで、皆が待ち望んでいたかのようであるが・・・と考えたところで、待てよ、と気づいた。

イエスは「天国」のことを、「人がよいおこないをしたら死後に入れる所」という風に語ったことがあっただろうか?確かに「選ばれた人だけが入れる」所ではあるが、それが死んだ後に行くところだと言っているところがあったっけ?


新約聖書を読む (1) マタイによる福音書

「バビロン捕囚」は世界史の年表にものっていて、紀元前586年のことである。
紀元前538年にキュロス2世によりユダヤ人が解放された。

イエスが誕生した時のユダヤの王はヘロデであるが、この王はまるでエジプトのパロのようで、旧約聖書に書かれていた歴代のユダの王のようではない。

聖書に登場するユダの王はヨシヤのあたりまでで、ヨシヤの在位は紀元前609年までである。
エルサレムへの帰還が紀元前538年。
神殿の再建が紀元前458年。エズラ記はこのときの記録のようだ。
旧約聖書から新約聖書の間には400年程の空白がある。
その間になにが起きていたか。
アケメネス朝ペルシアが紀元前330年にアレクサンドロスに滅ぼされる。
紀元前305年にプトレマイオス朝エジプトがおこる。
紀元前312年にセレウコス朝シリアがおこる。

紀元前167年にマカバイ戦争が起こる。
このことを記録しているのが「マカバイ記」で、カトリックでは正典とされているそうだが、
私は持っていない。
この戦争により、紀元前142年にはユダヤは実質上独立し、ハスモン朝が始まる。

紀元前63年にセレウコス朝シリアはローマのポンペイウスに滅ぼされ、
ユダヤはローマのシリア属州の一部となる。
紀元前37年にハスモン朝が滅亡し、ヘロデ朝が始まる。
実質的にはローマの属国だったが、いちおう独立国だったのか?
新約聖書に登場するヘロデは大王と呼ばれた王の子の、ヘロデ・アンティパスである。


さて、マタイの福音書であるが、これはもう、なんというか、引用され曲解され、都合のいいように利用され、深読みされ、手垢がついたどころか、原型が見えないほどボロボロにされている観がある。

今回改めて読んで気になったことはまず、「預言の成就」ということが何箇所かにあることである。イザヤが多く、エレミヤ、ヨナもある。ヨナが3日魚の腹の中にいて吐き出されることが、まさか救世主の復活のことだったとは。

それから、「エリヤ」が非常に重要な人物として扱われている。イエスがモーセとエリヤと会談する場面がある。モーセはいいとして、なぜエリヤなのか。アブラハムとか、ヤコブ(イスラエル)とか、ダビデとかではなく。

イエスについて、彼の発言について、福音書に書かれている出来事について語ったら一冊本が書けるどころか一生のテーマになるどころか、2000年たってもいまだに解釈がわかれているのだから、とりあえずそういう話なのか、と受け取っておく。

いろいろ言いたいことがあったがまとまらない。
ひとつおもしろいたとえを思いついた。

旧約聖書と新約聖書では共通点もあるが別の宗教であるかのような違いもある。それは、トランプでババ抜きをしていた所に、7並べという新しい遊びをもたらしたようだ。同じトランプを使っているのだが、ゲームは全く違うもの。

私はずっと旧約聖書を読んだ後に久しぶりにマタイによる福音書を通読して、トランプがシャッフルされるような混乱を感じ、そんなことを思った。

旧約聖書を読む (39) マラキ書

旧約聖書最後の書。

14章
見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。


救世主の前に、エリヤが来ることになっている。

マタイによる福音書11章の「そして、もしあなたがたが受け入れることを望めば、この人こそは、きたるべきエリヤなのである。」
というのはこのことだろう。


さて、ついに読み終わった。予定通り1週間だった。
ちなみに私は今わけあって一日中時間があった。
食事と寝る時間以外をほぼ全部つぎ込んだ。

読んだ時間は35時間だった。意外に短い。
途中で系図を書いたり調べものをしたところもあるし、急いで読んだところもある。
1日1時間ちょっとずつ読んでも1ヶ月で読めるということだ。

ここまで来たら、当然新約聖書を読まないと。
新約聖書は全部読んだつもりだが使徒行伝なんかは全然覚えてないので、
最初から最後まで全部読む。

旧約聖書を読む (38) ゼカリヤ書

短い預言書が続いたが、これは少し長くて黙示録風である。
よくわからない。

サタンが出てくる。
私の記憶違いと読み落としがなければ、聖書でサタンが出てくるのは、ヨブ記と、ここと、イエスの荒野での試みの三箇所である。

旧約聖書を読む (37) ハガイ書

短いが歴史書。
「主の家」を建てる。

旧約聖書を読む (36) ゼパニヤ書

ゼパニヤはヒゼキヤの子孫である。


旧約聖書を読む (35) ハバクク書

「主よ、わたしが呼んでいるのに、
いつまであなたは聞き入れて下さらないのか」

ちょっと毛色の違う預言書。
最後は祈り。

旧約聖書を読む (34) ナホム書

ニネベについての託宣。

1章
主はねたみ、かつあだを報いる神、

旧約聖書を読む (33) ミカ書

5章
しかしベツレヘム・エフラタよ、
あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、
イスラエルを治める者があなたのうちから
わたしのために出る。
6章
主は数千の雄羊、
万流の油をよろこばれるだろうか。
(略)
主のあなたに求められることは、
ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、
へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。

旧約聖書を読む (32) ヨナ書

これは、短い物語。

「大いなる魚」の腹にのまれて3日過ごすと言えば、ピノッキオだ。

夏の日差しが強くて暑さに参ると、ヨナ書を思い出す。


旧約聖書を読む (31) オバデヤ書

2ページしかない。

エドムについて。エサウの名前が出てくる。

旧約聖書を読む (30) アモス書

歌のような預言書。

旧約聖書を読む (29) ヨエル書

「老人たち」に言われている。

「主の日」が来ることを言っている。


「あなたがたは衣服ではなく、心を裂け。」

何かあると「衣を裂く」シーンは、ヨブとか、サウルにあった。
ダビデもあったかな?

このように、次第に形式から内面へ、という変化がみられる。

旧約聖書を読む (28) ホセア書

非常に短い、預言の書。

淫行と姦淫を怒っている。
特に、エフライムについて言われている。

旧約聖書を読む (27) ダニエル書

「それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。」(9章)

ついにはっきりと救世主について言及される。ちなみにこれを言っているのはガブリエルである。
ガブリエルは天使である。が、聖書にはその説明はない。


ダニエル書は預言書あるいは黙示文学とされているようだが形式としては歴史書である。
ただし、炉に投げ込んでも死なないとかライオンのいる穴に投げ込んで一晩たっても死なないとか信じがたいことが多く、預言は具体的かつ細かすぎてこれまた信じがたい。


ちなみに上記の引用について詳しく解説している人をインターネットで見つけた。ピタリと的中しているというのだが、その説明はこじつけとしか思えずそのこじつけでも説明できていないように思えた。

11章では戦争が起きて南の王と北の王がどうのこうのという預言があるのだが、これも非常に具体的すぎる。

マタイによる福音書で、イエスがダニエルの預言について言及している。
24章
「預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべきものが、聖なる場所に立つのをみたならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。」


ダニエル書の以下の箇所のことであろう。
 
9章27
「彼は一週の間多くのものと、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物を廃するでしょう。また荒らす者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。」

12章11
「常供の燔祭が取り除かれ、荒らす憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日が定められている。」


ちなみにイエスが言ったのは世の終わりのときのことで、そのときに彼が「再び来る」という話の上でである。

2012/11/01

旧約聖書を読む (26) エゼキエル書

これは他の書とガラっと雰囲気が変わる。イザヤ・エレミヤも少し違うのだが、エゼキエル書は前衛的というのか、異様な雰囲気さえ漂う。

のっけからバケモノかUFOとしか思えないものが登場し、エゼキエルの預言はたとえだらけでまた絶望的な預言が続く。その対象はエジプトにまで及ぶ。

そして、偶像を禁じ怒るのはいつものことだが、14章「人の子よ、これらの人々は、その偶像を心の中に持ち」と、石や木の像でもない偶像にまで言及される。偶像とは無形の神をカタチにするという
だけの意味ではなかったのだ。

また、「姦淫」についても今まで以上に厳しく叱り、「淫乱」という言葉まで出てくる。わたしはこの姦淫はあくまでも崇拝などの意味のたとえとしての言葉だと思っていたのだが、ここまでしつこく繰り返され、さらに人々がやめないところを見ると、本当に文字通りの「姦淫」なのではないかと思えてきた。

ただしところどころにチラっと光るような希望的な預言が出てくる。
11章「彼らのうちに新しい霊を授け、彼らの肉から石の心を取り去って、肉の心を与える」
34章「わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとはこれを監督する」
「わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。彼は彼らを養う。」

捕囚後の預言だからもちろんこのダビデはあのダビデではない。この辺が「救世主思想」だろうか。

このように「新しい信仰」のようなものが続くと思ったら、最後の方で牛や羊のささげものについての、モーセの律法のような記述が続き、そして最後は「幻のうちに」宮があらわされ、その詳細な大きさなどが示される。

というわけで、この書は預言書と黙示録と律法書があわさったような、壮絶な書である。

(追記)
38章に、「最終戦争」のような預言がある。
「メセクとトバルの大君であるマゴグの地のゴグ」に対する預言である。

旧約聖書を読む (25) 哀歌

エレミヤの歌った歌。

ここがどん底か。希望や救いはまったく見られない。

旧約聖書を読む (24) エレミヤ書

エレミヤ書は歴史の記述も多い。

エレミヤとイザヤは、イスラエルに対する警告の役目でやってきたと思っていたが、そうではなくて、もうどうしようもなくなった彼らに、希望を持たせるという役目の方が重要だったのではないか。

エレミヤ書では、31章

「見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。」
「わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。」
「人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。」
「わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない。」

など。そしてこれは「新約」の概念である。

そして、50章に
「わたしの民は迷える羊の群れである」
というフレーズが出てくる。
この、今日ではキリスト教徒言えば「迷える子羊」というくらい誰もが知っているたとえが登場したのはここが初めてではないだろうか?

終盤では、イスラエルとユダを捕囚したバビロンの崩壊が「予言」されている。

旧約聖書を読む (23) イザヤ書

イザヤ書も有名でよく引用される。特に、救世主の出現を預言しているということが言われる。

イザヤ書は2回くらい読んで、いまひとつよくわからず、列王記、歴代志を読み終えた今回なら、と思ったが、やはりピンとこない。

そもそも、この書はどうやって書かれたのだろうか?イザヤは預言をどうやって人々に伝えたのか?道端で演説したのか?イザヤ書はそれを誰かが書きとめたのか?または自分で書いて、「こんなことを主は言われる」と言って祭司などに渡したのか?

私の知っている人に、「私はイザヤが好きです」と言っていた人がいるのだが、その人の気が知れない。私は聖書の登場人物で好きな人などいない。ダビデが好きだとかモーセだとか、勇ましいヨシュアだとか、ヨセフとかは人気がありそうだが、私には皆宇宙人のようにしか見えない。

旧約聖書を読む (22) 雅歌

これもソロモンの書いたものだ。

短い書であるが、正直に言ってなんのことだかさっぱりわからない。

これは何かを象徴したものなのか?それともただの純粋なラブ・ソングなのか?

女性の美しさをいろいろなものにたとえているのだが、そのたとえているものが何なのかよくわからない。

あなたの首は象牙のやぐらのごとく、
あなたの目は、バテラビムの門のほとりにあるヘシボンの池のごとく、
あなたの鼻は、ダマスコを見おろす
レバノンのやぐらのようだ

とか言われても・・・・

旧約聖書を読む (21) 伝道の書


Why was I born today
Life is useless like Ecclesiastes say 
Pete Townshend "Empty Glass"

この書は私が旧約聖書の中で初めて読んだものである。

父の書斎にあった「世界の名著」というシリーズに「聖書」もあった。すべての書はおさめられていなかったが、「伝道の書」はあって、ぱらぱらと見て短いし、「空の空」とか書いてあるので興味を持った。

聖書にもこんな虚無的なことが書いてあるのかと驚くと同時に、いっそう聖書に興味を持った。

否定する説もあるようだが、ソロモンの書とされている。

栄耀栄華を極めたソロモンなら、この世のあらゆる快楽を味わって虚無的な人生観を持ったというのもうなずける。

だが、今読んだらあんまりおもしろくなかった。

旧約聖書を読む (20) 箴言

ソロモンが言った(書いた)と言われる箴言で、一部彼のものでないものもある。
ときどきはっとさせられるような言葉があるが、全般的に退屈である。
耳が痛い言葉は多い。

読みながら、「ソロモンは一体どんな生活を送っていたのだろう」と考えた。
なんせ、妻とそばめをあわせて1000人だった男だ。
おそらく「労働」というものは全くしなかっただろう。