2012/12/26

イマヌエル・スエデンボルグ 「結婚愛」

やっと読み終わった。なかなかの難物だった。もちろん結婚について書かれているのであるが、それがあまりにキリスト教にとって重要なものであるため、単に結婚とはこういうものだ、こうあるべきだ、という話にはとどまらない。「真の結婚愛とは何か」ということなら、多くの人がだいたい理想は描けるのではないだろうか。一人の相手を一生愛しぬき浮気をしない。スエデンボルグの言っていることも、それと大差はない。彼は特にひどく厳しいことを言っているわけではない。ただし、男と女の本性のような話については、もしそれを現在の日本で出版あるいは放送したらクレームが殺到するだろう。

この書は、哲学書ではない。物語でもない。なんというジャンルなのか、選別に困るが、報告書のようなものだ。彼は生きながらにして霊界に行った男である。それも、行ったことがある、などというものではなく、確か何十年間もの間、霊界とこの世を行ったり来たりして、霊界で見聞きしたことを書物に記録したのである。

そんな話は彼以外に聞いたことがない。丹波哲郎くらいか。でも丹波氏の言っていることはスウェーデンボルグとそっくりだし、名前も引用しているのでおそらく彼の影響を受けているのだろう。


イマヌエル・カントは、スウェーデンボルグの「霊界日記」を読んで、「こんなのデタラメだ。でもいちおうスジは通ってるね」という旨のことを述べたらしい。

私も同様である。彼のいう霊界のありよう、そこにあらわれる様々な人々、天使、信じられないほど美しいという男女など、そして彼がスパスパと結婚の状態や妾のこと愛人のこと娼婦のことなどを「こうだ!」と断定していくところにも、同意しかねるところがたくさんある。だが、おおむね言っていることにはスジが通っている。なんとなく、自分でも抱いている『人はこうあるべきだ』というもの、「常識」とかいうものに極めて近い。ただ、非常に倫理的に厳格であって、ここに書かれていることを読んで、「私の生き方、結婚のあり方は正しい」と喜べる人がどれ程いるだろうか?ほとんどの人が途中で怒り出すか、恥ずかしくなって読むに耐えないのではないだろうか?


私が本書を読むのに3週間もかかってしまったのも、そのように読むに耐えなくなってしまったからである。少しずつ、読んでいった。


先日読んだ「不安の概念」で期待したのはいわゆる「失楽園」というのがどういうことなのかということだったのだが、それに触れられてはいたが、結局聖書に書かれていること以上のことは何も言われていなかったが、スウェーデンボルグは「真相」を書いている。

引用しよう。

「楽園は、霊的には、理知であり、生命の木の実を食うことは、霊的には、主から理解し、知恵を得ることであり、善悪を知る知識の木の実を食うことは自己から理解し、賢明になることである。(353)」

ただ、私はこの説にも満足はしていない。もっともらしいが、本当にそれだけだろうか?と思う。



私がこの本を買った時は確か20代だった。買った当時はパラパラと読んだだけではあったが、なんとなく脅威というか敬意のようなものを抱いていた。

その後、私はあまり人には自慢できないような生活を送ってきた。くわしくは書けないが「私は天国へ行ける!」と胸を張って言えるような生活ではなかった。


若い頃は、私は世の中を憎んでいた。自然を美しいと思わなかった。食事も空腹だから食べるだけで、微妙な味わいなどを気にしなかった。

歳をとるにつれて、花がきれいだなとか、夕焼けがきれいだなとか思うようになった。食べ物も、食べることそのものが楽しいというか、おいしいものを食べることが快感であると感じるようになった。それは別に悪いことではないが、私は「堕落」のように思えてならない。

先日聖書を通読したときも、「黙示録」を読んでも何も感じなかった。腹立たしささえ感じるほどであった。初めて読んだころは、よくわからないなりに何かを感じていた。それが、今ではまったく反応しない。平たく言えば、「霊的な感覚がわからなくなった」という感じだ。本書にも、古代の人々は表象を何かの表象として理解していたがその能力が失われて表象そのものを崇拝するようになり偶像崇拝が生まれたということが書かれている。


でも、そんなのは私だけではないだろう。今まで生きてきて、「霊界」などというものを信じている人なんかほとんどいなかった。そんなことは話題にすらならない。「神」も同様で、否定する人はたくさんいたが、「俺は神を信じている」と言った人は一人か二人くらいしかいない。

2012/12/19

森鴎外 「阿部一族」

「結婚愛」が難航している。

合間に読んだ。

これも殉死の話である。ある大名が死に、その家臣たちが殉死する。鷹まで井戸に飛び込む。「阿部」というのは、殉死を許されなかった男であるが、許されていないにもかかわらず殉死する。

言うまでもないことかもしれないが、殉死とは切腹である。これまた言うまでもないことかもしれないが、切腹とは腹を切り、その後介錯人によって刀で首を落とすことを言う。

ある人によると、江戸時代の切腹はほとんど形骸化していて、腹を切るのはほんのちょっと或いはあてるフリをするのみで事実上刀で首をはねることになっていたらしい。

想像するだけで身震いするようなことであるが、本作品ではどうしても殉死したい人たちが登場する。『死ぬのは嫌だがそういう風習があるから仕方なく死ぬ』というものではない。皆、『お願いですから死なせてください』と、生前に殿様にお願いする程である。

許可されなかったのに、いわば勝手に殉死した阿部については、やはり正当な殉死とみなされず、家督相続で差別的な待遇をうける。そして殿様の一周忌で阿部の息子が抗議と受け取れる「髻を切って供える」という事をし、後日縛り首にされる。残った阿部一族は篭城するが、討手が来て滅ぼされる。

この作品には、死ぬことの葛藤がほとんど見られない。みな、死を恐れないことを競い合うようにしている。殉死の場面もあっさりと描かれている。

現代の我々には、まったく理解できない世界である。わたしは時代劇とか時代小説というものをほとんど見たり読んだりしない。「殉死」など正気の沙汰ではないと思う。だが、現代でも日本では1年に3万人もの自殺者がいるという。走っている電車に飛び込んで死ぬ者さえいる。その死は「殉死」ではなく、自分で勝手に死んだ、いわゆる「犬死」がほとんどであろう。そもそも現代で「殉死」が讃えられることがない。

しかし、命こそ捨てないまでも、人生を会社にささげているような人はいる。身も心もぼろぼろにして会社に忠誠を誓っている人たちを、私はたくさん見てきた。そんなことは馬鹿げている、ただの金儲けじゃないか、と思っていた。その考えは今でも同じだ。

でも、人は自分自身が幸福であれば、衣食住が満たされていれば幸福なのか、と言われるとそうではないだろう。人間には「意地」というものがある。最近すっかりきかなくなった言葉であるが。「意地」のためには寝食も忘れるどころか、その欲望が消え去る。食べなくてもいいのではなく、食べたくなくなる。「意地でも食べない」と思う。そういう経験なら現代の我々にもあるだろう。

私は自殺者に対して、安易に弱虫だとか卑怯だとか、迷惑をかけるなどということはできない。彼らも恐怖や自分の幸福を捨てて、意地を貫いたのかもしれないからだ。

2012/12/17

Deep Purple "Perfect Strangers"

このアルバムは私が高校生の頃再結成したDeep Purpleのアルバムで、周囲の友人達が騒いでいたような記憶があるが、私はこのアルバムの記憶がほとんどない。

Deep Purple自体は、その頃友人達が絶賛していたので Machine Headは聴いていたが、フーンという程度であまり良さはわからなかった。

ただ、同じく絶賛されていた Led Zeppelinよりは親しみやすかった。

その後 Deep PurpleもLed Zeppelinもめぼしいアルバムはほとんど聴いた。

Deep PurpleはⅠ期が好きだ。特に無題の3rdアルバムが。


iPodでシャッフルにしていて、たまにDeep Purpleがかかって、お、いいな、と思うことはあるが、そんなに聴きこむようなことはなかった。



ところが最近、やはりiPodのシャッフル演奏で聴いた「Knocking at your back door」がすごくいいなと思えて何度か聴いているうちに、この曲が入っている「Perfect Strangers」を聴いてみたくなった。

そして何度か聴くうちに、「これは傑作じゃないか?」と思い始めた。

amazonのレビューなどを見るとやはり傑作とされているようだ。

やっぱり、Ⅱ期のメンバー、リッチー、イアン・ギラン、イアン・ペイス、ジョン・ロード、ロジャー・グローバーが一番いいのかな。


2012/12/05

イマヌエル・スエデンボルグ 「結婚愛」を読む

The Delights of Wisdom pertaining to Conjugial Love の翻訳
静思社  昭和41年初版、昭和56年四版 柳瀬芳意 訳
原文はラテン語 Delicioe Sapientioe de Amore Conjugiali 1768年にアムステルダムで出版

638ページ、1行48文字、1頁19行、58万1856字、原稿用紙にして1455枚

「戦争と平和」の1/3くらいである。かなり昔に買ったものである。10年以上前であるのは間違いない。「天界と地獄」も買ってあるが、両方、ほとんど読んでいない。「結婚愛」は、「天界と地獄」よりも厚い。知名度は低い。というか、この本について言及されているのを、読んだことも聞いたことも一度たりともない。

次に読むもの

「戦争と平和」は、読んでおきたいとは思ったが多分読めないだろうと思っていた本だった。よくおぼえているのは、浪人して予備校に通っていたとき、世界史の講師が「『戦争と平和』は読んでない、だって西村京太郎の方がおもしろいんだもん」と言っていたことだ。世界史を教える人ですら読んでいないものだから、読めなくても仕方がないか、と思っていた。


「魔の山」を読み、聖書を読んだ勢いで、もう読めないものなどない、と思って「戦争と平和」を読んだ。

長編とか、膨大な量のものを読むコツは、細部にこだわらないことだ。一行や二行、意味のわからない箇所があってもとまらずに読み進む。

さて、次は何を読もうか。

ずっと翻訳ものばかり読んできたので、純粋な日本語が読みたくなっている。「細雪」「暗夜行路」も、いつかは読まねばなるまいと思っている。

その前に、「阿部一族」を読んでおこうかと思っている。

でも、「戦争と平和」を読んでしまうと、「アンナ・カレーニナ」をどうしても読みたくなる。

想像だが、「アンナ・カレーニナ」は、おそらく公爵令嬢マリヤのような女性を主人公とした悲劇ではないだろうか。

ただトルストイの長編を続けるのはアレなので、やっぱり日本語の長編を読みたい。


2012/12/04

「戦争と平和」 (17) エピローグ 第二編

エピローグの第二編はすべて、トルストイの演説というか論説というか、歴史についてのムズカシイ話である。エピローグ第一編で「物語」は終わっていた。

このようなトルストイの論説文のようなものは、第三巻あたりからちょくちょくはさまれ、四巻ではだいぶ量が増えていたのだがいい足りなかったらしく、エピローグの一編を使って語られている。

彼は歴史の描き方に疑問を呈する。ほとんど、今まで書かれた歴史というものを全否定するかのような言い分である。特に、「偉人」とか「英雄」と呼ばれる人が歴史を先導して人々を動かしていったかのような歴史の叙述法を否定している。

それが、ナポレオンの描き方に現れている。ただ、彼はロシア人であるからロシア側からの視点で描かれているし、特に後半ではナポレオンに対する個人的な嫌悪感のようなものも混ざっているように感じた。

私は学校の授業で習うような歴史も、NHKの大河ドラマのようなものも、司馬遼太郎の小説などの「歴史もの」も、興味がなく、反感すら覚える。それはトルストイが言うような「いわゆる偉人に大きな意義を認めない」という立場に似ている。明治維新でも、秀吉の天下統一でも、第二次大戦でもなんでも、坂本竜馬だとか、ヒトラーだとか、スターリンだとか、チャーチル、ルーズベルトなどの一部の人間が将棋でもさす様に人々を動かし、大衆は何も知らずそれらのリーダーに導かれるままに生きていた、というような歴史の描写には疑問を抱く。


アンドレイ公爵とかニコライ・ロストフなどは架空の人物であるが、実際にそのような人々は存在しただろう。彼らは貴族で、裕福で教育もあって、優秀な人物も、ナポレオンなどよりよっぽど頭脳明晰で人格者な人間もいたであろう。それはあのときのロシアに限らず、日本だって、北朝鮮だってそうだろう。そういう人々ですら、歴史の記録には名前さえ出てこない。

「戦争と平和」では、一般的な歴史の叙述法をひっくり返したような描き方がされる。つまり、名も無き一兵士、一人の女、少年、などを中心に描かれ、ナポレオンはなんら特別の人間でもなく、噂ばかりが先行しているただの平凡な男にすぎない。

ただ、忘れそうになるがピエールは伯爵、アンドレイは公爵、ニコライ・ロストフも伯爵、現在の日本で4300万円相当の借金を親に肩代わりさせるような生活を送っている人々のことである。当時のロシアの公爵というものがどれほどのものなのかわからないが、「ごく平凡な一人の男」ではないだろう。


ところで、この作品は私が今まで読んだことのない「調和」、「平穏さ」を感じたのだが、それを実現させているのは「数学的」なものではないかと思った。それを思ったのは、「付録」のなかにある「はらの中で、アメリカへ行ったりすきな数学上の問題に移ったりできる」と書いているのを読んだときだ。作中にも、「歴史を微分する」というようなことがしばしば言われたり、父が娘のマリヤに数学の問題を解かせる、などというところもある。トルストイ自身がそういうことをしていたのではないだろうか?彼は数学が好きで得意だったのではないだろうか?それが彼の文体に調和を生み、明晰な印象を与えるのではないだろうか?


大作であったが、意外に読みやすかった。時間を測りながら読んでいたのだが約47.6時間かかった。

この作品中、もっとも魅力のある2人の人物、ニコライ・ロストフとマリヤは、トルストイの両親がモデルだというのを解説で知って、納得した。






「戦争と平和」 (16) エピローグ 第一編

ニコライとマリヤが無事結婚する。泣いてしまった。そしてピエールとナターシャも、幸せな家庭を築く。

さあ、最後、エピローグの第二編。

「戦争と平和」 (15) 第四巻 第四編

クトゥーゾフという、あまり評価されていない軍人をトルストイは誉める。ピエールがナターシャと再会する。ナターシャだとわからないくらいやせてしまっていたが、ピエールはナターシャに結婚を申し込む。しかしそれは直接ではなく、マリヤを介して伝えられる。そこで第四巻が終わり。

今度こそ平和が戻ってきて、ピエールのこころにも平穏が戻ってくる。

私は文学というのは人生、社会について懐疑や疑問を呈するものだと思っていた。そしてそういうものばかり読んできた。しかし戦争と平和は静かな調和した世界を提示している。

あとはエピローグを残すのみだ。ニコライはどうしたのか?マリヤと結婚するのか?

エピローグのある小説を読んで覚えているのは、「日本沈没」くらいだ。しかし、エピローグといっても二編あってけっこう長い。

「戦争と平和」 (14) 第四巻 第三編

フランス軍は退却しながら自滅していく。大きな戦闘はない。ピエールは捕虜として連れられていたがロシアのコザック軍に助けられる。プラトン・カタラーエフという善人の象徴のような男とであうが病気になって銃殺される。ニコライ・ロストフの弟にあたる、まだ少年といってもいいペーチャが、命令に背いて勝手に戦地に飛び出して頭に銃弾を受けて死んでしまう。

2012/12/03

「戦争と平和」 (13) 第四巻 第二編

フランス軍がモスクワから退却を始める。ロシア軍が反撃を開始したためである。なぜナポレオンの進撃がモスクワで停まったかについては、トルストイは明確な理由はないとしている。ナポレオンの判断のミスでもなく、彼が体調を崩したからでもなく、もっと大きな逆らうことのできない、運命とか、摂理とか、そういったものによるとしている。

今日の夕刊に、ナポレオンがモスクワを去るときに出したというクレムリンの爆破命令文が高額で落札されたという記事が載っていた。まさに、そのころのことである。

「戦争と平和」 (12) 第四巻 第一編

ピエールの妻エレンが急死する。エレンはただ美人だというだけでほとんど中身のない登場人物で、あっさり死んでしまった。そして、アンドレイ公爵も死ぬ。主人公はピエールであるというのが通説のようだが、私の感覚ではピエール、ニコライ、アンドレイの三人、あるいはマリヤを入れて四人が主人公だ。そしてこの中ではピエールはあまり人間的に魅力のない男である。私が気に入ったのは多血性のニコライ・ロストフである。アンドレイ公爵はボロジノ役の前に自分が死ぬのではないかという予感を抱き、その戦いで重傷を負う。婚約するも破棄されたナターシャに看病され、死の直前にはかけつけた妹のマリヤと子のニコールシカに会うことができたが、その時には彼の精神はすでに死人のようであった。

2012/12/02

「戦争と平和」 (11) 第三巻 第三編

モスクワがナポレオンの手中に落ちて、略奪や火災が起こり、人々が逃げ出す。ロストフ家も避難を始め、その途上で負傷したアンドレイ公爵と偶然出会う。ピエールはナポレオンを暗殺しようという考えを抱き始めるが、火災の中で子供を助けた後、放火犯の疑いでフランス軍に捕らえられる。

この作品は各編の最後に盛り上がるシーンがあって、退屈させない。計算ずくなのだろうか?

2012/11/30

森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」

この作品は乃木大将の自決直後に、それをテーマにして書かれたものだときいて読んでみた。非常に短くて、買った帰りの電車の中で読んでしまったが、チンプンカンプンであった。家に帰って巻末の斎藤茂吉の解説も頼りにしてもう一度読んでみてようやくどんなことが書いてあるかがわかってきた。

乃木大将と弥五右衛門に共通しているのは、過去の自分の過ちを理由に殉死しているという事である。乃木氏の場合は西南戦争の時のことであるから30年以上も経過していることになる。乃木大将の殉死は世間を驚かし、その行為を批判したり正気の沙汰ではないという意見も多かったようである。鴎外はそれに対し、武士というのは、殉死というものはほとんど狂気のようであるが、けっしてそうではないと、弥五右衛門の例を示したのではないだろうか。

乃木大将の殉死については、夏目漱石のこころでも触れられており、こころの主人公の先生も過去のこと、これはいわゆる「三角関係」であるが、に罪悪感を感じ自殺する。夏目漱石も、乃木大将の死を批判する気はなかっただろう。むしろ感動してこころを書かせたのではないだろうか。だが、こころでは主人公は武士でなく、一般人どころかろくに仕事もしていない無為徒食の人間である。こころの先生の自殺と、乃木大将や弥五右衛門の殉死を同じようなものと見るのは無理がある。

夏目漱石は、武士道に賛同できなかった、少なくとも、明治の時代になって武士でもない一般人に殉死のような行為を理解するのは無理だ、私は殉死などできない、という思いがあったのではないだろうか。「こころ」では明治天皇の死と乃木大将の殉死について、自殺する先生にその事を言及させている。だが、先生は明治天皇に殉じたのではなかった。彼の死は、全く個人的な、自分の苦悩による自殺であって、自決とか殉死とは呼べるものではなかった。

夏目漱石は、「現代人に自決などできるものではない」という意識があったのではないだろうか。私から見ると、「こころ」は非常に遠まわしにかすかにではあるが、乃木大将の自決を批判している。

自決と言えばもう一人、三島由紀夫である。彼の行為は茶番であるとかそれこそ正気の沙汰ではないという批判が乃木大将よりも強く、ほとんど理解されなかったのではないか。しかし、彼の自決が世間に与えたショックは相当なものであったらしく、当時のことを振り返る人は皆そのニュースを知ったときの衝撃をよく覚えている。

三島の死は衝撃であると同時に不可解なものであったようだが、ほとんどの場合「自決」と言われる。「自殺」と呼ぶことは少ない。

私は殉死も自決も自殺も、ほめられたものではないと思うが、ばかげているとか卑怯だとか弱虫だとかいうこともできない。


里見弴 「文章の話」

里見とんの作品は読んだことがない。古本屋の店頭に置いてあった岩波文庫を買った。どうやら小学生向けに書かれたもののようだ。それにしてはちょっと難しいのではないかと思った。語り口は饒舌だが、なんというか、老人くさいというか、古臭いというか、昭和12年ごろ書かれたものだから仕方がないかもしれないが、なんだか生活臭がするような人間臭い文章である。

自分が文章を書く上で、何か新しいことが読めたわけではないが、一人の作家が文章とは何か、言葉とは何かということをまとまったものに表現したものには興味があった。だから本書は文章どうこうよりも、里見とんという人について書かれているものとして読んだ。


2012/11/28

「戦争と平和」 (10) 第三巻 第二編

アンドレイ公爵の父が亡くなる。ロストフとマリヤが出会う。ボロジノ役。ピエールが戦場へ行く。アンドレイ公爵が重傷を負う。トルストイのナポレオンに対する批判が強くなってくる。ピエールは戦場へ行くのだが戦うわけではなく、戦地を観光するかのように見てまわっている。アンドレイ公爵は治療を受けているときに、片足を失ったアナトーリを見る。

「中巻」が終わった。あとは「下巻」を残すのみ。

2012/11/25

「戦争と平和」 (9) 第三巻 第一編

戦争再開。第三巻の最初に、トルストイの戦争観が書かれている。戦争というものはたとえばナポレオンとかアレクサンドル皇帝などの思想や判断などによって起こるものではないというようなことだ。この小説には数え切れないくらいの人物が登場し、戦場の場面もあれば舞踏会や狩猟やお祭りの仮装大会や、結婚、不倫、裏切りなどもつづられる。ナポレオンは誰もが知っている憎き人物なのだが、彼も当然一人の人間であって、もちろん彼だけが歴史を動かしていたのではないのである。われわれは過去の歴史を振り返ったときにまるでシーザーとかジンギスカンとかナポレオンとか、ヒトラー、スターリンなどの人物達が、彼らだけが歴史をつづってきたかのように思いがちだが、当然、その時代にはピエールとかアンドレイ公爵とか、ニコライ・ロストフのような人物がいて、結婚したり、妻に失望したり、死別したり、バクチで大損したり、恋をしたりしていたのである。小説を読んでいれば、むしろナポレオンや戦争などよりもそちらの方がよっぽど大事で、感動的でもあるのである。しかしまた、戦争というものが避けようのないもの、ほとんど宿命のようであること、それに身を捧げること、それについても安易におろかなことだと片付けることもできないのである。

2012/11/22

「戦争と平和」 (8) 第二巻 第五編

ピエールの生活が乱れる。アナトーリがナターシャを誘惑し、ナターシャはアンドレイ公爵との婚約を破棄する。駆け落ちを計画するが失敗しアナトーリは去りナターシャは自殺を図るほどに悲しむがピエールが励ます。という感じ。ピエールの妻エレンは完全に「悪役」になってしまった。

第二巻が終わって、約半分である。あと半分は長いなとも思うが、登場人物たちに親近感が沸いてきていて、読み終わってしまうのがさびしい気もする。

予定ではもう読み終わっていたはずだが、あと1週間くらいかかるかな・・・。

2012/11/20

「戦争と平和」 (7) 第二巻 第四編

ニコライ・ロストフが休暇をもらって帰省したときの話。狩にいったり、お祭りがあって仮装をして、仮装したソーニャを見て結婚を決意する。 今度こそ「平和」の話。ただし、ニコライがソーニャを選んだことについて両親はがっかりするのだが。 狩では犬を130頭連れて行くなど、やはり常識はずれの貴族の話である。 ちょっと読むのが億劫になった。 「また戦争にならないかな・・・」などと思いながら読んでいた。 ただ、最後にニコライとソーニャの話が出てくるように、必ず何かしらのヤマがあるので読めている。 第五編で二巻が終わって、半分か。

2012/11/18

「戦争と平和」 (6) 第二巻 第三編

舞踏会とか、夜会とか。ピエールは社会運動家のようになる。妻を亡くしたアンドレイ公爵は父に反対されるがナターシャに結婚を申し込む、など。

さて、登場人物達はみな、「公爵」「伯爵」などという肩書きのついた人々、つまり貴族である。私もそうだったが、多くの人は小説を読むときにはそのような肩書きをほとんど無視して、一人の人間として、男や女、父や母、夫、妻、友人、などという関係とその間に生じる感情などを読んで、共感するのではないだろうか。だが、この第三編を読み終えるくらいに、私はそのような読み方でいいのだろうか?と思い始めた。

果たして、当時のロシアにとっての爵位というのはどのような意味を持っていたのだろうか?今、私の生活に爵位などというものはもちろん関わりがない。日本にも士族とか華族とかいう制度があったが今は廃止された。従僕とか侍女などもいない。家政婦さんはいても、それはあくまでも職業であり、契約して何かをしてもらうだけであって、主従関係はない。しかし、1800年頃のロシアを舞台にしたこの小説を読むときに、そういう時代だから「公爵」だの「伯爵」だのという肩書きがついているだけであると考えていわば「読み捨て」てしまって良いのだろうか?

本作品内では、人の呼び方はいろいろ変わる。たとえば主人公のピエールはだいたい「ピエール」と書かれるが、「ベズーホフ伯爵」と書かれることも多い。「アンドレイ公爵」はときどき「ボルコンスキイ」と書かれる。ピエールの妻となったエレンは、「ベズーホフ伯爵夫人」とか「エレーナ・ワシーリエヴナ」などと書かれる。が、基本的に登場人物の名は爵位をつけて書かれる。

これらは、当時の習慣だからそのように書かれているのだろうか?われわれは「戦争と平和」を読むときに、「貴族社会を描いたドラマ」として読むべきなのだろうか?それとも、時代や国や身分が変わっても、人の心の動き、感じることは同じなのだ、というような普遍的なものを読むべきなのか?

私はいままで、「普遍性」を読み取ってきた。しかし、いい加減にそれに無理を感じている。舞踏会とか、夜会とか、その際の服装とか、会話の内容とか、身分による関係であるとか、あまりに今の自分には縁がなさすぎる。前にあった、ニコライが作った多額の借金とかもそうである。


現代のわれわれがNHKの大河ドラマを見るときに、平清盛とか源義経が出てくれば、普通の一人の人間とは見ない。それらの人物が泣いたりすれば、「ああいう人にも泣くことがあるのか」というように見るだろう。「戦争と平和」も、そのように読むべきなのではないだろうか?

つまり、登場人物に感情移入することが難しいのではなく、それをしてはいけないのではないか?

公爵とか伯爵というものが、どれくらいの重みを持つのかがよくわからない。もう、一般人とはかけ離れた本当に特権階級なのか、それとも公爵などたくさんいて、あまり普通の人と変わらないのか。

2012/11/15

「戦争と平和」 (5) 第二巻 第二編

ピエールが「マソン(フリーメーソン)」に入会する。

フリーメーソンというと私には闇の秘密結社みたいな恐ろしいものというイメージがあるのだが、「七つの徳」などを見ても特に恐ろしいことは何もない。魔の山でもセテムブリーニはフリーメーソンだということが出てきたが、その際にも別に秘密でもなんでもなくさらっとしていた。

そしてピエールは社会改革を目指すような人間になる。「キリスト教的社会主義」みたいなものだ。私が胡散臭いと感じるものである。


フランスとの戦争は一時和平状態となり、アレクサンドル皇帝とナポレオンが勲章を与え合う。

など。

「上巻」が終わった。つまり、約1/3だ。意外にすっと読めた。

「戦争と平和」 (4) 第二巻 第一編

「平和」の世界。子供が生まれたり、浮気を疑って決闘をしたり、バクチで大負けしたり、求婚したりする。

ニコライ・ロストフは「4万3千ルーブリ」という金額を負け、父に頭を下げて助けてもらう。

どのくらいの金額なのだろうか?「ルーブリ」はドストエフスキーの小説でも出てきて、どれくらいかなと思うのだがわからなかったが、「1ルーブリは約1000円」という情報を見つけた。だとすると4300万円ということになる。

貴族だから、これくらいはあり得るのか。小説だし。

それから、決闘。魔の山でも決闘シーンが登場したが、やけに簡単に決闘をする。まあ、小説だけど。それにしても、拳銃を持って向かい合って打ち合うなどという恐ろしいことがよくできるなと思う。

戦争ではないけれど、「平和」とも言えないか。

「戦争と平和」 (3) 第一巻 第三編

ピエールとエレンが結婚する。マリヤがアナトーリとの縁談を断る。どちらも、本人以外の意向が強く働いている。

そして、アウステルリッツのいわゆる三帝会戦。いままで会話の中でしか出てこなかったナポレオンが登場して、負傷して捕虜となったアンドレイ公爵に言葉をかける。アンドレイ公爵には尊敬していたナポレオンが小さなものに映る。

会戦のくだりはわくわくして一気に読んだ。私は戦争を描いた小説はほとんど読んだ記憶がないが、登場人物の心理と状況が織り交ぜて語られて緊迫感が伝わってくる。

ロシア・オーストリアの皇帝が登場し、それを見るものの目には神々しい人物として映っており、筆者にも尊敬の念が感じられる。

第一巻が終わった。

2012/11/12

「戦争と平和」 (2) 第一巻 第二編

第一編と第二編は、ほとんど別の物語のようである。第二編は戦争の話。相手はフランス軍である。客観的な描写が続く。従軍している人々に緊張感はなく、使命感や愛国心なども見えず、仕事としてしかたなくやっている。実際の戦争はそういうものなのだろう。トルストイは従軍の経験も豊富なようだ。交戦になるとさすがに緊張したシーンになるが、その緊張も、戦争に意義を見出し国のために戦うといった緊張ではない。ただひたすら自分の命を守りそのために敵を倒すのだ。

第一編の社交場でのやりとりは全く縁がなく理解に苦しんだが、戦争についてもまた縁がない。でも、こちらの方がリアリティのようなものを感じられた。と言っても、大勢の登場人物がしっかり把握しきれず、何人かの人がわいわいがやがややってんな、と遠くから見ているような感じだ。

そんな読み方でいいんじゃないだろうか。とりあえず。第二編を読み始めたときはもうやめようかとさえ思ったのだが、戦闘シーンになって引き込まれた。戦闘シーンといってもそんなに勇壮なものではない、みっともないとさえ言えるようなシーンだったが。

「戦争と平和」なんて、凡庸なタイトルだなと、若い頃は思っていた。戦争に批判的な姿勢は感じられるが、安直な反戦文学などではない。もっぱら「ボナパルト」と呼ばれるナポレオンについては、登場人物達のリアルな心情の変化や行動のはるか上に、まるで「本当に実在するのか」とさえ感じる程に現実感なく流れている。このナポレオンの存在が、この小説を引っ張っている。


2012/11/11

「戦争と平和」 (1) 第一巻 第一編

とんでもないものに手をつけてしまった。

ここで原文が読める。
http://ilibrary.ru/text/11/index.html

登場人物の多さ。次から次へと新しい名前が登場する。

人間関係は、夫妻、友人、従兄弟、従姉妹、親子、私生児などがからみあう。

登場人物も子供、壮年、老人まで幅広く、

現代の日本では縁遠い、従僕、侍女などというものも存在する。

公爵、伯爵などの身分も実感しにくい。


この小説にはナポレオンが関係していることは知っていたが、今のところナポレオンは、登場人物の話題に上る人間にすぎない。

現代のわれわれが、カダフィがどうした、オバマがどうした、と語るようなものだろうか。


登場人物の人名はノートにメモしているが、まだ1割も読んでいないのに、誰が誰でどういう関係なのかが把握しきれていない・・・




2012/11/10

「戦争と平和」を読む (0)

「戦争と平和」 中村白葉訳 河出書房新社の全集。
父が買ったものだが読んだ形跡がない。

約182万2500字。原稿用紙に換算すると4557枚。
聖書より1割くらい多い。

11/10から開始、11/19終了予定。

トルストイは短いのしか読んだことがない。

「アンナ・カレーニナ」を読もうとして挫折した経験あり。




2012/11/09

マキアヴェッリ 「君主論」

「君主論(IL PRINCIPE)」 マキアヴェッリ著、黒田正利訳
岩波文庫、昭和10年第一刷、昭和50年第38刷発行

1512~1513に書かれた。当時の著者は今の私と同じくらいの年齢である。

もっと古い時代の人かと思っていたが、ルネサンス期の人、レオナルドダヴィンチと同時代の人だった。

この書についてはあまりにいろいろなことが言われすぎていて、どうせああいうものだと思って読まないか、変な先入観を持って読んでしまいやすいのではないだろうか。

私は古本屋の店頭の100円コーナーにあったのを見つけて買ったが、これまた読まずに本棚に置いてあったものである。


君主のとるべき態度を語っているのであるが、それは私がイメージしていたような冷たいものというより、必死さを感じた。また、聖書でモーセがイスラエルの民に言って聞かせるような強固で絶対的なものでもない。

そしてそれらは原理原則のようなものではなく、過去の歴史を振り返って経験則として導き出されたものである。それがいいとか悪いとかを判断する前に、他民族多国家がひしめくヨーロッパだから生まれた思想ではないだろうか。これは、天から降りてきたものではなく、明らかに地上から芽生えたものである。そういうものが、「ルネサンス」なのだろうか。

最後の方で、なるほどと思ったところが一箇所だけあった。

由来運命の神は女神である。だからこれを支配するためには撲ったり突いたりする必要がある。冷静に事を処理する人よりも、どうもこうした人にもっとよく従うものであるらしい。だから運命は、女と同じく、つねに若者の友である、これ青年は思慮浅く、乱暴で、しかもよく大胆に彼女を支配するからである。



2012/11/07

よくわからない「不安の概念」



 次に読んだのはキェルケゴールの「不安の概念」である。

岩波文庫の、斎藤信治訳、1951年第一刷、1993年41刷発行のものだ。

これも買ってはみたが読まずにいたものだ。発行年からすると、20年くらいたっていることになる。

私は高校生の頃に、「死に至る病」を読んで、「俺は悟った」と友人に言ったくらいに感動した。

「不安の概念」は、パラパラとめくってみると原罪、アダムとイブのことなどが書かれていたので、謎めいている「失楽園」のエピソードが一体どういうものかが解明されているかと期待していた。

しかし、これは期待しているようなものではなかった。


20年くらい前に買ったが読めなかったものだ。

序文や緒論もちゃんと読む。

緒論を読んで、面食らった。なんだこれは。何を言ってるんだこの人は。さっぱりわからない。

しかし、私は腹を決めて、わからないなりにとりあえず最後まで読み通そうと決心した。


内容は、死に至る病と似たところがあるが、いまひとつ肝心なところに触れていないというか、突っ込みが足りないというか、本音が出ていない、と感じた。


キェルケゴールの作品を久しぶりに読んで、おそらくヘーゲル用語と思われるものに戸惑った。
直接的、止揚、弁証法、宥和、精神、規定、措定、統一、綜合など。

彼はヘーゲルに強い影響を受けながらも最終的にはそれに批判的な立場を取ったということが言われている。

私は、キェルケゴールのことを「哲学者」だと思っていない。単なる一人の人間として、深く考えた一人の人として、その言葉を受け取っている。

心理学、倫理学、教義学のどの範疇なのかどうだこうだというのは、「死に至る病」でも最初の方に言及されていたが、それはあまり重要なことではない。

それから、本書も、死に至る病も、「哲学書」として分類されているが、私はこれを哲学書だとは思っていない。

ソクラテス、カント、そしてキェルケゴールは、哲学者とされているが、彼らは皆、「哲学でわかることとわからないこと」を区別した。

そして、神とか、原罪とか、絶望とか、不安とか、そういう、誰もが昔から悩まされそれが何であるかを考え議論してきたものは、哲学や科学で解明できるようなものではない、という立場をとっている事で共通している。私はそのように捉えている。

「不安の概念」は「死に至る病」よりも哲学臭い。

私は彼がこのように哲学臭く語るのは皮肉なのではないかと思うことがある。

偽名にしているのもそれだからではないのか。







2012/11/06

聖書は創作物か

村松剛著「ユダヤ人」(中公新書)を読んだ。

この中で、旧約聖書の内容を、考古学者などが研究した「史実」と照らし合わせていくところがある。

たとえば「大洪水」であるが、紀元前4000年頃、「ペルシャ湾から北西に約500キロ、幅百七十キロつまりメソポタミア平原のほとんど全部に及んだ」とか。

「部族を統一するためには、共通の過去、共通の運命を強調しなければならないから、教えは必然的に歴史的に、―歴史主義的になる。」

つまり、著者は神も聖書もモーセの創作物だと言っている。「モーセエジプト人説」まで紹介している。

聖書に書いてあることをそのまま信じるほうが無理があるかもしれないが、私は数千年を超えて読まれてきた書でもあるから敬意を払って、基本的にすべてを受け入れる立場である。

そのような立場についての異論というか、信条の違いみたいなものはあるが、非常に参考になることが書いてあった。

異教の偶像崇拝のことを「姦淫」ということについてであるが、やはりそれは文字通りの肉体による淫らな性的行為が伴っていたようだ。ひとつは豊作を祈願し酒を飲み踊り乱交する「オルギア」。

それから、「神殿娼婦」という、「売春」を聖なる行為とする習慣があったようである。神殿娼婦、神殿男娼という言葉は聖書にもあった。


私は聖書にはある程度の誇張や象徴的な表現が含まれているとは思うのだが、本質的な虚偽はないと思っている。民衆を従わせるとか部族統一などのために創作されたものではないと考えている。


よく日本人には「日本教」という宗教があると言われる。だいたい悪い意味で言われるようだが、日本人は勤勉で謙虚で礼儀正しいのは間違いない。しかもそれは、戒律とか神なしに実現しているのである。これは本当に驚異的なことだ。はたしてこれは「天皇」によるものだろうか?ニュースや新聞では「天皇陛下」と呼ばれる。「陛下」をつけなかったら大問題になるだろう。日常生活では天皇という存在は日本人にとってほとんど縁がない。しかし、だからと言って天皇が軽んじられているわけでもない。

天皇はまさに日本国民の「父」のような存在で、これは理想的な徳治する王ではないだろうか。

会社勤めをし、むやみに転職せず、時々居酒屋で宴会をする、という日本人の働き方も、「日本教」ならではだと思う。私は「飲み会」が非常に苦手だ。酒を飲むのに、節度を失ってはならず、この会には厳然たるタブーがある。


私は本書を読んで、なんだか寂しくなったというか、興ざめした。
聖書を読んだときに味わった昂揚がすっかり収まってしまった。

聖書のダイジェストというか、「聖書とはこういうことが書いてある」という本は、買ったことはないが立ち読みでパラパラと見てみたことがあるが、聖書は要約し得ない。

聖書には互いに矛盾するような書が一緒に収められている。その一番わかりやすい例が新約聖書と旧約聖書である。その他、細かいところで食い違うようなところ、不明なところもたくさんある。

だが私は、それらを全部読んで、その矛盾や疑問まで含めて、聖書には意味があると思っている。創世記から始まって、律法、歴史、詩、預言、黙示などが集められた。この執筆と編纂も数千年に渡って行われてきた。それを、アブラハムかモーセかわからないが、だれかが創作し、それを子孫が引き継いで受け継がれたものだとは私にはどうしても思えない。


2012/11/04

新約聖書を読む (27) ヨハネの黙示録

青い馬がどうしたとか、
赤い龍とはローマ帝国のことだとか、ソ連のことだとか、
666はネロのことだとか、
にがよもぎはチェルノブイリのことだとか、

恐れ多いものとして一目おいていた黙示録であった。

聖書を全部読めば、黙示録に書いてあることがどういうことかわかるかと思っていたが、
まったくわからない。

エゼキエル書に書いてあることと似たようなことが書いてある。

聖書を研究するのは意味のあることかもしれないが、黙示録には近寄らない方がいいと思う。

私は、ヨハネの黙示録は聖書から除外した方がいいんじゃないかとさえ思う。

手紙も、パウロの手紙以外はなくてもいいんじゃないかと思う。



これで、旧約聖書、新約聖書を通読した。

一回通読したくらいですべてわかるようなものではないと思うが、
とりあえず、大きな建物の概観を把握したようなものだろうか。

新約聖書を読むのに費やした時間は約9時間だった。

新約聖書を読む (26) ユダの手紙

このユダはイスカリオテのユダではない。

ソドム、ゴモラ、モーセ、カイン、アダム、エノクなど懐かしい名前を出している。

新約聖書を読む (25) ヨハネの第三の手紙

no comments.

新約聖書を読む (24) ヨハネの第二の手紙

no comments.

新約聖書を読む (23) ヨハネの第一の手紙

このヨハネは福音書を書いたヨハネだろうか?

言っていることが似ているので多分そうだろう。

罪と愛について語っている。

なんか胡散臭い。

新約聖書を読む (22) ペテロの第ニの手紙

誰が書いたのかとか、本当に書いたのかとか、そういうことを詮索するのはやめよう。

私はこの手紙を初めて読んだとき、とても身につまされたのを覚えている。


彼らは、真昼でさえ酒食を楽しみ、あなたがたと宴会に同席して、だましごとにふけっている。その目は淫行を追い、罪を犯して飽く事を知らない。彼らは心の定まらない者を誘惑し、その心は貪欲に慣れ、のろいの子となっている。

新約聖書を読む (21) ペテロの第一の手紙

一番弟子。

といっても、三度師匠を否定しているが。

この手紙には「信仰」という言葉は出てこない。

「肉の欲を避けなさい」

「りっぱな行いをしなさい」

「神の僕にふさわしく行動しなさい」

という、現代でも言われるような常識的な道徳をすすめている。


この手紙、ヤコブの手紙もそうだが、本当に書かれたものなのだろうか。

パウロの手紙は各地に伝道したからその必要性もわかるが、
ヤコブ、ペテロ達に手紙を書く必要があっただろうか?

新約聖書を読む (20) ヤコブの手紙

直弟子の手紙である。

宛名は「離散している十二部族の人へ」である。

パウロは復活したイエスしか知らない。

ヤコブは十字架に付く前のイエスと、最後は見捨てたにしても、行動を共にした弟子である。
その言葉は重い。

パウロと正反対ともとれるような事を言っている。
「人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰によるのではない。」

パウロは律法と信仰をならべて語った。律法とは、「行い」と言ってもよいだろう。

パウロの手紙を読んでいると、信仰さえあれば行いはいらない、いくら「善行」を積んでも、信仰がなければ救われない、「善行」がなくても信仰があれば救われる、という気になる。

でも、現代の日本人から見れば、ほとんどの人がヤコブの言っている事の方が正しいと思うだろう。

つまり、信じているだけでは意味がなく、行動で示すことが大事だと。

アブラハムがイサクをささげたことを、パウロは「信仰」であると言い、ヤコブは「行い」であると言った。

言いたいことは同じなのかもしれないが、信仰していることを示すには行いが必要である。でも、なんの信仰もないのに形式的に行動してもそれは意味がないだろう。


これは微妙な問題だが、私はやはり「信仰」が重要だと考える。

信じなければ行えないのは確かだし、行わなければ信じているかどうかはわからないのも確かだが、やっぱり、信じているかどうか、罪を自覚しているかどうか、そこが重要なのだ。



新約聖書を読む (19) ヘブル人への手紙

この手紙は誰からということが書いていないが、パウロ以外の誰がこれを書けるだろうか?

私はガラテヤ人への手紙が最も重要だと言ったが、それは撤回して本書が最重要としたほうがいいかもしれない。

この手紙は他の手紙とは少し調子が違うのだが、それは無理もない、だって「ヘブル人」への手紙なのだから。

「ヘブル人」。

私が何もしらずに聖書を読み始めた頃は、ローマ、コリント、テサロニケ、などのさまざまな人々に宛てている手紙であるとしか知らず、「ヘブル人」とはどういう人なのかを知らなかった。


「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。」

新約聖書を読む (18) ピレモンへの手紙

「キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、」

という卑屈なまでのへりくだりから始まる。


パウロに子供がいた!その名はオネシモ

・・・と思ったら、これは実の子ではないようだ。
でもそれはwikipediaの記述なのでどこまで本当かは怪しい。

「すでに老年になり」と書いてあるが、このころパウロは何歳くらいだったのだろう?


新約聖書を読む (17) テトスへの手紙

テトスも弟子みたいですね。

きよい人には、すべてのものがきよい。しかし、汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまっている。彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である。

俺の事か!

新約聖書を読む (16) テモテへの第二の手紙

パウロの手紙は、遺書のようなものだ。

主の囚人 
キリスト・イエスの良い兵卒
人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。
わたしが世を去る時はきた。


新約聖書を読む (15) テモテへの第一の手紙

テモテはパウロの弟子のようだ。

弟子にあてた手紙なので、落ち着いている。

作り話やはてしのない系図などに気をとられることもないように、命じなさい。

新約聖書を読む (14) テサロニケ人への第二の手紙

「主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動かされたり、あわてたりしてはいけない」

不品行とか、怠惰な生活とか、そういうことに悩まされていたようである。

新約聖書を読む (13) テサロニケ人への第一の手紙

テモテとは誰か。

パウロの手紙で必ずと言っていいほど連名で記される人。


新約聖書を読む (12) コロサイ人への手紙

わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。

「あがなう」という言葉は旧約聖書でもかなり古いところから使われていた。意味ありげに。

だがそれが、「ゆるし」であると明言されていたところがあっただろうか?


新約聖書を読む (11) ピリピ人への手紙

なんか、思いつめている。

「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。」

「キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。」


パウロの熱心さはときどき不思議に思うくらいなのだが、これは彼がいままでおこなってきた迫害についての罪悪感ではないだろうか。

直接手を下しはしないものの、イエスのことを教えるものを捕らえて死に至らしめさえしていた男である。その罪悪感を振り払うために、つまり、罪滅ぼしのために伝道していたのではないか。もう、いつ死んでもいいと、自分の死に場所を探していたのではないか。


2012/11/03

新約聖書を読む (10) エペソ人への手紙

それでは、不品行や貪欲はどうやってそれを抑えるのか。

律法は成就した。われわれは律法の下にはおらず、信仰の下におり、あたらしく生まれ変わった。

それでは、新しく生まれ変わった我々は、肉の欲望に迷うことが一切なくなったであろうか?

そんなことはない。われわれの肉体は以前と全く変わることがない。

それどころか、律法という檻がなくなったことによって、解き放たれた獣のように暴れまわっている・・・・

と、ならないのだろうか?


イエスが十字架についたのを目の当たりにした人々はそれどころではなかったかもしれないが、そんな事は遠くで昔にあったことにすぎないという人々にとっては効力がない。

新約聖書だけを読んでいて不安になるのはそういうところだ。

新約聖書を読む (9) ガラテヤ人への手紙

短いが、これは非常に重要な書である。

私の友人でクリスチャンである男は、「聖書のエッセンスはローマ人への手紙だ」と言った。

しかし、私は新約聖書で最も重要なのはローマ人への手紙ではなく、本書だと思っていた。そのことは彼には言わず、割礼のことをちょっと茶化しぎみに話したことを覚えている。

「ガラテヤ人への手紙」の重要性は、昔読んだ本の中でも指摘されていた。というか、私はその本をきっかけによく読んで、その通りだと思うようになったのである。


この手紙は、想像だが、パウロが伝道する新しい教えが広まり始めた後で、あまりに律法が軽視されていることに不安を感じた人々が、律法の重要性を指摘し始めたことに対するパウロの反対意見であろう。

あれほどそむき続けた律法が、今度は何度言ってもやめられなかった偶像のようなものになったのである。

パウロはパリサイ派だったから、律法のことはいやと言うほど知っていて、それに人々が悩まされ重荷となっており、しかもそれによっては救われないことを痛感していたから、律法ではなく信仰を重んじるイエスの福音を聞いて、信仰の重要性を強調した。

そしてこの手紙は、それに対する反動のように律法へ帰ろうと言い出した人たちに対して書かれたものなのであるが、パウロは「もう律法なんか守らなくていいんだ」とは言わない。イエスが「律法を成就するために来た」と言ったように。


それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。

このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。



新約聖書を読む (8) コリント人への第二の手紙

パウロは肉の軽視を強調する。肉の欲をほぼ全否定する。
食べたり飲んだり結婚したりは、いい事ではないが許されている、という立場である。


さて、聖書にはパンとパン種のたとえがよく出てくる。
福音書に、「5つのパンと2匹の魚を5千人にも分けて、パン屑が12のかごに一杯になった」、「七つのパンと小さな魚を4000人にわけてパン屑が7つのかごに一杯になった」
という話が出てくる。

私はこれは間違いなく何かのたとえであると思うのだが、ずっと何のたとえだかわからなかった。
これは弟子たちがある事実を暗号のようなものとして記していることではない。なぜならその後で、イエスがこのことについて弟子たちに「まだ悟らないのか」と言っているからである。だから上記の出来事は象徴的なできごとではあろうが、実際に起きたことなのである。

まず、どうやっても5つのパンはそのままでは5000人は満腹にならない。私がまず考えたのは、「5つしかないのなら私は食べない」と皆が言ったのでパンが余ったということかと思った。しかし、ちゃんと「食べて満腹した」と書いてあるし、残ったものは「パンくず」であったからそれは違う。

イエスは「天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された」とある。
ここに秘密がある。このことによって、「5つのパンと2匹の魚」が5000人を満腹させた上に、12のカゴにいっぱいになるほどのパン屑があまったのである。

これはイエスのおこなった奇蹟で、パンが本当に、物理的に増えて、ほんとうに屑が12の籠に一杯になった、ということだろうか。

でもそれなら、「5つのパンが1万個に増えて人々は食べきれなかった」と書かれるだろうし、12のカゴに一杯になるほどのパン屑がでるというのはあまりにお行儀が悪すぎないか。それに、「5つ」「2匹」「12のかご」という数字があまりにも意味深である。

この答えのヒントを、イエスが示している。

マタイによる福音書16章
「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒せよ」
・・・・
「まだわからないのか。・・・・五つのパンを五千人に分けたとき、幾かご拾ったか。
・・・・
わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。
・・・・
そのとき彼らは、イエスが警戒せよと言われたのは、パン種のことではなく、パリサイ人とサドカイ人との教えのことであると悟った。

「パン種」は「教え」のことだとするなら、「パン」とは何か。パンは、パン種によって膨らまされるものである。

出エジプト記12章
そしてその夜、その肉を火に焼いて食べ、種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならない。

私はパンを作ったことはないが、パンはイースト菌を入れてしばらく置いて発酵させる。そういう役目をするものが「教え」にたとえられるなら、「パン」は一体何のたとえなのか。

発酵といっても、べつにパンの量は増えない。膨らんで大きくなったように見えるが、粉の量は同じだ。つまり、パン種というのは小さなものを大きいものに見せかけるようなものの事だろうか。

もしくは、逆に、小さなものを膨らませておいしくするという善い意味だろうか?


マタイによる福音書13章
天国は、パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる。

ここでは善い意味でたとえられている。

「種入れぬパンを食べる」というのは、ふくらんでいないパンがいかにおいしくなく、パン種がいかに重要かを思い知らせる意味があったのだろうか。


インターネットで検索すると、これらのたとえがどういう意味なのかを説いている人がたくさん見つかるが、どれも微妙に異なる。

あまり急いで結論は出さないようにしよう。
パンが膨らむのには時間がかかることだし。


新約聖書を読む (7) コリント人への第一の手紙

結婚について言及されている。独身を奨励しているが結婚を否定もしていない。

復活、死について言及されている。
イエスの存在を否定する人は少なくても、その復活を信じない人は多いのではないだろうか。好意的に受け取る人でも何かの象徴のようにしか捉えない。

私も復活というのは何かのたとえ、方便なのではないかと思えてならない。

ただ、七面倒くさい屁理屈をこね回すくらいなら、復活を信じる。


そもそも、イエスという人を今我々が知るのはすべて伝聞による。それも、最もその人の人となりを知るのに有用とされているのが4つの短い福音書しかないのである。

人が誰かを賞賛あるいは批判するときに、第三者の書いたその人のほとんど噂のような話、その中で彼が言ったとされる言葉を対象にするだろうか?

そんなことはただのあら捜し、言いがかりではないだろうか?

とにかく、われわれはイエスに関してはあまりに情報が少なく、彼自身についての判断のしようがないのである。

ただし、彼に出会った人、彼の事を信じる人、その人を信じる人達が伝えること、成した事、死に様、それらを見たときに、架空や想像の産物が引き起こしたとはどうしても思えないのである。

新約聖書を読む (6) ローマ人への手紙

私は大きな勘違いをしていた。

それは、パウロはユダヤ人ではないと思っていたことである。異邦人のなかから、異邦人に伝道するために選ばれたのだと思っていた。ところが彼はユダヤ人であるどころか、パリサイ派である。モーセの律法を熟知していた人だったのである。

だからイエスを迫害していたのである。それが突然改心する。これは改宗と言ってもいいくらいの大きな転換である。

ローマ人への手紙を読んでいると、戦争が終わって瓦礫の山と化した町に暖かい日差しがさして草木が生えてくるようなさっぱりした平和な気持ちになる。パウロの手紙は皆そんな感じだ。「ところどころ思い切って書いた」と言っているが、もう人間には守るものは何もなくてすき放題やっていいんだと思いそうにさえなる。

この手紙は冒頭に「パウロから」とあるのでパウロが書いたということで間違いないと思うのだが、最後の方に「(この手紙を筆記したわたしテルテオも、主にあってあなたがたにあいさつの言葉をおくる。)」とあるので、口述筆記のようなものだったのだろうか。

新約聖書を読む (5) 使徒行伝

これは、「パウロ記」である。

イエスに批判されたパリサイ人であったパウロ(サウロ)が改心して、猛烈な勢いで伝道をして、ついにローマで裁判を受けるまでになる。

使徒行伝を読んでいると、「イエスがキリストである」ということが争点であってそのためにパウロは殉教するのであり、「キリスト教」という別の宗教になった理由もそこにある。

キリストが十字架についてしまったことは、やはりユダヤ人の過ちであり、その過ちを教えることも伝道の重要な目的であり、迫害された理由でもあったのだろう。

新約聖書を読む (4) ヨハネによる福音書

感動的な福音書である。一気に読まされた。

しかし、そのことが私にとって、この福音書を他の3つよりも胡散臭いものとさせている。
なんかできすぎているというか。

でも、特にイエスの存在や他の福音書を否定するようなものではない。

新約聖書を読む (3) ルカによる福音書

「あなたの罪は許されたと言うのと、起きて歩けと言うのと、どちらがたやすいか。」

私はこれの答えがわからない。こういう言い方はわれわれもよく使うが、それは何かを教えるときに、答えを教えてしまうのは簡単だがそれでは学んだことにならない、自分で答えを出すように導く、というような使い方である。しかし、イエスのこの質問は、それと同じように考えてもわからない。

病人に対し、最初は「あなたの罪はゆるされた」という。しかし、パリサイ人の論議を聞き(見抜いて)「どちらがたやすいか」と聞いた後に、「起きて歩け」と言った。

結局、どちらがたやすいのか。最初に言ったのが「罪は許された」であるから、おそらく「起きて歩け」という方がたやすいのであろう。でも、それではいけなかったのだ。

どうしていけなかったのか?「罪はゆるされた」と言われたら起きて歩かねばならないのか。

つまり、罪が許されるというのは、イエスの一言でなされるのではなく、「許された」という言葉を聞いた者がそれを信じて行動することが必要だ、というような意味なのだろうか?

しかし、そうだとしたら、「起きて歩け」とは言ってはならなかったのではないだろうか?


それからもう一つ、イスカリオテのユダの「裏切り」について。
イエスは自分が捕らえられて十字架につく事を知っていた。知っていたというか、そのために来たということを言っている。そうであるなら、ユダのしたことは「み旨」に、神の意志にかなうことではないのか?実際に、イエスが十字架につくことは予定ではなかった、という考えの人たちがいるのを私は知っている。

しかし、少なくとも福音書は、イエスは十字架につくために生存したということを伝えている。もし、そうでないなら、それは作者の無知ということになる。私は聖書を読むときには、とりあえずは作者の意図を読む。そもそも、何かを読む、人の話を聞くということはそれでしかない。最初から否定する目的で、批判する目的で、揚げ足取りをするつもりでは、何も受け取れないのだ。私が聖書について提示する疑問は、あくまでもその理解を深めるための疑問である。



私は神を、聖書で主と書かれている神が存在することを信じている。また、イエスが実在し、十字架についたことは事実であると信じている。しかし、その「信じている」というのは、客観的科学的に情報や資料を吟味してたどりついたものではない。聖書を信じないのは自由だが、では聖書ではない書物はどうして信じられるのか。聖書を信じようとフラウィウス・ヨセフスを信じようと、それはその人の意思や信念に過ぎないのは同じことではないか。

だから、私はひとつ間違えば、ふとした時には「イエスなど存在しなかった」あるいは「単なるカルト宗教をおこした狂人」であって、ユダヤ教みたいなメンドクサイものを廃止したほうが楽しく生きられるという誰かの創作物なのだと考えることもある。

そんなときには、中途半端に科学的客観的な判断で「イエスという人は実在し、彼の言動には一目置くが私はクリスチャンにはならない」というような穏健な態度をとる人を私は軽蔑する。イエスというのは、信じるか否定するかのどちらかだ。ひとりの天才宗教家とか、思想家のようにみなすことは私がもっとも嫌うことである。

2012/11/02

新約聖書を読む (2) マルコによる福音書

マルコって誰?
弟子の中には名前がない。
ではマタイによる福音書のマタイは弟子の、取税人マタイ?

二つの福音書は内容がほぼ同じだがなぜ二つ、さらにルカとヨハネの福音書まであるのか?

複数の人によるひとつの出来事の叙述を示すことによって真実であることを証明する目的だろうか?

wikipediaによると、マルコはペテロの通訳であり弟子であった人だそうだ。
パウロはインテリでギリシア語が堪能だったようだが、ペテロはそうではなかった。

新約聖書が書かれた時期は不明だが、50年から70年頃とされているようだ。

「新約聖書はギリシャ語で書かれている」と言われていて私もそれを当然のことと思っていたが、なぜギリシャ語なのだろう?

弟子が書いたとしたら、彼らはギリシャ語を書けたのだろうか?

ローマの支配下にあったユダヤにおいて、ギリシャ語とはどういうものだったのだろうか?
今の日本でいう英語のようなものだろうか?


さて、新約聖書になって登場した新しい言葉をあげておく。


  • バプテスマ
  • 聖霊
  • 神の国(天国)

バプテスマは洗礼と同じ意味のようだが、そんなものは旧約聖書では一切登場しなかった。いつ頃、どういう目的や意義があって始まったのだろうか。
初めて「バプテスマ」という言葉を知ったとき、なんの説明もなく誰もが知っていることのように書かれていたのでユダヤ教の恒例行事みたいなものだと思っていたが、そうではなかった。

聖霊も、よくわからない。

そして、天国。旧約聖書を読んでいたときにふと気づいたのだが、旧約の世界では「来世」という概念はない。死ぬことを天にのぼるなどという事はあっても、「死後天国へ行けるように神の戒めを守る」というような考えは一切ない。求めるものそして主の与えるものは土地であり食物であり家畜や奴隷を多くもつことが「祝福」であった。要は「現世利益」である。

「天国」はイエスが導入した概念だったのか?「天国は近づいた」と言うと、待ってました、みたいで、皆が待ち望んでいたかのようであるが・・・と考えたところで、待てよ、と気づいた。

イエスは「天国」のことを、「人がよいおこないをしたら死後に入れる所」という風に語ったことがあっただろうか?確かに「選ばれた人だけが入れる」所ではあるが、それが死んだ後に行くところだと言っているところがあったっけ?


新約聖書を読む (1) マタイによる福音書

「バビロン捕囚」は世界史の年表にものっていて、紀元前586年のことである。
紀元前538年にキュロス2世によりユダヤ人が解放された。

イエスが誕生した時のユダヤの王はヘロデであるが、この王はまるでエジプトのパロのようで、旧約聖書に書かれていた歴代のユダの王のようではない。

聖書に登場するユダの王はヨシヤのあたりまでで、ヨシヤの在位は紀元前609年までである。
エルサレムへの帰還が紀元前538年。
神殿の再建が紀元前458年。エズラ記はこのときの記録のようだ。
旧約聖書から新約聖書の間には400年程の空白がある。
その間になにが起きていたか。
アケメネス朝ペルシアが紀元前330年にアレクサンドロスに滅ぼされる。
紀元前305年にプトレマイオス朝エジプトがおこる。
紀元前312年にセレウコス朝シリアがおこる。

紀元前167年にマカバイ戦争が起こる。
このことを記録しているのが「マカバイ記」で、カトリックでは正典とされているそうだが、
私は持っていない。
この戦争により、紀元前142年にはユダヤは実質上独立し、ハスモン朝が始まる。

紀元前63年にセレウコス朝シリアはローマのポンペイウスに滅ぼされ、
ユダヤはローマのシリア属州の一部となる。
紀元前37年にハスモン朝が滅亡し、ヘロデ朝が始まる。
実質的にはローマの属国だったが、いちおう独立国だったのか?
新約聖書に登場するヘロデは大王と呼ばれた王の子の、ヘロデ・アンティパスである。


さて、マタイの福音書であるが、これはもう、なんというか、引用され曲解され、都合のいいように利用され、深読みされ、手垢がついたどころか、原型が見えないほどボロボロにされている観がある。

今回改めて読んで気になったことはまず、「預言の成就」ということが何箇所かにあることである。イザヤが多く、エレミヤ、ヨナもある。ヨナが3日魚の腹の中にいて吐き出されることが、まさか救世主の復活のことだったとは。

それから、「エリヤ」が非常に重要な人物として扱われている。イエスがモーセとエリヤと会談する場面がある。モーセはいいとして、なぜエリヤなのか。アブラハムとか、ヤコブ(イスラエル)とか、ダビデとかではなく。

イエスについて、彼の発言について、福音書に書かれている出来事について語ったら一冊本が書けるどころか一生のテーマになるどころか、2000年たってもいまだに解釈がわかれているのだから、とりあえずそういう話なのか、と受け取っておく。

いろいろ言いたいことがあったがまとまらない。
ひとつおもしろいたとえを思いついた。

旧約聖書と新約聖書では共通点もあるが別の宗教であるかのような違いもある。それは、トランプでババ抜きをしていた所に、7並べという新しい遊びをもたらしたようだ。同じトランプを使っているのだが、ゲームは全く違うもの。

私はずっと旧約聖書を読んだ後に久しぶりにマタイによる福音書を通読して、トランプがシャッフルされるような混乱を感じ、そんなことを思った。

旧約聖書を読む (39) マラキ書

旧約聖書最後の書。

14章
見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。


救世主の前に、エリヤが来ることになっている。

マタイによる福音書11章の「そして、もしあなたがたが受け入れることを望めば、この人こそは、きたるべきエリヤなのである。」
というのはこのことだろう。


さて、ついに読み終わった。予定通り1週間だった。
ちなみに私は今わけあって一日中時間があった。
食事と寝る時間以外をほぼ全部つぎ込んだ。

読んだ時間は35時間だった。意外に短い。
途中で系図を書いたり調べものをしたところもあるし、急いで読んだところもある。
1日1時間ちょっとずつ読んでも1ヶ月で読めるということだ。

ここまで来たら、当然新約聖書を読まないと。
新約聖書は全部読んだつもりだが使徒行伝なんかは全然覚えてないので、
最初から最後まで全部読む。

旧約聖書を読む (38) ゼカリヤ書

短い預言書が続いたが、これは少し長くて黙示録風である。
よくわからない。

サタンが出てくる。
私の記憶違いと読み落としがなければ、聖書でサタンが出てくるのは、ヨブ記と、ここと、イエスの荒野での試みの三箇所である。

旧約聖書を読む (37) ハガイ書

短いが歴史書。
「主の家」を建てる。

旧約聖書を読む (36) ゼパニヤ書

ゼパニヤはヒゼキヤの子孫である。


旧約聖書を読む (35) ハバクク書

「主よ、わたしが呼んでいるのに、
いつまであなたは聞き入れて下さらないのか」

ちょっと毛色の違う預言書。
最後は祈り。

旧約聖書を読む (34) ナホム書

ニネベについての託宣。

1章
主はねたみ、かつあだを報いる神、

旧約聖書を読む (33) ミカ書

5章
しかしベツレヘム・エフラタよ、
あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、
イスラエルを治める者があなたのうちから
わたしのために出る。
6章
主は数千の雄羊、
万流の油をよろこばれるだろうか。
(略)
主のあなたに求められることは、
ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、
へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。

旧約聖書を読む (32) ヨナ書

これは、短い物語。

「大いなる魚」の腹にのまれて3日過ごすと言えば、ピノッキオだ。

夏の日差しが強くて暑さに参ると、ヨナ書を思い出す。


旧約聖書を読む (31) オバデヤ書

2ページしかない。

エドムについて。エサウの名前が出てくる。

旧約聖書を読む (30) アモス書

歌のような預言書。

旧約聖書を読む (29) ヨエル書

「老人たち」に言われている。

「主の日」が来ることを言っている。


「あなたがたは衣服ではなく、心を裂け。」

何かあると「衣を裂く」シーンは、ヨブとか、サウルにあった。
ダビデもあったかな?

このように、次第に形式から内面へ、という変化がみられる。

旧約聖書を読む (28) ホセア書

非常に短い、預言の書。

淫行と姦淫を怒っている。
特に、エフライムについて言われている。

旧約聖書を読む (27) ダニエル書

「それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。」(9章)

ついにはっきりと救世主について言及される。ちなみにこれを言っているのはガブリエルである。
ガブリエルは天使である。が、聖書にはその説明はない。


ダニエル書は預言書あるいは黙示文学とされているようだが形式としては歴史書である。
ただし、炉に投げ込んでも死なないとかライオンのいる穴に投げ込んで一晩たっても死なないとか信じがたいことが多く、預言は具体的かつ細かすぎてこれまた信じがたい。


ちなみに上記の引用について詳しく解説している人をインターネットで見つけた。ピタリと的中しているというのだが、その説明はこじつけとしか思えずそのこじつけでも説明できていないように思えた。

11章では戦争が起きて南の王と北の王がどうのこうのという預言があるのだが、これも非常に具体的すぎる。

マタイによる福音書で、イエスがダニエルの預言について言及している。
24章
「預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべきものが、聖なる場所に立つのをみたならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。」


ダニエル書の以下の箇所のことであろう。
 
9章27
「彼は一週の間多くのものと、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物を廃するでしょう。また荒らす者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。」

12章11
「常供の燔祭が取り除かれ、荒らす憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日が定められている。」


ちなみにイエスが言ったのは世の終わりのときのことで、そのときに彼が「再び来る」という話の上でである。

2012/11/01

旧約聖書を読む (26) エゼキエル書

これは他の書とガラっと雰囲気が変わる。イザヤ・エレミヤも少し違うのだが、エゼキエル書は前衛的というのか、異様な雰囲気さえ漂う。

のっけからバケモノかUFOとしか思えないものが登場し、エゼキエルの預言はたとえだらけでまた絶望的な預言が続く。その対象はエジプトにまで及ぶ。

そして、偶像を禁じ怒るのはいつものことだが、14章「人の子よ、これらの人々は、その偶像を心の中に持ち」と、石や木の像でもない偶像にまで言及される。偶像とは無形の神をカタチにするという
だけの意味ではなかったのだ。

また、「姦淫」についても今まで以上に厳しく叱り、「淫乱」という言葉まで出てくる。わたしはこの姦淫はあくまでも崇拝などの意味のたとえとしての言葉だと思っていたのだが、ここまでしつこく繰り返され、さらに人々がやめないところを見ると、本当に文字通りの「姦淫」なのではないかと思えてきた。

ただしところどころにチラっと光るような希望的な預言が出てくる。
11章「彼らのうちに新しい霊を授け、彼らの肉から石の心を取り去って、肉の心を与える」
34章「わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとはこれを監督する」
「わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。彼は彼らを養う。」

捕囚後の預言だからもちろんこのダビデはあのダビデではない。この辺が「救世主思想」だろうか。

このように「新しい信仰」のようなものが続くと思ったら、最後の方で牛や羊のささげものについての、モーセの律法のような記述が続き、そして最後は「幻のうちに」宮があらわされ、その詳細な大きさなどが示される。

というわけで、この書は預言書と黙示録と律法書があわさったような、壮絶な書である。

(追記)
38章に、「最終戦争」のような預言がある。
「メセクとトバルの大君であるマゴグの地のゴグ」に対する預言である。

旧約聖書を読む (25) 哀歌

エレミヤの歌った歌。

ここがどん底か。希望や救いはまったく見られない。

旧約聖書を読む (24) エレミヤ書

エレミヤ書は歴史の記述も多い。

エレミヤとイザヤは、イスラエルに対する警告の役目でやってきたと思っていたが、そうではなくて、もうどうしようもなくなった彼らに、希望を持たせるという役目の方が重要だったのではないか。

エレミヤ書では、31章

「見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。」
「わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。」
「人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。」
「わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない。」

など。そしてこれは「新約」の概念である。

そして、50章に
「わたしの民は迷える羊の群れである」
というフレーズが出てくる。
この、今日ではキリスト教徒言えば「迷える子羊」というくらい誰もが知っているたとえが登場したのはここが初めてではないだろうか?

終盤では、イスラエルとユダを捕囚したバビロンの崩壊が「予言」されている。

旧約聖書を読む (23) イザヤ書

イザヤ書も有名でよく引用される。特に、救世主の出現を預言しているということが言われる。

イザヤ書は2回くらい読んで、いまひとつよくわからず、列王記、歴代志を読み終えた今回なら、と思ったが、やはりピンとこない。

そもそも、この書はどうやって書かれたのだろうか?イザヤは預言をどうやって人々に伝えたのか?道端で演説したのか?イザヤ書はそれを誰かが書きとめたのか?または自分で書いて、「こんなことを主は言われる」と言って祭司などに渡したのか?

私の知っている人に、「私はイザヤが好きです」と言っていた人がいるのだが、その人の気が知れない。私は聖書の登場人物で好きな人などいない。ダビデが好きだとかモーセだとか、勇ましいヨシュアだとか、ヨセフとかは人気がありそうだが、私には皆宇宙人のようにしか見えない。

旧約聖書を読む (22) 雅歌

これもソロモンの書いたものだ。

短い書であるが、正直に言ってなんのことだかさっぱりわからない。

これは何かを象徴したものなのか?それともただの純粋なラブ・ソングなのか?

女性の美しさをいろいろなものにたとえているのだが、そのたとえているものが何なのかよくわからない。

あなたの首は象牙のやぐらのごとく、
あなたの目は、バテラビムの門のほとりにあるヘシボンの池のごとく、
あなたの鼻は、ダマスコを見おろす
レバノンのやぐらのようだ

とか言われても・・・・

旧約聖書を読む (21) 伝道の書


Why was I born today
Life is useless like Ecclesiastes say 
Pete Townshend "Empty Glass"

この書は私が旧約聖書の中で初めて読んだものである。

父の書斎にあった「世界の名著」というシリーズに「聖書」もあった。すべての書はおさめられていなかったが、「伝道の書」はあって、ぱらぱらと見て短いし、「空の空」とか書いてあるので興味を持った。

聖書にもこんな虚無的なことが書いてあるのかと驚くと同時に、いっそう聖書に興味を持った。

否定する説もあるようだが、ソロモンの書とされている。

栄耀栄華を極めたソロモンなら、この世のあらゆる快楽を味わって虚無的な人生観を持ったというのもうなずける。

だが、今読んだらあんまりおもしろくなかった。

旧約聖書を読む (20) 箴言

ソロモンが言った(書いた)と言われる箴言で、一部彼のものでないものもある。
ときどきはっとさせられるような言葉があるが、全般的に退屈である。
耳が痛い言葉は多い。

読みながら、「ソロモンは一体どんな生活を送っていたのだろう」と考えた。
なんせ、妻とそばめをあわせて1000人だった男だ。
おそらく「労働」というものは全くしなかっただろう。


2012/10/31

旧約聖書を読む (19) 詩篇

全四巻。ダビデの詩が主だがそれ以外の作者もいて、「モーセの祈り」というのもある。

詩篇はよく引用される。イエスがよく引用し、十字架について息を引き取るときには第22篇を詠んでいたそうだ。

ざーっと走り読みしたが3時間近くかかった。

私が傑作だと思うのは第42篇である。

神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、
わが魂もあなたを慕いあえぐ。
わが魂はかわいているように神を慕い、
いける神を慕う。
いつ、わたしは行って神のみ顔を
見ることができるだろうか。
人々がひねもすわたしにむかって
「おまえの神はどこにいるのか」と言いつづける間は
わたしの涙は昼も夜もわたしの食物であった。

というか、これくらいしかいいな、と思うものはない。
ちなみにこれはダビデの作ではない。
あとはなんだか、「主よ主よ 」とほめたたえるか、逆に泣きつくようなものばかりだからだ。

詩篇ではところどころ、行の下の方に「セラ」と書いてある部分がある。
前からなんだろうと気になっていたが調べたら休符のようなものだそうだ。
「エデンの東(だと思う)」で、ジェームスディーンが聖書を朗読させられ、「セラ」までわざと読んで「そこは読まなくていい」と怒られるシーンを覚えている。


気になったのは「シオン」という言葉で、これまであまり出てこなかったような気がするのだがエルサレムのことだそうだ。

しかし、紀元前10世紀、日本では縄文時代にこのような詩を書いていたというのは驚異的なことなのではないか?それも王であり軍人であるダビデが。

旧約聖書を読む (18) ヨブ記

ヨブ記は有名で、苦労話をする時などに引き合いにだされたりする。先日、加山雄三が徹子の部屋でヨブ記に触れていた。

私もヨブ記はすでに何度か読んでいる。

ヨブ記というのは、「苦難に耐えて信仰を持ち続けた」あるいは「信仰を失いかけたが悔い改めた」という話だと思っている人が多いのではないだろうか。ヨブ記を読まず、「ヨブ記とはこういう話だよ」と人から聞いたらそういうものだと思ってしまうだろう。

しかし、読んでみるとそんな単純ではなく、簡単に感動できるような話ではない。まず、何の落ち度もないヨブに対し、サタンが苦難を与えることを許可するという神について疑問がわく。

ヨブを慰めるために友人たちがやってきて、七日の間黙っているのだが、とうとうヨブが「キレて」、口を開き、友人たちとヨブの対話が始まる。

だが、何が争点となっているのかがよくわからない。どちらも神を信じており、もっともなことを言っているように見える。エリパズ、ビルダデ、ゾパルという友人とヨブが対話した後に、エリフという若者がヨブとその友人たちに対して怒るのだが、彼が言うこともまた、4人とそれほど根本的に対立するようなことを言っているようには思えない。

そして最後に主が現れてヨブを諭し、ヨブは反省する。主はエリパズに対し、「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである」という。

エリパズ達の何が正しくなかったのかはよくわからないのだが私の解釈するところでは、エリパズ達の示した神観は「神は悪い事をした人を罰する」というもので、それに対してヨブは「(自分のように)悪い事をしていない者が罰せられ、悪事を働く者がのさばる」といっていて、強いてあげればそこが争点である。

エリフについては主が怒らなかったので、間違ったことは言っていないようである。彼がヨブに対して言いたかったことは「自分に罪がないなどと言えるのか」といった事であろうか。

結局ヨブはこの苦難の前よりいっそう豊かになる。

ヨブの発言はサタンが「あなたをのろうでしょう」が言った通りになったようにもとれるが・・・
私は、自分がうまくいかないときなどに、ヨブの「のろい」の言葉を共感して読んでいた。


旧約聖書では、ほとんどの人が「主」のいう事を聞かない。バアルやアシラ像や「高いところ」を拝み、異民族と交わる。列王記などでは、どの王が正しくどの王が間違っていたかを断定しているが、それならその後は正しい道を歩めそうだがおそらくそうはなっていない。

聖書を読んでいると、神の命じることをしなかったものが滅び、神に従ったものが栄えている。安息の地に至りそしてそこに住んでからも、「徹底的に殺しつくさなかった」ということで主が怒ることがよくある。たとえばサムエル記上でサウルについて、「わたしはサウルを王としたことを悔いる。彼がそむいて、わたしに従わず、わたしの言葉を行わなかったからである」と言ったのは、「今、行ってアマレクを撃ち、そのすべての持ち物を滅ぼしつくせ」と言ったときにサウルが羊や牛などを残したことについてである。

神の目的はイスラエルの子孫たちによる世界征服である、と言っても過言ではないだろう。だが、もしただ自分の選んだ民族を地上に増やしたいだけなら、アマレクだろうがペリシテだろうが、火を降らせたり洪水でも地震でもおこして、ソドムとゴモラにしたように滅ぼすことは可能に思える。

それをせずに、何度言っても裏切る人々を遠くから見守るようにしているのはなぜなのか。

神は選んだ人に語るのか。それなら、どういう人を選ぶのか。「正しい」人を選ぶのか。「正しい」人なら神はいらないのではないか。

何が「正しい」のか。神がやれと言った事が正しいのか。人が善悪を判断してはいけないのか。「それなら神はなぜ人間に自由意志をあたえたのか」と言えば、「神は人が自分で判断して行動することを願っている」と言うだろう。でも、それは結局人が善悪を判断することになるではないか?

人が自分が裸であることに気づきエデンの園から追い出されたのは、「善悪を知る木の実」を食べ「われわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった」からである。
それなのに人はその後、神のように善悪をわきまえないことで叱られて殺されたりしているのだ。

旧約聖書を読む (17) エステル記

エステルは美しい女性で、ペルシャ王の気まぐれから発したことで王妃となる。彼女を育てたモルデカイがペルシャの大臣の長たる者にたいし不敬な態度をとったので「ユダヤ人を滅ぼす」という詔が発せられるが、エステルが王にとりなしてその詔を取り消し、さらに、ユダヤ人保護条例のようなものを作らせる。それによってユダヤ人は堂々と敵対する民族を殺しまくる。

ここで、「ユダヤ人」という呼び方に気づいた。

「さて首都スサにひとりのユダヤ人がいた。名をモルデカイといい、キシのひこ、シメイの孫、ヤイルの子で、ベニヤミンびとであった。」と書いてあるから、「イスラエルの民のうちのユダ族」という意味ではない。

エズラ記ですでに「ユダヤ人」という呼び方が登場しているが、歴代志までにはなかったのではないか?(確認してはいない)

多分この呼び方は外国人というか異民族がイスラエルの人々を呼ぶ呼び方である。ダビデ、ソロモンを生んだ部族で人数も多かったようだし、分裂したときも一部族で独立していたから、イスラエル民族の代表とみなされたのだと推測する。





旧約聖書を読む (16) ネヘミヤ記

ユダの地の総督であるネヘミヤによる記録。門と城壁の修理の記録。異民族の妨害とそれにたいする防御。ユダの地に戻ってきた人々の名前。モーセの律法の再確認、など。

旧約聖書を読む (15) エズラ記

ペルシャ王クロスがイスラエルの民に宮を再興することを命じた。
だが、捕囚からエルサレムに戻った人々は、異邦の女をめとる。
それを怒ったのがエズラであった。

短い書である。

ページ数での概算であるが、ここまでで旧約聖書のほぼ半分である。

旧約聖書を読む (14) 歴代志下

これはソロモン以降の、ユダ側の方のみを記録している。列王記とほとんど同じようだが、列王記になかったウジヤのことが書いてある。善き王だったヨシヤがエジプトと戦って死ぬが、エレミヤの哀歌はこれについて書かれているとある。

バビロンに連れ去られるが、70年たってペルシャ王クロスが「主の宮をユダにあるエルサレムに建てることを命じられた」と言うところで終わっている。どういうことだ?続きはエズラ記にあるようだ。

2012/10/30

旧約聖書を読む (13) 歴代志上

今までの復習と整理。メモしておいた系図と比べてみる。
レビ - コハテ - アムラム - モーセ 
が明らかになった(今までには書いてなかったと思う)。

第一章に「エジプトはルデびと、アナムびと、レハブびと、ナフトびと、パテロスびと、カスルびと、カフトルびとを生んだ」という記述がある。

これらは、創世記10章では「ミツライムからルデ族、アナミ族、レハビ族、ナフト族、パテロス族、カスル族、カフトリ族が出た。カフトリ族からペリシテ族が出た」となっている。
ミツライムはハムの子孫である。

ハムはノアの裸を見てのろわれた者である。イスラエルのひとびとを奴隷にして虐げていたエジプトのひとびと、そしてペリシテびとは、ハムの子孫ということなのか?

名前の羅列だけでなく、歴史、特にダビデに関する記録が語られる。これは今まで読んだことのないこともあれば、同じことを書いているところもある。

というわけで走り読みした。

そして、もしかして天地を創造した神とイスラエルの民を率いた神は別のものではないかなどと考えていた。

ダビデが生きたのは紀元前1,000年頃だ。インドにアーリヤ人が進出したり、中国では西周の時代、ギリシアにドーリア人が侵入、などの時代。日本は・・・まだ縄文時代か?要するに読み方も不祥なYHVHは、創造主である神のワンランク下というか、神を社長とするなら部長、イスラエル担当というか、そういう存在だったのではないかと。ギリシアやインドや中国などにはそれぞれ担当がいて、人々はそれらをそれぞれ「神」だと思っていたのではないかと。聖書にも時々、あきらかに人間ではない天使のような人が現れる。そしてそれを見た人は「神を見た」とか「主を見た」などという。おそらく、神というものはある程度の階層を持っている。そして確かに神は唯一なのだが、それをささえる天使を神としてしまうことがあったのではないかと・・・。






旧約聖書を読む (12) 列王紀下


イスラエル民族の衰退の歴史。イスラエル王はほとんど皆偶像崇拝をおこなう。
ユダの王は比較的まともである。読んでいくうちに別人で同じ名前が出てきて、特にイスラエルとユダの両方にヨラムがいたりして、どっちがどっちだっけと混乱するがそんなこともどうでもいいくらいイスラエルもユダも衰退していく。ユダはマナセ王がやってはいけないことをことごとくやり、どうやらこれが決定的となったらしい。そのあとにヨシヤという「ヨシヤのように心をつくし、精神をつくし、力をつくしてモーセのすべての律法にしたがい、主に寄り頼んだ王はヨシヤの先にはなく、またその後にも彼のような者は起こらなかった」と書かれるくらいの王が登場するがもう遅かったようで、バビロンに征服され民は連れ去られる。


エリヤはつむじ風に乗って昇天する。

預言者ヨナとイザヤが登場する。


ごちゃごちゃしたので、マタイによる福音書に載っている系図(ダビデ以降)と、列王記の記述をくらべて見た。

ダビデ、ソロモン、レハベアム、アビヤム、アサ、ヨシャパテ、ヨラム(列王記上22章)

ここまではよいが、列王記だとこの後、

アハジヤ、ヨアシ、アマジヤ、アザリヤ(列王記下15章)

となっている。そして、次がヨタムなのだが、それが「ウジヤの子」となっている。
だが、「アザリヤの子ウジヤが王になった」という記述がない。

ヨタム以降は一致していて、
ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ、マナセ、アモン、ヨシヤ(列王記下22章)

次が「マタイ伝」ではエコニヤとなっているが、
列王記ではエリアキム(エホヤキム)、エリヤキンとなっている。

歴代志との食い違いもあるらしい。

ちなみにアモンは家来に殺されている。王を殺した者たちも殺されているが。


それにしても、どうして皆バアルだのアシラだのを拝んでしまうのだろうか?
どんな魅力があるのだろうか。不思議でならない。


(追記)
「列王記」じゃなくて「列王紀」でした。タイトルを修正。

旧約聖書を読む (11) 列王紀上

ダビデが死んでその子ソロモンが王となる。
宮を建てるなど、栄耀栄華を極めたといったところ。

ただし彼も女癖が悪かった。
なんと、「妻700人、そばめ300人」とある。
何かの間違いじゃないだろうか?

そしてイスラエル民族は「南北分裂」するのであるが、
「イスラエルは皆ヤラベアムの帰ってきたのを聞き、人をつかわして彼を集会に招き、イスラエルの全家の上に王とした。ユダの部族のほかはダビデの家に従う者がなかった。」
とあるので、半分に分かれたのではない。

そしてイスラエルの王はみな偶像崇拝をおこなって主を離れる。
アハブという王が登場する。「白鯨」にでてくるエイハブはここからとったのだろう。
彼は非常に悪い王である。

彼が王となった頃に、エリヤが登場する。
だんだん人間臭くなってきた聖書に現れる久しぶりの大物預言者で、奇蹟をおこなう。
死んだ子供をよみがえらせたり、主の名を呼んで捧げ物の牛に火をつけたりする。


「旧約聖書の王歴代誌」
創元社、ジョン・ロジャーソン著、高橋正男監修

という本を持っている。しばらく前に買って、ほとんど読んでいなかったのだが、
今回は旧約聖書を読むかたわら、参考にしている。
この本は絵や写真などがたくさん載っていておもしろい。
そしてこの本の中で、フラウィウス・ヨセフスが紹介されていた。
西暦37年に生まれたと言うから、イエスが死んだすぐ後に生まれた人だ。
この人が書いた「ユダヤ古代誌」は聖書とセットで、ある意味聖書よりも、非常によく読まれているとのことである。

聖書はたしかに「歴史書」というには信憑性が低いというか客観的でないところがある。
「ユダヤ古代誌」でその辺を補おうというのだろう。
これも読まないとダメか・・・と、ちょっとうんざりした。

(追記)
「列王記」じゃなくて「列王紀」でした。タイトルを修正。

私と聖書

「旧約聖書を読む」シリーズはちょっと休憩。

ここで、私はなぜ聖書を読むのかということを整理してみたい。

つまり、私と聖書にどういう関係があるのか。

アダムとエバとか、大洪水とか、アブラハムとか、イスラエルとか、ヨセフとか、モーセとか、サムソンとかダビデとかソロモンとか・・・

まず、聖書はクリスチャンあるいはユダヤ教徒が読むものだ、という考えの人がいるかもしれない。
だが、小説とか映画とかで聖書の中のエピソードを題材にしたり、聖句を引用したり、イエスを始め聖書の登場人物について言及することは多い。

クリスチャンでなくても、聖書にかいてあることに感動することはある。

多分、クリスチャンであっても、聖書はクリスチャンだけのものだと考えている人はほとんどいないだろう。


私が聖書を読もうというきっかけになったのは多分、太宰治である。

それからキェルケゴールの死に至る病を読んで、非常に感動したことを覚えている。

その頃読んでいたのは新約聖書である。

高校生だった。

同級生達は大学へ進学することを当然として、授業をそっちのけで受験勉強をしていた。

私も、親や兄弟がそうしたように大学へいくのは当然だと思いながら、その意義がどうしてもわからなかった。

浪人して予備校に通い、何とか大学には入学するが、ほとんど行かずに辞めてしまう。


旧約聖書を最初に読んだのは、その浪人して大学生になった頃だ。

私は「伝道」されたのである。


私は当時、少し異常な精神状態だった。

一番の重荷は受験勉強だったかもしれないが、それだけでなく、私は本当に真っ暗闇のなかでどこへ進んでいいのかわからなかった。

学業も、受験勉強にも興味が持てなかった。

太宰治やキェルケゴールやカントを読んだのもこの頃だ。



旧約聖書は伝道されたことをきっかけに読むようになった。

私を伝道した人は、ある新宗教の信者だった。

私は聖書を読んでいたし、伝道される前から神を信じていた。

当時ノートに自分の思うことを書き連ねていたのだが、「私は神を信じているのではなく感じている」と書いたことをよく覚えている。それは本当に実感で、私はなんだかものすごく高揚していると同時に底知れなく悲しいような気分を味わっていた。

その新宗教の「教義」は、世間的には異端と言ってもいいくらいの独特なものであったが、私はそれがごく正当で、当たり前すぎると思うくらいだった。いわゆる「保守的」な思想だった。


私が神を信じているとか聖書を読んでいるとか言うと、彼らは喜ぶと同時に驚いていた。

私は彼らの聖書の解釈を検証するようなつもりで聖書を読み始めた。

信者達は、その新宗教の解釈を信じていて、聖書そのものはあまり重視していなかった。

聖書を読んでいると教義で触れられていないことや、疑問を感じることがあったのだが、「聖書がすべてではない」ということについては私も彼らと同じ考えだった。「神は感じるものである」。


そのときも、私は今と同じように、「私と聖書に何の関係があるのか」ということを考えた。

私は選ばれている、救われた、という意識もあった。それはその新宗教の信者達も同様である。いや、私のように意識があったどころではなく、確信していた。


彼らは聖書を読み解釈するだけでなく、日常生活について、戒律ではないが禁欲的な考えを持っていた。

私は未成年なのに酒やタバコを覚えていたが、彼らと出会ってそれらをやめた。


そして私も自分がされたように伝道をするようになった。半信半疑のままで。

それはとても苦しかった。私は非常に積極的で多くの人に話しかけて信者の人たちからもほめられたのだが、半信半疑なので最後の最後でいつも「信者」を獲得することができなかった。

結局私はその新宗教から離れた。

関わっていたのは1年余りであった。


そのとき、自分で旧約聖書を読んだのは、今回読み終えたサムエル記までだった。


離れた後も私は保守的な考えを持ち続けた。それは信仰ではなかったが、「神を感じている」という感覚、「俺は選ばれているんだ、普通じゃないんだ」という感覚をずっと持ち続けた。


その後聖書は折に触れて読んでいた。あまりいい意味ではなく、「わが避けどころ」であった。


最近は、聖書から遠ざかっていた。仕事のこと、自分の人生のこと、日本のこと、経済とか社会のありかたを考えるようになり、神のことは考えなくなっていた。


今回読んだのも、別になにか啓示のようなものがあったわけでもなく、以前のように「神を感じている」などという意識もあまりなかった。

「そういえば俺は神を信じてたっけ」
と、思い出したような感じだ。


そしてサムエル記まで読んで、伝道された頃の事を思い出し、再び、「俺はなんで聖書を読むのか」「わたしと何のかかわりがあるのですか」という疑問を持った。

そもそも、聖書そのものが形骸化したものだという考えがある。

これは大衆に受け入れられるためにわかりやすく、事実と象徴と神話などを織り交ぜて創られたものではないかということがまずあって、

仮に聖書は本当に神聖なものであって、全部をそのまま神の言葉として受け取るべきであったとしても、それは私には縁のないものだという考えがある。

それは、別に自分の日ごろのおこないがよくないとか、酒飲みだとか、その他ここにも書けないような「不品行」をしているとかいうことではなくて、自分は選ばれていないとかいうことでもなくて、それらもあるが、

やっぱり、自分に対しては神は語られない、ということである。

私が神だと思っているのは神でないかもしれない。

聖書を読んでいても、主が語るのはごく一部の人である。

そしてその神は、ごく一部の限られた人々のための神である。

自分が契約した民以外は滅ぼしつくす恐ろしい神である。



私はアンモンびととかアマレクびととかペリシテびとのような、無割礼の、ことごとく滅ぼしつくされるべき人間なのかもしれない、というか、明らかにそうである。


でも、そんなことを言ったら世界中のほとんどの人がそうだ。


そして、今では聖書は書店に売っていて、誰もが読んで、引用して、「聖書を読むと欧米社会がわかる」などと言ったりしている。


でも、聖書はそんな一般教養のための書では絶対にない。

また、聖書を読むことで生きる喜びや目的が見つかることもない。

どちらかというと「罪」を痛感して、特に旧約聖書を読んでいると自分はいつ神に撃たれてもおかしくないと思う。

私だけでなく、現代人はほとんどそう感じるのではないだろうか。



そうなると、頼りはやはり、イエスである。

イエスは、やっぱりとんでもない不良で、反抗するもので、異端で、律法を破り聖書を否定する存在なのではないのか。

彼も、「旧約聖書(当時は旧約などという言葉はなかったが)」を読んで、暗い気持ちになったのではないだろうか。「こんなものを読んで何になるのか」と。


イスラエルの神は、やっぱりイスラエル民族のための神である。

イスラエル民族が安息を得られるように導く存在である。

そうであれば、やっぱり私には関係がない。



そして、イエスはそんな神を否定したのではないか。

一民族の安息のために異民族を殺戮しまくる神など、異民族にはもちろん、自分にさえ必要がないと。

そして彼はそれを思い知らせるために、聖書に書いてあることを本当に実現したらどういうことになるのかを体現した。

人間には絶対無理なことを、やってみせた。

そうしたら、自分を神であると言わざるをえなくなった。


その結果、死刑になった。

つまり、イスラエルの人々が守り続けた律法、ささげ物などは、それが完璧におこなわれてしまったら意味がなくなるようなものなのである。

その理想は実現しないから意味があったのである。

そんなものは、葬ってしまえ!


というわけで、イエスは自分を十字架につけることで本当に葬ってしまった。


聖書というのは、それを否定することでしか意味を持たない。

無視ではない、否定である。克服すべきものである。

「神はいない」とか、「罪などない」と言ってあざわらうだけでは済まない。


イエスは、否定すべきものを完全に肯定してその自分を否定させることによって、人々に否定させた。

彼が十字架についた意味はそういうものだとしか、今の私には考えられない。


旧約聖書を読む (10) サムエル記下

ダビデがイスラエルの王となる。ペリシテびとを征服し、イスラエルの全地を治めるが、ここがイスラエル民族のピーク、つまりここから衰退が始まる。

衰退することとなったきっかけは、ダビデがヘテびとの妻と寝てはらませその夫を殺したことである。この後内紛(?)が起きる。なんだか暗い話で走り読みした。

そして最後、主が「イスラエルとユダを数えよ」と言ってダビデが数えるのだが、なぜかその後に「罪を犯しました」と言い、主もイスラエルに疫病を下す。何がいけなかったのだろう?

ダビデは祭壇をきずき、災いが止む。


ダビデという人は非常に謙虚で、足なえを大切にしたり心の優しい人でもあったようだが、女癖が悪かったのか。めかけが10人もいた。


私が今回旧約聖書を読んでいる目的のひとつに、イエスの先祖を確認するということがある。
イエスの系図が新約聖書に記されているが、今回初めて気づいたのだが、マタイによる福音書の1章の系図と、ルカによる福音書の3章の系図が、大幅に違うのだ。「旧約聖書の記録と異なる部分がある」程度のことは聞いたことがあったが、そんなものではなく、ダビデ以降が全然違うのである。

調べてみると、「ルカの方の系図にあるヨセフの父ヘリはマリヤの父であり、これはマリヤの系図だ」という説があるようだが、私はこれを受け入れられない。

系図などどうでもいいとはパウロも言っている。
だが創世記から読んでくると血統は非常に重視されているし、イエスがダビデの直系つまりアブラハムの直系であるか否かということは非常に重要なことである。

私は「一方は母方の系図」だという説を信じるくらいなら、「血統などどうでもいいということを、あえて全然違う系図を示すことによってほのめかした」と考える。

今は、イエスはイスラエル民族でなかったかもしれないとすら考えている。

2012/10/29

旧約聖書を読む (9) サムエル記上

サムエルはさばきづかさというより祭司である。
ひとびとが王を求め、サウルがサムエルに油を注がれ王となる。ところがサウルはアマレクびとと戦ったときに、徹底的に殺しつくさなかったことで、サムエルの口を通して主から「王にしたことを悔いる」と言われる。その頃ダビデが登場し、有名なゴリアテとの戦いなどで名をあらわし、「サウルは千を殺しダビデは万を殺した」と歌われるなどして、サウルはダビデに嫉妬し殺そうとする。サウルがダビデを追い回し、ダビデが逃げる。ダビデはサウルを殺せるチャンスがあったのだがそれをせず、とうとうサウルは泣いてダビデに謝る。だがサウルはペリシテ人に攻められ、息子達が殺されたときに自害する。

死んだサムエルがサウルに頼まれて口寄せの女に呼び出される場面がある。
読み落としでなければ、今まで死んだ人間が語ることなどなかった。聖書は主や神の使いが登場し語ったり食事をしたり戦ったりするが、死んだ人間がよみがえったり語ったりすることはほとんどない。というか、私はイエスとこの場面以外に知らない。

また、サムエル記はずいぶん人間的というか、「物語」っぽくなっている。ダビデについても、「血色のよい、目のきれいな、姿の美しい人」などという、人間的なことが書かれている。

アマレクびととかペリシテびととかとの小競り合いがつづいてイライラしてくる・・・。

旧約聖書を読む (8) ルツ記

非常に短い書である。4章しかない。

ルツというのは女性、モアブの女である。
夫に先立たれ、同じように夫に先立たれたしゅうとめと一緒にベツレヘムへ行き、
ボアズという親戚の妻となり、オベデという子を産む。
オベデはダビデの祖父にあたる。

聖書では女は現代から見ると差別としか言えない扱いをされているが、
この書では女しかも外国人が主人公になっていてしかも非常に立派な人だと書いてある。

ルツの夫とその兄弟とその夫の父が死んだため、「死んだ者の名が・・・断絶しないようにするためです」とある。

ボアズはルツをめとると同時にエリメレク(しゅうとの夫にあたる)の「地所をあがなう」。このことを「嗣業を伝える」と言っている。

ただ、ルツはボアズに嫁ぐのだからエリメレクの土地はボアズに引き継がれて残るのはボアズの嗣業であり、ボアズの子孫だから「死んだ者の名」どうこうはあまり意味がないように思うのだが・・・


話は変わるが、ルツが「落穂を拾う」場面がある。私は「落穂拾い」というのは、農家が収穫時にこぼした穂を回収する行為で、ルツは収穫を手伝っていると思ったのだがそうではなく、それは拾った物は自分の物にすることができる、ということなのだった。

ボアズは収穫のさいにわざと落としてルツに拾わせまでする。

落穂のことについてはモーセの律法でも言及されていた。
これが外国では義務のようになっているチップの起源だろうか?


私はチップをあげるのも、もらうのもなんだか嫌なのだが・・・。

旧約聖書を読む (7) 士師記

「士師記」は「ししき」と読む。英語だと Judges 。

約束の地に入ったイスラエル民族は案の定主を離れて偶像崇拝を始める。
ただ主は見捨てることなく、「さばきづかさ」を起こして治めさせる。

さばきづかさというのは、モーセやヨシュアほどの権力というかカリスマ性はなかったようである。

彼らが治めて落ち着き、死ぬとまた偶像に走るということが繰り返される。
そのひとりが有名なサムソンである。

「サムソンとデリラ」という映画がある・・・と思ったら映画ではなくてオペラのようだ。
どっちにしても見ていない。

サムソンは人間離れした力持ちだったが、妻であるデリラはペリシテびとに利用されてサムソンの力の秘密が髪の毛にあることを聞き出し、サムソンは髪を剃られ捕らえられ両目をえぐられる。しかし再び髪の毛が生え始めて、ある日ペリシテびとたちの前で「戯れ事」をさせられることになったときに、その家の中柱を倒して自分とともに3千人程のペリシテびとを殺す。


最後の方で、ベニヤミンびとの住むギベアで彼らが起こしたみだらな事から猟奇的な殺人事件が起こり、それをきっかけに内紛となってベニヤミン族が滅びそうになるがなんとか持ちこたえる。



旧約聖書のヘブライ語と英語の対訳が読めるサイトを見つけた。
http://www.mechon-mamre.org/p/pt/pt0.htm
朗読も聞ける。


例の出エジプトの6:2-3 の箇所を引用する。
ב  וַיְדַבֵּר אֱלֹהִים, אֶל-מֹשֶׁה; וַיֹּאמֶר אֵלָיו, אֲנִי יְהוָה.2 And God spoke unto Moses, and said unto him: 'I am the LORD;
ג  וָאֵרָא, אֶל-אַבְרָהָם אֶל-יִצְחָק וְאֶל-יַעֲקֹב--בְּאֵל שַׁדָּי; וּשְׁמִי יְהוָה, לֹא נוֹדַעְתִּי לָהֶם.3 and I appeared unto Abraham, unto Isaac, and unto Jacob, as God Almighty, but by My name YHWH I made Me not known to them.


יְהוָה が YHWH である。


下記は創世記の冒頭。

אֱלֹהִים が「神」である。

א  בְּרֵאשִׁית, בָּרָא אֱלֹהִים, אֵת הַשָּׁמַיִם, וְאֵת הָאָרֶץ.1 In the beginning God created the
heaven and the earth.








2012/10/28

旧約聖書を読む (6) ヨシュア記

ヨシュアと言えば、U2の Joshua Tree である。

私が初めて聖書を読んだ頃に大ヒットしていたアルバムだ。
Joshua Treeは植物の名前であることはわかったが、どうしてJoshuaの名がついているのかはわからない。また、U2の曲も歌詞をちゃんと知らない。

モーセの死後、ヨシュアがイスラエル民族を率いてヨルダン川を渡り、約束の地で異民族を撃破して約束の地を得る。

十二部族で土地をわけるのだが、その領土が言葉で説明されているが地名を知らないからさっぱり意味がわからない。インターネットで、"12 tribes"でイメージ検索するとたくさん地図が出てきた。

ついでにこの「約束の地」がどういう場所か、googleマップとか地図帳とかで見てみた。

ナイル川の流域および河口付近が緑色になっていて、その西のシナイ半島はほとんど茶色くて町もなにもない。ここが荒野と呼ばれる地域だろうか。シナイ半島の南端近くにシナイ山がある。

そしてその東に今のイスラエルがある場所があり、ここも緑色である。その東に南北に流れるヨルダン川があり、塩の海(死海)に注いでいる。ヨルダン川の東側が今のヨルダンであるがここも大部分は「荒野」のようだ。イスラエル民族はシナイ半島の南の方を通って、死海を東側から周ってヨルダン川を渡って「約束の地」に入った。その入ったところにあるのが、エリコという町である。

この町を攻め落とすときにイスラエル軍は町の周囲を1周することを六日繰り返し、七日目には7周した後にラッパを鳴らして叫んだら、石垣がくずれ落ち、町を攻め落とした。

Joshua Fit The Battle Of Jericho」という黒人霊歌に walls come tumblin' down という歌詞がある。

ヨシュアが110歳で死んだところで、ヨシュア記は終わる。

旧約聖書を読む (5) 申命記

モーセが120歳で死ぬ。

その前に、今までのことと、律法を語る。民法のようなものだ。
やや「人間的」に、穏健になったように感じる。

「パンのみにて生きるにあらず」という、もはや陳腐とさえ感じる言葉はイエスのものとされているが、原典は申命記8章ではないだろうか?(私の見落としでなければ)
8:3
それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。
ただ、この「マナ」は確かに天から降ってきたものであるがパンのようなおいしい食物である。単なるパンの代用品としか思えない。このことから、「人は食うだけのために生きているのではない」というような「高尚な」思想は出てこない。「やっぱり人は食べないと生きていけない悲しい生き物だ」となってしまわないか。それともこの「マナ」に関するエピソードは象徴であって文字通りに解釈してはいけないところなのか?


その他にも、「新約」っぽい言葉が見られる。
「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」
とか(今までにもあったかもしれないが)

エジプトを出て戦いもひと段落して落ち着いたのだろうか。


申命記を読みながら、私は「神は人間の作り出したものだ」説を吟味していた。

仮に、「神」が、それをエホバと呼ぶのかヤハウェなのかヤーヴェなのか知らないが、それが仮に、モーセの発明だったとしよう。一体何の為だろうか?なぜ血を食べることをそんなに禁じたのか?健康に悪かったからか?血をたべて病んだものがいて、厳禁としたのか?なぜ割礼をするのか?それも健康のためか?でも、「心の割礼」とまで言っている。わたしはこれについては自分なりに痛感できる解釈があるのだがここでは伏せよう。また、主の律法には、努力とか根拠とかいう考えがない。「がんばった人には報いる」ということがないのはもちろん、「功績をあげた人には報いる」という考えすらない。やるべきことをやらなかったら死ぬ、禁じられたことをやったら死ぬ、ということはある。

モーセが一民族あるいは部族を支配し教育していくために「神を造り」、本当は存在しない神を祭る祭壇を作り、それにささげ物をさせ、箱を作ってそこに律法を刻んだ石をいれて運ばせることの目的が見えない。あるいはモーセは狂人で、今で言う「統合失調症」か何かで、妄想を抱いていたというのだろうか。あるいは、後世の人がモーセと彼が率いる人々の快進撃について、「こういうことだとしたらおもしろいな」と、事実を脚色したのだろうか?


それでは、「神」は統治のためのものだろうか?人心を支配するための重しのようなものだろうか?神に逆らうと死ぬ、俺は神の代弁者だから俺にしたがわないと死ぬ、ということであろうか?牛や羊を捧げさせ、その血を抜き脂肪をや腎臓などを取り除くのは、モーセの嗜好によるものだったのだろうか?彼はイスラエルの民が貢ぐ牛肉や羊肉をこっそりおいしいおいしいと言って食べていたのだろうか?無神論者とはそういう想像をする人々である。


そして、イエスについても考えた。イエスは結局神を僭称するものとして死刑になった。それは確信犯だったのか。私はイエスは律法の形式主義を批判したために殺されたという、ごく穏当な見方をしていたが、もしかして彼は本当に単なる律法に違反して自分を神とした不届き物だったのではないだろうか。そして、これまた後世の誰かが「その不届き物を救世主ということにしたらおもしろい」と考えた創作物であると仮定してみたりもした。

でもやはり、そんな創作をする目的がわからないし、そんな創作物に2000年間も人々がだまされ続けるとも思えない。創作物だから本気にせず遊びで祈ったり懺悔したりしていたとも考えられない。

そんな考えを認めるくらいなら、「神は宇宙人だった」という説のほうがまだ信じられる。

私は宇宙人は存在しないと考えている。宇宙は人間、地球上に存在するわれわれ人類のために存在し、地球は人間のために存在している。だから、地球以外に人間(のようなもの)が存在する場所はない。そんなものを存在させる理由もない、と。


ボブ・ディランが、誰かに「聖書のどの書が好きですか」と聞かれて「レビ記と申命記」と答えた、というのをどこかで読んだことがある。Jokermanの歌詞にもそういうところがあって、私はそれを皮肉だと思っていたのだが、今回読み直してみて、レビ記と申命記は皮肉ではなく聖書の核心と言ってもよいし、おもしろいところでもあると感じた。


旧約聖書を読む (4) 民数記

モーセの率いるイスラエルの人々のうち、二十歳以上の男子の数が約60万人であった。

今回初めて、その多さを意識した。

成人男子だけで60万人であるから、その他を含めたら100万人を超えるか?
100万人というと仙台市くらいである。

仙台市民くらいの人々がエジプトからヨルダン川まで移動したのである。
現在のエジプトからエルサレムまでの距離は400kmくらいか。

少なくとも40年かかっている。

移動したのは人間だけではない。牛、羊、やぎなどもつれている。

2012/10/27

旧約聖書を読む (3) レビ記


Well, the Book of Leviticus and Deuteronomy
The law of the jungle and the sea are your only teachers 
Bob Dylan "Jokerman"

レビ記は、法律の条文みたいなものである。
ささげもののささげ方、食べてよいもの悪いもの、汚れたものとそうでないものの区別などが書いてある。ここでもやはり同じようなことが繰り返されていると思うと微妙に違っていたりする。
レビ記は「聖句」として引用されることもまずなく、とても退屈なようだが、そうでもない。以前読んだときにもレビ記はおもしろく読んだ記憶がある。



ささげ物については、燔祭、火祭、素祭、酬恩祭、揺祭、挙祭、愆祭など種類がありその手順が書かれている。これらが何であるかはその名前や前後の内容からだいた想像がつくが、英語でどういうのかを確認してみた。

英語の聖書は、iPadでYouVersionのBible Appを使った。このアプリは素晴らしくて、各国語のさまざまなバージョンの聖書が読める。今回参照したのはKing James Versionである。

燔祭 burnt offering
火祭 an offering made by fire
素祭 meat offering
酬恩祭 peace offering
揺祭 wave offering
挙祭 heave offering
愆祭 trespass offering
罪祭 sin offering

羊などのささげもののしかたは、それをほふり、血を塗り、脂肪と内臓(どこかも指定されている)を取ってそれは焼く。
何度も強調されるのは、「血を抜く」ということである。
血については、食べてよいものを記したところでも「食べてはいけない」と強く禁じられている。
その理由として、「肉の命は血にあるからである」「血は命であるゆえに、あがなうことができるからである」「すべて肉の命はその血と一つだからである」とされている(17章)。

「畑のすみずみまで刈りつくすな」「刈り入れの落穂を拾うな」というところで、その理由が「貧しいものと寄留者とのために残しておけ」というところなども印象に残った。

子供の頃、「エンガチョ」というのがあった。犬の糞を踏んだとか、おしっこが手についたと人は「汚れたもの」とされ、指である形をつくるとその「汚れ」から身を守ることができるが、それをしていない人は汚れた人に触れるとその人も汚れてしまう、という「風習」である(そんなおおげさなものとは考えていなかったが)。

レビ記に書いてあるのも、それと似たようなものである。

「ささげ物」について、現代にもあると思ったのは、「始末書」である。始末書などというものは全く形式的なもので、ほとんど宗教的な儀式だ。不祥事を起こして謹慎するとか、減俸になるとか。

もっと言うと、トイレに行った後に「手を洗う」ということさえ、「儀式」にすぎないのではないだろうか。「パソコンのキーボードは便座と同じくらい汚い」というのが話題になったことがあるが、それはキーボードが思っている以上に汚いのではなく、トイレがそれほど汚くないとも言える。ただ水道の水でジャーっと流してタオルで拭く程度では、別にたいしてきれいになどはならない。


なぜささげ物のようなことが必要なのか。そしてその方法が細かく規定されているのか。
神(主)と何の関係があるのか。あらためて疑問に思ったが、それは言うまでもないことかもしれないが「罪」のためである。イスラエルの人々が主を、主でなければ小牛の偶像でも作って拝もうとするのは、否定しようのない「罪」の意識があるからである。「罪」については、もはや説明すらされない。それは、アダムとエバが「裸であることを恥ずかしい」と思ったように、否定するまでもなく、ありありと感じているものなのである。

誰が言ったというわけでもないが、レビ記にかかれているような戒律、何が汚れているとか、食べてはよいものと悪いものの区別とかについて、「科学が未発達だった時代に人々が経験などから戒律としてまとめた」と考える人がいる。「神」とか「宗教」そのものがそうだという人もいる。多分たくさん、特に日本人には、いるだろう。私はそうだとは思わない。通常の状態があり、何かをすると汚れたり悪くなったりするのではない。通常の状態がすでに汚れて悪く、そこから正常な状態にもどろうという考え方というか意識である。

ちなみにJBS(日本聖書協会)の聖書では「神」という言葉はあまり使われない。基本的に「主」である。「みだりに神の名を唱えるな」ということからそうしているのだろうか?ちなみに私はエホバの証人の聖書も持っているが、そこでは「主」はほぼ全部「エホバ」となっている。エホバの証人の人と話したことがあるが、彼らは神には固有の、アブラハムとかモーセとかと同じように名前があり、それが「エホバ」だと考えており、だからその名をきちんと呼ぼう、ということだそうである。

(追記)
ある本を読んで知ったのだが、「エホバ(YHWH)」という名はモーセに対して初めて明かされたそうだ。「ヤハウェ」などとも呼ばれる。
出エジプト記3章と6章にそのことが書いてある。

JBS聖書

3:13-14
モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですが』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。

6:2-3
神はモーセに言われた、「わたしは主である。わたしはアブラハム、イサク、ヤコブには全能の神として現れたが、主という名では、自分を彼らに知らせなかった。


新世界訳(エホバの証人)聖書

3:13-14
それでもモーセは[まことの]神に言った、「わたしが今イスラエルの子らのもとに行って、『あなた方の父祖の神がわたしをあなた方のもとに遣わした』と言うとしても、『その方の名は何というのか』と彼らが言うとすれば、わたしはこれに何と言えばよいでしょうか」。すると神はモーセに言われた、「わたしは自分がなるところのものとなる」。そしてさらに言われた、「あなたはイスラエルの子らにこう言うように。『わたしはなるという方がわたしをあなた方のもとに遣わされた』」。

6:2-3
そして神はモーセにさらに話してこう言われた。「わたしはエホバである。そしてわたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに対し常に全能の神として現れたが、わたしの名エホバに関しては自分を知らせなかった。

ここはエホバの証人聖書でないと意味がわからない箇所である。

私はエホバの証人の変わった信仰に興味を持っている。それは、輸血の拒否、誕生日を祝わない、乾杯をしない、人は本来不死であった、霊界は存在しない、などというものである。「興味を持っている」というのは、肯定的な意味である。つまり、彼らの言い分はもっともだ、と思っている。

旧約聖書を読む (2) 出エジプト記

Exodusである。

イスラエル民族が、ヘブルびとが、エジプトで過酷な労働を強いられ、モーセが彼らを率いてエジプトから逃げ出す。
どこへ?「カナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所、乳と蜜の流れる地」である。
モーセは、「神が『わたしの民を去らせなさい、さもなくば・・・』と仰せられる」と、エジプトのパロに言った。
パロはなかなか聞き入れず、杖を蛇に変える、川の水を血に変える、疫病、イナゴの大群、暗闇などの「奇跡」を次々に見せられ、最終的には聞き入れる。
ただし、このときパロを「かたくなに」させていたのも主だったのである。
決定打は、「ういご殺し」だった。イスラエルの民とエジプトの民を区別するために、ほふった子羊の血を入り口の柱に塗らせた。
しかしパロはすぐに考えを変えて、イスラエルの民を追いかける。
そしてあの有名な紅海が割れるシーンである。(14章)
これは「強い東風によって海を退かせ」ている。
エジプトの民は海に飲み込まれる。

イスラエルの民はシナイの荒野に宿営する。
そしてモーセはシナイ山に登る。
そこで神がモーセに「おきて」を示す。いわゆる「十誡」である。
だが、その後細かいおきて、いわば「細則」が延々と語られる。

聖所、幕屋、祭壇の作り方、ささげ物(罪祭、火祭、灌祭など)に関するきまりで、なんだかさっき聞いたようなことだなと思うと微妙に違っていたりする。
やっと終わって、モーセが山を降りると、民は小牛の偶像を作ってそれを拝んでいた。
主が怒る。モーセはそれをなだめてなんとかおさまる。
が、モーセが怒ってその偶像を壊し、せっかく授かった板も割って、民同士で殺し合いまでさせる。
モーセは再度山に登り板をさずかる。また細則が延々と語られる。
とうとう幕屋が完成する。
ここまでで「出エジプト記」は終わり。


なにを持ってこいとか、血をどうしろとか、腎臓や脂肪はとりのぞけとか、色とりどりの糸がどうしたとか、うんざりするほど細かいことが延々と語られる。私はそれをいちおう読みながら、「いったいこれは何なのだろう」と考えていた。
どうしてこんなことが必要だったのだろう?こんなことは禁じている偶像と同じことではないのか?
なんのためにこんなことが必要だったのか?
「こんなことは意味のないことだ、くだらない」と言ってしまえばそれまでだが、いまだにそれが聖書として読み継がれているのだ(誰が出エジプト記を読んでいるか知らないが)。
箱舟のサイズ指定どころの話ではない。完全に圧倒されてしまった。
出エジプト記など二度と読みたくない、という気になる。

このようないけにえとか細かい戒律は、イエスが来たことによって(そして死んだことによって)われわれは「卒業」したことになっている。

でも、イエスは、パウロは、「モーセは間違っていた。彼のしたことは過ちである」とは言っていない。

確かパウロは「養育係」と言っていた。

それにしても、どういうことなのか、どういう意義が、意味があったのかがさっぱりわからない。

もっとも私はイエスが十字架について2000年程たってこの世に生まれた人間である。

すでに人類は救済されているらしいのだから、わからなくて当然かもしれない・・・





2012/10/26

旧約聖書を読む (1) 創世記

まず創世記を読んだ。

創世記は何回か、けっこう熟読して読んでいる。
ただしいつもそうなのだが、どうしても系図を書かずにはいられず、時間がかかる。
5時間半くらいかかった。

だが、創世記は読み物としてとてもおもしろい。
いろいろな小説や映画などの題材となったエピソードもたくさん出てくる。

天地創造(1章)
私がもっとも印象に残っているのは車田正美の「リングにかけろ」で、この部分を朗読しながらジーザス・クライストという名の世界チャンピオンに剣崎がメッタ打ちにされるシーンだ。

失楽園(2章)
これはあまりに有名であるが、もっとも身近なところでは郷ひろみ&樹木希林の「林檎殺人事件」がある。「アダムとイブが林檎を食べてから・・・・」というフレーズがあるが、アダムとエバ(日本聖書協会の1955年版ではこう表記される)が食べたのは「善悪を知る木の実」である。

このことにより、「裸が恥ずかしくなり」、「蛇が腹で這い歩くようになり(ということは足があったのか)」、「女の産みの苦しみが増し」、「(男は)額に汗してパンを食べる」ようになった。

カインとアベル(3章)
なぜカインがアベルを殺すほど憎んだのかはいまひとつよくわからない。「弟の番人でしょうか」というセリフはたしか、映画「エデンの東」でジェームスディーンが言っていた。

ノアの箱舟(6章~)
箱舟(と思われる痕跡)が見つかった、ということは過去に何度かあったようだ。何かの象徴のようにも思える話であるがリアリティを感じさせるのは箱舟のサイズまで指定されているところである。「箱舟の長さは300キュビト、幅は50キュビト、高さは30キュビトとし、箱舟に屋根を造り、上へ1キュビトにそれを仕上げ、・・・」。とりあえず30mm, 5mm, 3mmの直方体を描いてみるととても細長くて「船」という感じではない。「キュビト」を調べると50センチ前後ということで、換算してみると全長150メートル、幅25メートル、高さ15メートルくらいということになる。
このときにノアの家族以外の人類が滅び去ったとすると、「カインの末裔」は存在しないことになる。

バベルの塔(11章)
人が天に到達するような塔を建てようとしたのを見て、「主」が言葉を乱した。人間の言葉が多様なのは、それぞれ独自の発展をしたためだからではなく、通じないように乱されたのである。外国語の学習が困難なのも無理はない。

イシマエル(16章)
メルヴィルの「白鯨」の主人公というか語り手の名前がイシマエルである。私が読んだ翻訳では確か「イシュメイル」となっていた。

ソドムとゴモラ(18章)
この地でどんなことがおこなわれていたかという記述はほとんどないが、「み使い」がソドムを訪れたときに町の人々が「彼らを出しなさい」とロトに言い、ロトが「まだ男を知らない娘を差し出すから」というところで、なんとなく想像がつく。

イサク献祭(22章)
アブラハムの息子イサクを供え物として捧げよという神の試み」にアブラハムは従う。イサクを殺そうとしたその瞬間に神にとめられ、彼は祝福される。

「ジェイコブズ・ラダー」(28章)
「ジェイコブ」というのは「ヤコブ」のことである。「時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は点に達し、神の使いたちがそれを上り下りしているのを見た。」とある。私はこの映画は見ていない。

イスラエル(32章)
イスラエルというのはヤコブの後の名前である。彼が旅路で神のみ使い(?)と「夜明けまで組打ち」してヤコブに勝てなかったということがあり、そのみ使いに「イスラエル」と名のるように言われる。「神と戦う」という意味である。ただ、戦うといっても戦争とか殺すとかいうことではなく、「組打ち」である。

「ヨセフとその兄弟」(37章~)
トーマスマンの小説。これも読んでいないが、ヨセフのエピソードは波乱万丈かつ感動的である。ヨセフが死んだところで創世記が終わる。ただし、いかにもヨセフが主流の人物のように見えるが、イエス・キリストに連なるのはヨセフではなく、ユダの血統である。

オナニー(38章)
オナンという人がいた。兄が死に、子を残すために兄の妻と寝るのだが自分の子にならないという理由で「地に漏らし」、それにより「主」に殺される。これが「オナニー」の語源だそうだ。


・・・という感じでおもしろく読めるのが創世記だが、不可解なところもたくさんある。

たとえば「長男の不遇」である。カインの供え物が顧みられないのを始めとして、双子のエサウとヤコブでヤコブがほとんど詐欺みたいなやり方で長子権や父からの祝福を奪うところ、双子のペレヅとゼラで弟のペレヅが先に出てくるところ、ヤコブ(イスラエル)の12人の息子達で末っ子のヨセフが愛され祝福されるところなど。


エジプト人がまるで異民族のように書かれているが、彼らも大洪水を経たあと再スタートしたノアの家族の子孫のはずだ。やはり「のろわれよ」と言われたハムの子孫なのだろうか?
そもそも「カナンはのろわれよ」という理由もよくわからないが。ハムの子孫にはペリシテびとがいる。カナンびとは滅ぼされるソドムとゴモラに住んでいた。





旧約聖書を読む (0)

旧約聖書。

私が持っているのは日本聖書協会の1955年改訳版である。
1989年発行のもののようだ。


旧約聖書は折にふれてペラペラ読むのではなく集中的に読んだことが今までに3回くらいあるのだが、その時にとったメモを見ると列王記下で終わっている。

ヨブ、詩篇、箴言、伝道の書、イザヤ、エレミヤなどは有名なので先に読んだ。
あとの短いところが読んだか読んでないかあいまいである。

「聖書は全部読んだ」とは言えない。
「だいたい読んだ」というのと、「全部読んだ」というのでは大きく違う。

「全部通して読んだ」
と言いたい。

なので、読む。
「はじめに神は天と地とを創造された。」から始まって、
「彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである。」まで。


1行25文字、1ページ二段組で、1段24行だから、1ページ1200文字として、
全部で159万1200字、原稿用紙3978枚相当だ。
魔の山の1.5倍くらいある。

魔の山は丸四日くらいだったので、1週間だな。

魔の山 (完)

読み終わった。

7章では、ペーペルコルンという男が登場する。
彼はショーシャとともにベルクホーフに現れる。

ハンスは彼が立派な人物であるというのだが、何が立派なのかよくわからない。
そして彼は自殺し、ショーシャは再び去る。

この後は少し緊張感が失われているように感じる。

ヨーアヒムが死に、ショーシャも去った。

あとはセテムブリーニとナフタの論争くらいしか語るべきものはない・・・・
と思ったら、この二人の論争は決闘にまで発展してしまい、
セテムブリーニは虚空を撃ち、ナフタは自分の頭を撃ち抜く。

ナフタとセテムブリーニの論争は、よくわからないところもあったが一番興奮した場面だった。

終盤はなんだかどたばたして、音楽についての章やオカルト的な章などは、
無理やり突っ込んだ観がある。
三島由紀夫の豊穣の海の第四巻のような、「マンガみたい」な感じだ。

この作品は第一次大戦の勃発によって執筆が中断し、戦後完成させたものだそうだ。
そのせいもあるだろう。
前半の緊張感、抑制された雰囲気がだんだんなくなっていくのが少し興ざめした。

トーマス・マンは、ハンス・カストルプのような、悪い人間ではないが八方美人なお坊ちゃんなのではないかと思う。でも、誠実で、いい奴だ。

そしてこの小説を「教養小説」などと呼ぶことはやっぱりできない。
岩波文庫の解説にも、「アイロニーをもってその形式を踏襲した」などと書いてあった。

文学、政治、宗教、医学、生物学、数学、音楽、体育、オカルト・・・
たいした教養である・・・。

登山のような読書体験であった。

2012/10/25

魔の山 (6)

6章まで読んだ。

6章は半分に切った下巻の前半である。

6章の最後で、ヨーアヒムが死ぬ。
彼が死ぬことは5章の最後から、ちょくちょくほのめかされていた。

6章ではナフタという人物が登場し、セテムブリーニと論戦を繰り広げる。

ヨーアヒムはいったん退院していてほとんど出番がない。

本を読んで泣いたのは、小学生のとき以来である。

2012/10/24

サミュエル・ハンチントン 「文明の衝突と21世紀の日本」

「文明の衝突と21世紀の日本」
集英社新書

サミュエル・ハンチントン、鈴木主税訳


魔の山で使った読書法で、小説以外にもつかえるかなと思い、しばらく前に古本屋で買って読まずにいたこの本を読んだ。
「ハンチントン」という変わった名前と「文明の衝突」というわかりやすい言葉に興味を持って、「後でちょっと読んでみよう」と思いメモした記憶があるが、それから10年以上が過ぎていた。
ただしこの本は「文明の衝突」と、講演などからのいわばダイジェスト版である。
「魔の山」にくらべればこの本を読むのはハイキングのようなものだ。



この本では、「文明」という、歴史の教科書で最初の方にしか出てこない概念が国家間の対立や協調で重要になっているということを主張している。
それは、イデオロギーの対立であった冷戦の終結によって現れた現象であるという。
私は「国」というものを考えるときに、「政治体制」と「民族」くらいしか考えない。
日本は民主主義の単一民族、アメリカは民主主義の多民族、中国は共産主義の多民族、とか。
「宗教」というものは、社会に影響をあたえてはいるだろうがそれほど決定的ではないと考えていた。
ハンチントンは、「文明」というくくりをもってきた。「文明」というのは文化でも宗教でもないが、それらを含む。
私は共産主義はまだ死んでいないと思うのだが、ハンチントンはもう滅んだとみなしている。



彼の言う文明とは、「西欧、東方正教会、中華、日本、イスラム、ヒンドゥー、ラテンアメリカ」である。

意外というか新鮮だと感じたのは、「東方正教会」というくくりと、「日本」というくくりである。
東方正教会に含まれる主な国はロシアとギリシア(?)である。日本人からすると同じ「キリスト教」にくくられるように思うが、ルネサンスや宗教改革などの影響がない点で大きく違うそうだ。「プロテスタントとカトリック」というくくりでもない。それが、「宗教」「民族」というくくりでなく、「文明」というくくりの新しさである。

「日本」を、独自の文明としている。「儒教文明」「仏教文明」「東アジア」などのいずれのくくりでもなく、「日本文明」という独自の文明で、日本は孤立した国であるというのである。「ガラパゴス」のような揶揄された区別ではなく、むしろひとつの独立した文明として敬意をもって見られている。

西欧文明の中核国はもちろんアメリカである。「アメリカが冷戦後世界を一極支配している」という見方は誤りであると言う。アメリカは超大国ではあるが世界を支配などしておらず、他国からは脅威とともに敵意を持たれている。

ハンチントンが強調したもうひとつの点は、イスラムの復活である。イスラムが好戦的なのは人口爆発により若者の比率が高くなっていることが理由のひとつであるという。

日本はこれまで、日英同盟、三国軍事同盟、日米安保と、つねに当時の強大国に追随(bandwagoning)してきており、中国がさらに力を増せば中国に追従することも考えられるという。


「日本文明」か・・・。

そんなたいそうなものだろうか、日本とは。
日本文明は極めて排他的で宗教やイデオロギーをともなわないため、他の社会に伝達するものもなくしたがって交流も持つことができず孤立しているのだという。

それはいいとか悪いとかではなく、そのような特殊な文明であるとして、ハンチントンは認めているようだ。
私は日本という国に対する誇りはほとんどなく、その独自性はすべて欠点だとみなしてしまうところがあるのだが、本書を読んでもしかして日本は歴史上まれにみる高度な文明をもった国なのかという気にさせられた。


でも、この文明の分類の中でも、「国」として見ても、もっとも進歩し成熟し理想的な社会を築いているのはアメリカと日本だといってもいいのではないだろうか?

「宗教もイデオロギーもない」という、日本文明のとっている立場が、もしかして人間の目指すべき姿なのではないか?と考えたくもなる。

私は日本ではなくアメリカが人類の理想だと思っている。
そして、二つの国には共通点がある。

それは、「神の国」であるということである

これは非常に危険な発言である。大統領や総理大臣が発言したら辞任するか戦争になりかねない。

でも、私はかなり前から、本気でそう思っている。
「神」という概念は古今東西、人々が持っている。その解釈の違いが宗派や文化や文明を生んで対立の火種にもなった。

私は、「神」という概念を肯定している。それは迷信でも民衆支配の道具でもなく、あきらかに存在しており、人はそれなしに生きていけない。多種多様な宗教と宗派における、「神」の解釈の違いというのは、受け入れるべき多様性ではなく、この神が正しくあの神が間違っているということでもなく、この神もあの神も尊いということでもなく、神は唯一であり、神の認識の正しさ、そして神に対する態度のとり方がもっとも適切なのが、アメリカと日本である、と考えているのだ。

日本には、「天皇」という存在がある。これはかつては「神」であったし、今でもほとんど「神」に近いのだが、建前はそうでなくなった。そしてそのことによって、日本はアメリカと同盟した。これは、実質上同じ神を共有したのである。一般的にはそこまでは認められていない。アメリカ人はキリスト教を信仰しており、聖書を読み、イエスを神あるいは神の子と信じている。日本人は聖書を読まない。イエスは一人の人間であると考え、その実在を疑う人さえいる。

だが、「神」という概念はイスラム教とキリスト教で違うのはもちろん、同じ宗派でも、同じ教会で並んで祈っている人でさえ異なるだろう。日本人は仏教徒だとか無宗教だとか多神教だとかいうが、その生活態度はある絶対的な善を信仰しているとしか思えないものがある。


本書を読んで、その考えを新たにした。
まあ、極論というか、妄想みたいなものである。
もちろん公に発言できることではない・・・。

2012/10/23

魔の山 (5)

五章まで、つまり上巻を、つまり、半分まで読み終わった。

五章は長く、ちょっと退屈しかけたが、最後の「ワルプルギスの夜」は圧巻だった。

ここが名場面であることは、前回読んだときにどこかで読んでいて、
楽しみにしていたのだが結局そこまでたどり着けなかった。

それまであいさつをするだけで有頂天になっていたくらいだったショーシャに、
愛の告白をしてしまう場面である。
その日はカーニヴァルで、ハンスは酒も飲んでいて、セテムブリーニを「君」呼ばわりし、
気が大きくなっていた。
さらに、彼女とやっと会話ができたと思ったら彼女は明日には去ることを告げられて、
大変な口説き文句を、フランス語でやってのける。


ただ、私が読んだ岩波文庫の翻訳では、フランス語の部分がカタカナになっていて、
それまでは徹底的に感情が抑制されていたのに、なんだか安っぽいといってもいい、
ロマンチックなやり取りになって、読んでいてちょっと恥ずかしくなり、
最後のセリフでは思わず笑ってしまった。

カタカナなのがなんだか滑稽で「キモい」感じになってしまっている。

ここを含めて、あちこち、原文はどうなっているのだろう?と思うところがある。
全部ドイツ語で読むのは無理だが、一応原文を入手しておきたいな・・・。


今ちょっと検索したらショーシャが戻ってくることを知ってしまった。
なかなかやるな、トーマス・マン・・・。

魔の山 (4)

四章まで読み終わった。

ハンスが病気であることが発覚するところまでである。

岩波文庫は上下の2冊に分かれているのだが、なかなか読めないので、
私は上下巻をそれぞれ半分ずつに分けた。カッターで切った。
上巻の半分は四章までである。

残り半分が五章だ。五章だけ他の章に比べて長い。



後で編集付記というものがあるのに気づいたのだが、
それによると岩波文庫はもともと4分冊だったのを、1988年に2分冊にしたそうだ。


というわけで、全体の約四分の一を読んだことになる。
内容的にも、「起承転結」の起の部分というところだろうか。


なかなかおもしろい。
おもしろいというのは、ファニーという意味である。
何度か笑った。セテムブリーニとか、ベーレンスの皮肉っぽい言い回しなどで。

主人公のハンスと従兄のヨーアヒムは、「かわいい」と言っていいくらいの無邪気な青年である。
翻訳の文体のせいもあるかもしれないが。

しかし、彼らを取り巻く人々の描写は冷酷というか、差別的とも言える。
まるで珍獣の展覧会のようである。


そのなかにマダム・ショーシャという女性がいて、ハンスが彼女に興味を持っていることが描かれる。ただそれは若い男子が女性を恋するというような単純なものではない。

まず、彼が少年の頃に興味をもった男子についてのエピソードが語られる。
そして、マダム・ショーシャはその男子に似ているのである。

「ベニスに死す」を読んでいるし、トーマス・マンがどういう人だったかというのも多少知っているから、この辺のくだりを読んだときには、ハハーン、そういうことか、と思ってしまう。

ただし、別に同性愛とかなんとかではなく、少年の頃に同性の友人を尊敬とか親しみ以上のあこがれのようなまなざしで見ることは私にも経験があり、それを同性愛だと言うのはちょっと違うと思う。


それから、この作品は「教養小説」というジャンルに分類されるらしい。
教養小説というのは、主人公の内面的な成長を描くというようなものらしい。

四章まででは、クロコフスキーの講演とセテムブリーニの文学、音楽、政治などについての話をハンスが聴くところが教養小説といわれるところなのだろう。

だが、私は少なくとも「魔の山」は、「ハンスの内面的成長を描く」などというものではないと思う。
私が本作をなんとしても読みきろうと思っているのは、「これは教養小説などではない」と言いたいが為であると言ってもよい。


小説の主人公というのは、平凡で無性格なのが好ましい。
また、何か強烈な目的意識や主義主張を持っていないほうがよい。

夏目漱石の小説の主人公も仕事もせず遺産で暮らしているような男ばかりである。

そのことを批判する意見も見るが、それは間違っている。


そもそも、しっかりとした目的意識があり、実務に専念できるような人間に文学など必要ないのである。
「いい大人になってもすることがない人間が作家になる」というようなことを、誰かは忘れたが有名な作家が言ったという。


セテムブリーニとかクロコフスキーのような登場人物が作中で演説のようなことをする。
ドストエフスキーの作品でも、作中で一個の論文を読み上げるようなセリフが出てくる。

こういうものは作者の主張そのものではない。

もし作者が主張したいことがあるなら、わざわざ作中人物に語らせずに、本人の名で直接語ればいいのである。
その前に、小説を書くことすら必要ない。


基本的に小説の題材になることは、批判の対象である。
もしそれが作者の理想であったり、目指すものであったりするなら、
それは小説という架空の世界でなく、実際に自分が行動して実現すべきなのである。


ただ、小説とは、文学とは、批判が目的なのでもない。
「人間はかくあるべし」という模範を示すものでもない。
だから、「教養小説」などというものは、私は認めない。

「魔の山」はおもしろい。
ファニーと言ったが、その要素もあるが、インタレスティングでもある。

芸術には、オチなどというものはない。
あったとしても、それはごく表面的な形式上のものにすぎない。


夏目漱石の「こころ」は、「過去の三角関係を苦にして自殺した男の話」だというのは、
ある意味正しいがほとんど無意味なことだ。
「人間も動物である」というようなものだ。

「魔の山」も、「ハンスの成長を描いた物語」などというものではない。




2012/10/22

小説が読めない

朝9時半ごろから20時ごろまで、昼と夕方の食事の時間以外はほぼずっと読んでいたが、
186ページしか読めなかった。

辞書を引いたりメモをしたり引用したりしたので普段より時間はかかっているが、
10時間くらいかけて186ページは遅いな・・・。

1時間に18ページ、1ページに3分以上かけていることになる。

最近本が読めないなと感じていて、今日は時間はかかったが久しぶりにある程度の量が読めたと喜んでいたのだが、最後の方はいつものように頭に入ってこなくなった。

単純に、アタマの持久力みたいなものが落ちたのだろうか。

簡単に言えば、「飽きた」という状態だ。

なんで飽きるのか。

何を言っているのかわからないなら、読めない。
知らない外国語の本が読めないように。

だが、読めるのに、読んでいるのに頭に入らないことがある。

外国語の翻訳というのもあるかもしれない。
しかも40年以上前に書かれたものだ。

「ざんねん」とか、時々変な言葉をひらがなで書いていたりしてイライラする。

意味がわからなくて、「誤訳じゃないか?」
と思うところもある。


人が書いたものであるから、書き手が不親切であったり、書き手がつたないということもあり得る。
翻訳であればその危険性は倍になる。

ただ、今読んでいるのはノーベル文学賞をとった作家の、20刷以上も発行され続けている本である。


「難しくて読めない」のだろうか。
語彙が足りないから理解できないのだろうか。


私が本を読む態度は、古い映画を見るような感じである。
フィルムについた汚れとか傷とか、音もこもっていたりして聞き取りづらいような映画を見るときは、
その汚れを気にしてはいられないし、一言聞き取れなかったとしても話の流れなどからだいたいこういう意味だろうと自分の頭の中で補完しつつ見る。

それは、誰でも多かれ少なかれしていることだろう。
何もかも作者の意図をすっかり理解できることのほうがまれだろう。


だが最近はその、「よくわからないことは飛ばす」という態度が行き過ぎてしまい、わかるわからないの前に最初からところどころ読み飛ばしてしまうことがある。

あと、読む前からその作品や作者についての先入観があって、最初から批判的になってしまうとか。

マルクスを読むときなどは、もうガチガチにガードを固めてしまう。


トーマス・マンの作品は、「トニオ・クレエゲル」と「ベニスに死す」を読んだ。
ベニスはおもしろかったのだが、トニオはつまらなかった。
反感さえ覚えた。

魔の山を初めて読んだときも、ハンスに反感をおぼえた。

ではなぜトーマス・マンを読もうとしているのか。
それは三島由紀夫と平野啓一郎が名前を出したからである。

あと、読んでみて、トーマス・マンとはこういう作家である、こういう作品を書く人である、
ということが自分なりにつかめないからである。


そもそも私は文学というもののよさがあまりよくわからない。

いいなと感じた小説はないこともないが、本当に「わかって」いるのかは怪しい。

単に文体が気に入ったとかだけなのかもしれない。

もしかして文学なんて文体だけなのかもしれない。
主人公が善行をするのがよい小説であるわけではない、というのは間違いない。

私は、芸術というのは意味がないほどよいものだ、という考えを年々強くしている。
ただ、一部の前衛芸術のようにまるっきり意味がないもの、というか、
あえて無意味にしているようなもの、それも芸術ではない。

まったく支離滅裂だと、もちろんダメだ。
かといって、特定の思想を広める目的があったり、
人情や感情に訴えるものであってもダメなのだ。


たとえば自分の命をかえりみず人を助けるとか。
これは感動的なことでありもちろんそのこと自体を否定するのではないが、
芸術ではない。

つまり、「塩狩峠」は芸術ではないのである。

バッハの「マタイ受難曲」を全面的にすばらしいと言えないのも、イエスの磔を題材にしているからである。

聖書を芸術だと思って読んでいる人は、いるかもしれないが、けしからん読み方である。
もちろん私は芸術だと思って読んでいるわけではない。


そもそも、芸術は怪しからんものになりがちである。
怪しからん事をするのが芸術だ、みたいな考えの人もよく見る。

それは芸術が善行の奨励ではないということを示すための皮肉としてほのめかす程度ならいいのだが、反道徳を主義としているような人も違うと思う。


私はそんなことを考えながら読んでいる。
悩みながら、芸術そのもの、文学そのものを否定したくなることすらある。
「こんなもの読む価値はないのではないか」
という気持ちに頻繁におそわれる。

読書の補助

なかなか読めない本を読むために私がすること、したこと。

1.線を引く
2.書き込みをする。素朴な疑問でもなんでも。
3.段落に番号をふる。
4.訳注を切り離して随時参照する。切り離さないとめくるのが面倒で見なくなる。
5.登場人物の人名を記す。この紙も切り離してすぐ追記・参照できるようにする。
6.ノートにキーワードや気になった表現などを書き抜いていく。情景でわかりにくいものは図にしてみる。
7.読んだページ数とかかった時間を記録して読書速度を測る。


魔の山 (2)

3章の途中まで読んだ。

国語辞典で知らない言葉を確認しながら。

地名をgoogleマップで調べたり。

「ハルフェシュテフート通り」という地名が出てきたので検索したが見つからず。
ドイツ語で調べれば見つかるだろうがどう綴るかがわからない。

その後に出てきた「ウーレンホルスト」は訳注でUhlenhorstであることがわかり、
それを調べると近くに Harvestehude というのが見つかった。

家の間取りとか、食堂のテーブルの配置などを図にしてみたりする。
何度読んでもよくわからなかったりするけど・・・

「べんけい縞」のズボンというのが出てきて、イメージ検索で調べる。
「ほほける」とか。

言葉遣いがちょっと古めかしいのは、昭和37年の翻訳だから仕方ない・・・。
でも、昭和37年にしてはそんなに違和感はない。
おそらく「名訳」なのでしょう。

もしくは、翻訳しやすいきれいなドイツ語なのかな。



重要なキーワードは「時間」である。
前書きで著者が注意をうながしているし、随所で時間に触れられている。

セテムブリーニというイタリア人の「文学者」が魅力あるキャラクターだ。
この人物のことは挫折しながらもよく覚えている。

今先の方をぱらぱら見ていたが、最後の方までずっと出てくる重要なキャラクターのようだ。




魔の山 (1)

「魔の山」を読むことにした。

今わけあって時間があるのと、先日文字数を数えて恐れるほどのボリュームでないこともわかったからだ。

3、4回トライしているが挫折している。


そこで今回は、熟読することにした。
熟読といっても、書かれている内容を吟味するのではなく、知らない言葉は辞書を引いて調べ、人名が出てきたらそれをメモし、主人公との関係などを記録しておく。

気になる表現や、気に入った表現、意図がよくわからない表現などは抜書きする。


書かれている内容自体を熟考し吟味するときりがないので、とりあえず固有名詞とか、聞いたことのない言葉や、なんとなく想像はつくが正確に説明できない言葉等を調べる。

また、知っている言葉でも、自分が使うくらいに慣れ親しんでいない言葉は、書き出す。


これらのことを、紙のノートに書き付けておこなう。

今、前書きから第一章の「到着」という節(?)をこの方式で読んだ。
15ページくらいだが、1時間くらいかかった。
1ページあたり4分かかったことになる。

これくらい気合をいれて読めば、読みながら上の空になることはない。


このペースで全部読むと大変な時間がかかることになるが、
メンドクサイのは最初だからだ。


この読書は、単に「魔の山」を読むというだけでなく、
最近感じている読書力の低下を止め、読書法を再考する目的もある。



2012/10/16

魔の山の文字数

トーマス・マンが書いた、「魔の山」という小説がある。
私はこれを読んでみよう思って、岩波文庫を買った。
分厚い上に上下2巻あって、最初の3章くらいまで読んで挫折している。

何度かトライしたのだがだめで、あるとき上下巻をそれぞれ半分ずつに切って、
全4巻にしてある。

先日自分のツイートやブログの文字数を数えたが、「魔の山」はどれくらいなのだろうと思って数えてみた。

1行43文字、1ページ19行。全部で1257ページある。
文字数にすると約102万(1026969)字、原稿用紙に換算すると2568枚である。

先日数えた私が書き散らしたブログの文字数より少ない。
さらに、私の文章は実文字数だが、この文字数は1ページに改行も字下げもなしにぎっしり書いたとしての計算である。


私の読書のスピードは普通だと思う。だいたい、文庫本で1ページ1分くらいが目安である。
以前、自分の読むスピードはどれくらいなのだろうと、実際に読んで測ってみたことがある。読んだのは夏目漱石の「こころ」である。

新潮文庫で、41文字×18行、738文字であるから、分速700文字程度ということになる。
こころは非常に読みやすい文体であるから、速く読めたと思う。
その後、ときどき読んだページ数と時間から速度を測ってみたが、だいたい同じくらいである。
測っていないが、「魔の山」はもっと時間がかかるだろう。


でも、もし1分1ページで読むとすると、魔の山を全部読むには1257分あればよいことになる。
21時間くらいだ。一日3時間ずつ読めば1週間で読めることになる。

そんなものか。

2004年発行のものだから、もう最大8年くらいは経っていることになる・・・。


2012/10/15

広告

このブログに広告をのせた。google adsenseである。
理由は、カネである。1円でもいいからカネが欲しいのだ。
(実際は1万円単位で支払われるらしいが)

私はインターネットの広告が大嫌いだし、インターネットで何か検索してその結果表示される広告をクリックして何か買う人なんてバカじゃないのかと思っている。

しかし、googleはそれによって大成功したのであり、google以外でもインターネット上のサービスはすべて広告によって利益を得ていると言っても過言ではない。だから、実際に効果があるのであろう。

私のブログは宣伝をしていないどころか、誰にもこんなものを書いていることを教えたことはなく、知っている人に見られたら恥ずかしいので個人情報などを書かないように細心の注意を払っているくらいだ。

そんなブログでも、統計情報を見ると、一日に数件程度であるがアクセスがある。検索エンジンの検索結果に私のブログの記事も表示されるのである。

このブログはまだ書き始めたばかりだが、ここではないあるサイトに書いた文章は、あるキーワードで検索するとトップに表示される。そんなに特殊な言葉ではないので少し驚いた。

SEO(だっけ?)とかいう、「いかに検索結果の上位に表示するか」ということが研究され、それを商売にしている人さえいるらしいが、ある程度検索語を選択し組み合わせるなどすれば、自分が書いた文章などはかんたんにgoogleで検索することができる。

このことは便利というより恐ろしいことである。


というわけで、私のブログにアクセスした人が広告をクリックするかもしれないと思って、広告をのせた。また、自分が書いているようなくだらない無色透明なブログにどんな広告が表示されるのかも興味があった。

読者のみなさんには是非広告をクリックして商品を購入して頂きたい。

原稿用紙3750枚

twitterのアカウントを分析してくれるwhotwiというサイトで、私の今までツイートした文字数が50万字であることを知った。
50万字は400字詰め原稿用紙で1250枚になる。

twitter歴は約2年半である。

1日あたりにすると原稿用紙1枚ちょっとくらいで、たいしたことはないようだが、
それを2年半続ければ1250枚にもなるのである。継続は力なりである。

もっともツイートなんか、特に私は、思ったことを何も考えず推敲なども一切なく、「腹減った」だの「眠い」だののようなものばかりなのできわめて内容は薄い。

でも、それにしても、50万字ものツイートをしていたとは驚きだった。


私はtwitter以外に、自分のブログをいくつか書いている。
また、ブログではないが、自分のウェブサイトにいろいろと書き連ねたものもある。
その文字数を数えてみたら、150万字もあった。
原稿用紙で3750枚である。

こちらを記述した期間は、10年近い。
これも思いついたことをメモする感覚で書いているが、twitterよりはややかしこまって、考えて書いている。ただし、これも推敲は一切していない。

私のこの文字を書く行動は、特に何かの訓練とか、必要とかに迫られてやっているわけではない。アクセス数を増やそうと工夫もしていない。広告などは一切のせていない。
(そういえばこのブログに広告をのせた。これについては後で書く。)

日記とか、ライフログとかいわれるような役割もないことはないが、
目的は「記録」ではない。

私は考えながら書くというか、書くことによって考える。
書き終えてから、「俺はこんなことを考えていたのか」と驚くことすらある。

私は小説を書いてみたいと思ったことが何度かある。実際に原稿用紙に書いてみたこともあるが、10枚も書けなかったような記憶がある。
ところが、口からでまかせみたいな感じで書けば原稿用紙何千枚分もの文字が書けるのだ。


2012/09/12

調号から主音を判定する


メモがてら。

調号から何調なのかを知る方法。


ハ長調において、各音の間隔は以下のようになっている。

C(全)D(全)E(半)F(全)G(全)A(全)B(半)C


調が変わってもこの間隔は同じである。
その調名の音(主音)の前の音との間隔は半音である。
ただし、半音の間隔はもうひとつある。ハ長調の場合はEとFの間隔がそうである。
主音を判定するには、全音間隔が3回続いたあとの半音間隔の後の音を探せばよい。

バカ正直に判定するなら、実際に#をつけてみて「C,D,E,F#,G,A,B,C,D,E,F#,G...で、全全全半となっているところの後は・・・Gか。」となる。


が、調号を見ただけで判定できる方法を知った。


まず、#の付いた音は主音でない、ということがわかる。

#がつくという事は、半音あがるということである。
半音あがるということは、ついた音とその前の音との間隔は必ず全音になる。
もともと全音だった場合は、その前の音にも#がつく。そうしないと間隔が全+半になってしまうからだ。


調号の#を書く順番は「ファドソレラミシ」と決まっているそうである。
なぜ「ドレミファソラシ」の順番と違うのかは不明。後で調べる。
そして、一番最後(右)に#がついている音の全音上の音が、調音なのである!

これは楽典に決まりごととして書いてあることなので
ちょっと楽器を習った人などには常識かもしれないが私にとっては大発見だった。


Fのところに一個だけついている場合は、Gとなる。
FとCについている場合は、Dとなる。
FCGDAEと、6個付いている場合は、F#。


これでもう調号なんか怖くない。

「ファドソレラミシ」の順番で#を付けるというのは、この判定ができるようにとの理由かもしれない。



ちなみに私はギターを少々弾く。教則本も途中までやって、訥々とであるが楽譜を見ながら弾いたこともあるので、ごく基本的な譜面の読み方はわかる。

だが、私がギターを弾くのはポップスや歌謡曲のコードをジャンジャカジャンとやるのが主なので、楽譜の調号を見るような機会は少ない。
カポタストという便利なものもあって、それをつけるだけでハ長調と同じ弾き方をして移調ができる。


だが最近iPadでgaragebandをいじるようになり、キーボードを弾くようになった。
iPadの画面の中の狭いキーボードであるが、感度や精度がすばらしいので楽器として十分成立する。

ギターの場合はフレットが半音間隔でならんでいるので、移調するには平行移動すればよいが、キーボードの場合はご存知のように白黒白黒白白黒白黒白黒白(白)となっているから、運指はただ平行移動するだけではすまない。ここが戸惑うところである。

でも、ギターで覚えたコードの概念というものは、キーボードを弾くときにも役に立つ。
そして、キーボードでコードを弾いていると、コードの意味があらためてわかってきて新鮮である。

2012/09/01

読書の目的

プレジデントという雑誌がありますね。

読んでませんよ、もちろん。

でも、電車の吊広告とか、売店で表紙を見たときにちょっと読んでみようかなと買ってみることがあります。

ちょっと高いですけどね。雑誌にしては。600円くらいでしたっけ?


読みたくなるのが、「稼ぐ人が読む本」みたいな特集です。

なんどもやるので、多分これをやると売れるんでしょうね。


でも、読んでみると参考にならないんですよね。

おもしろくない。

なんか、「読書」というものに求めるものが、私と全然違うんです。


その中で、ある人が対談だかインタビューをしている記事があって、その中にイヤな言葉を見つけた。

これは直接読んだのではなく、読んだ人がブログかなんかで紹介していたのを読んだのである。

それは、「社会的に成功しない人はファンタジーに逃げる」というような発言である。


私は以前から、自分の読む本に「ビジネス書」というものが皆無であることが気になっていた。

先日、感動した本を列挙したが、古典ばかりである。


お金儲けに役立つような本は一冊もない。


この、私がイヤな気持ちになった言葉を発言した人のことは、私は前から嫌いだった。

まあまあの有名人であるが、特に何をなしたというわけでもなく、有名な会社の社長だったくらいで、今も何をやっているのかよくわからない。

なんで嫌いになったかというと、やはり読書に関する発言で、「本を読むと金持ちになれる」というような発言をしていたのを聞いたからだ。

正確な内容は覚えていない。なんせ、嫌いな人の言った、不快にさせられた発言だからね。


それでさっきもまた、「読書=成功のため」というような発言を聞いたので、ついにここに書き付ける気になったのである。



「社会的に成功しないとファンタジーに逃げる」というのが、まるで私の事を言っているようでムカっとくると同時にドキっとしたのだ。


ちょっとモノを食べて、新聞を読んでアップルとサムソンの訴訟についての記事などを読みながら考えていたのだが、やっぱり、「読書とは芸術鑑賞である」ということに落ち着いた。


「読書が好き」「本が好き」「読書しろ」「本を読め」と言う人は多い。
しかし、文字が印刷されたものを束ねたものなら何でも読む、という人は読書家なのでも本が好きなのではなく、正確には「活字中毒」である。


私も新聞を読む。雑誌を読む。電化製品などの取り扱い説明書を読む。駅の構内の案内文などを読む。仕事でメールとかさまざまな文書を読む。全部活字である。紙に印刷された文字である。でもそれを読書とはいわない。「文字で書かれている情報の収集」でしかない。


私に言わせれば、いわゆる「ビジネス書」とか「自己啓発本」というものは、「文字で書かれた情報」でしかなく、文学とは全く別のものである。もうそれは、食べるものと着る物くらいに違うものである。私にとっては。どちらも必要なものではあるが。


子供の頃先生や親に言われた「本を読みなさい」という言葉は、「情報収集しなさい」という意味ではなかったはずだ。中にはそういう意味で言っていたオトナもいたかもしれないが、その人こそ、「本を読まなかった人」であろう。




高校生のとき、友人が「本を読めって言われたからこれを読んでるんだ」と言って私に見せたのは「気配りのすすめ」であった。
もう昔の話なので一応説明するが、これはNHKのアナウンサーが書いた本で当時ベストセラーになった本だ。もちろん小説ではない。私はさわりだけさらっと読んだような記憶がある。
私はそれを見て、心の中で『青木君、そうじゃないよ!』と叫んだ。



仕事をしていると、人の話を聞き、理解し、人に話をし、理解してもらい、文章を読み、書く機会がある。そういうときに、たまに「あなたは話すのが下手だ。もっと論理的に話せ。新聞を読め。本を読め。」という人がいる。けっこういる。

半分冗談で、「日本語を勉強しろ」などとも言う。


「読書」をすすめるのも、「読解力や論理的な思考を培うため」と考えている人が多い。そしてそれは「情報収集」のためであり、それは「金儲け」という目的のためである。


有名な小説とか映画を読んだり見たりしたときに「わからない」という人がいる。「わかった?」などと周囲の人に聞いたりする。

だが、芸術というものはわかるとかわからないとかいうものではない。「共感する」「感動する」「良さがわかる」という意味で「わかる」というならいいが、そうではなく、「なぜ彼はあの時自殺したのか」「なぜ彼女は何もいわなかったのか」などと、登場人物の行動の合目的性などを考えたりする。

そういう人は、言葉を理解したり映像を認識したり音を聞いてそれが銃声だとかガラスが割れる音であるとかを理解できないのではない。芸術を鑑賞するという行為に慣れていないのだ。

「読書する」というのは、「芸術鑑賞の訓練」のことを言う。

昔は芸術に触れる媒体が少なかったから「読書」と言っていたのに過ぎない。絵画や映画や演劇や音楽でもいいのである。


ただし、文学というのは言葉という、非常に身近な、誰でも自由に扱えるものを媒体としているから、それによる芸術というのは起源も古く、作家も鑑賞者も訓練を経ているので洗練されたものが多く、芸術として推奨されるのだろう。


芸術鑑賞としての読書にも、当然言葉を理解し論理的に考えることは必要である。が、それは本当にごく基本的な手段でしかない。


ある場所に行くときに電車に乗る技術のようなものでしかない。
電車の乗り方は子供はわからないが、1、2度オトナと一緒に乗ればわかる。
外国へ行くと多少事情が違うかもしれないがその辺の人に聞くなどすればわかる。

「読書をすると論理的思考力が培われる」というのは、「上野の美術館へ行くと常磐線の乗り方がうまくなる。切符が早く買える。回数券を使うと割安だ。」と言っているようなものだ。



話は「プレジデント」に戻る。
買って読んでみると、薦められている本に「芸術」はほとんどない。
「小説」自体が少ない。


司馬遼太郎の本を薦める人は多い。「坂の上の雲」とか。
私は司馬氏の本を一冊も読んだことがない。「竜馬がゆく」などを読んでみたことがあるが、
最後まで読めなかった。


私は「歴史小説」と言われるものが嫌いだ。「ノンフィクション」もあまり好きではない。

それは、結局言葉というものは、「語る」「書く」ということは主観である、と思うからだ。
歴史小説やノンフィクションを読んでいると、いかにも公正中立で客観的にしているようなフリをした語り手に対して、「お前は誰だよ?」といいたくなってしまうのである。


小説でも、そういう客観的な「語り手」が存在するものもある。
というか、多くがそうである。そういうものは私もちょっと苦手である。

小説でも、手記の形式をとったり、人が回想する形式をとるものがある。日記形式もある。
私は最近はそういう形式のことをちょっと気にするようになった。若い頃は、そんな形式はどうでもよくて、主人公が何をするか何を考えているのか何を言いたいのか何がしたかったのかなどを気にしていたが、最近は作者の意図とか狙いを気にする。

だが、それはあまりよくないことだ。
読書をするというのは、本をよく読むというのはそういうことだと思っている人が結構いる。
文学を研究する人はそういうことも必要かもしれないが、それでも、本来の、最後の目的ではない。
よく言われる「時代背景」などというものも、私は考慮する必要などないと思っている。

「この作品を本当に理解するには当時の時代背景を知る必要がある」
などと言われるが、私はそれは嘘だと思う。そういう人はその作品を読んでいるのではなく、その作品が歴史上どういう意味を持つのか、持ったと認識されているのか、ということを社会科学者のような立場で「調べている」だけなのだ。

なんどもいうが、読書は調査でも情報収集でもない。
芸術鑑賞なのである。


2012/07/11

アナログレコードとデジタルCD


結論を言おう。アナログレコードの方が優れている。

私は今日、レコードとCDの違いについてWEBで検索してみたところ、「CDの方が音質がよい」という意見が多数を占めていた。私には意外な結果であった。「CDは特定の周波数をカットしているので音に深みがない」というような事を複数の人から聞いていて、ほとんど定説となっていると思っていたからだ。それを語っていたのはミュージシャンや音楽愛好家の人達で、一人については直接話を聞いて、CDとレコードなんか比較にならない、聴けばすぐわかる、ということであった。私は毎日暇さえあれば音楽を聴いているが、音源はCDもしくはMP3である。MP3についてはCDよりさらに音質は低いと聞く。

CDとレコードの「音質」について語られることは主に二つあって、「情報量の多さ」と「雑音のなさ」である。レコードは磨り減って劣化するというのはまた別のハナシなのでそれは除外する。どちらが情報量が多いのか、ということについてはわたしはずっとレコードだと思っていたのだがそう簡単に言い切れないようである。いろんな話をきいていると、どうやら情報量の多さではCDの方が優れているという印象を持った。しかし、私はミュージシャンや音楽愛好家が「レコードの方がいい」と語る口調の強さの方がどうしても信用できる。「温かみがある」「深みがある」などというあいまいな表現をされていて、CD派の人々は思い込みにすぎないと批判するところである。少し理屈をつけると「CDは人間の可聴範囲を超える音をカットしているがそれが味わいや深みを消す」などということになるようだが、これも真実かどうか怪しい。実際CDとレコードの音を聴かせて区別できない人も多いそうである。

しかし、私は1時間程の通勤時間内でレコードの方が優れているという結論の根拠を見出した。これは、以前別の話で述べた「形式と内容」に関わることである。周波数とかサンプリングとかいうのは形式の話である。おそらく形式ですぐれるのはCDなのであろう。しかし、この形式上の優位が、音楽を録音・再生するということにはマイナスに作用するのである。形式上優位であり、生音の成分を忠実に保存・再生できるということは、演奏者にとって楽であるが、形式上不利な録音システムを利用する場合、録音によって失われることを考慮して、演奏者や録音技師達が工夫する。たとえばボーカルと演奏の音量の比率とか、ボーカルの声の出し方そのものとか、マイクの位置とか、演奏する場所が室内なのか屋外なのか演奏に適した音響設備の整ったホールなのか・・・そのように録音のために工夫し調整することがたくさんあるのがレコードすなわちアナログ録音である。一方CDすなわちデジタル録音はそのような工夫の必要はなく、スタジオで気軽に録音できる。多少ノイズが入っても機械的に処理して消すことができる。これである。私はデジタルとアナログの一番決定的な違いは、音の加工が可能であることではないかと思う。それは、「微妙な音が消える」「自然な音でなくなる」ということもあるが、それにもまして「演奏者の工夫と緊張を奪う」ということが重要ではないかと思うのだ。

その貴重な証人の一人がレス・ポール氏である。これはデジタルとアナログの違いではないのだが、演奏家でありエンジニアでもあったレス・ポール氏は多重録音装置を発明した。それ以前の録音で多重録音をするには、たとえば最初にバッキングを録音したら、そのテープを再生しながらボーカルが歌ったものを録音していた。だから、ボーカルが失敗したり、飛行機が飛んできたりしたらバッキングからやり直していたのである。レスポール氏は複数の録音を「トラック」に分けて、ボーカルが失敗したらボーカルだけ取り直せばすむようにした。ところが、この画期的なシステムを発明してからヒット曲が出なくなったそうなのである。私はこれも、便利な多重録音システムが演奏者の緊張を奪った結果だと思う。アナログレコードの録音から感じる「味わい」「深み」とかいうものは聴き手の思い込みなどよりも、録音技術が演奏家に与えた影響による気合の変化の結果なのである。これは録音装置の技術とは無関係のようであるが、これほど確実に与える影響もない。こう考えると、すべてに説明がつく。CDが含む周波数帯域の方が広いのにレコードの方がよく聴こえる理由、CDとレコードの音を聴き比べても区別できない理由。昔レコードで発売された古いアルバムがCD化されてそれを聴き比べたらおそらく区別は難しいだろう。演奏家に与える影響が変わらないからである。

私自身も、音楽を作ったことがある。最初に使用したのはカセットテープを使用する4トラックのアナログMTRである。音量は針が動くメーターで表示され、ボリュームやパンの調整は丸いツマミを回すことでおこなう。このときに作ったものは傑作が多い。ところが、その後MTRも高機能小型化がすすみ、カセットテープは使用せずにSDカードなどに録音するようになった。表示や操作は針やつまみではなく数値とボタンでおこなう。またギターのエフェクタやドラムマシンなどが内臓され、録音可能なトラック数も32だとか、飛躍的に増加した。私はいい時代になったものだと感心して新しいMTRを買ってみたのだが、どうもいいモノができない。カセットMTRの場合、録音した後再生するには当然巻き戻しが必要である。演奏が終わって録音を止めてテープを巻き戻す時間。これはメンドクサイことではあるが、「今の演奏はよかったんじゃないかな・・・あそこが失敗だったかな・・・」などと反省する時間でもあったしワクワクする時間でもあった。だがデジタル録音の場合は巻き戻しなどせずに録音が終わったらすぐ再生できるし、消すのも一瞬である。カットアンドペーストのような操作も簡単にできる。だが、そのような便利さは作品の本質には関係ないどころか悪影響を与えるのである。

以上述べてきたことは、アナログレコードとCDの過渡期の人間ならではの事である。最初からデジタル録音しかしたことのない演奏家には影響のないことだ。むしろ、録音のために余計な苦労をしなくてすむことで、演奏に専念ができるようになる。私は新しい技術を否定するのではない。不毛な努力はことごとく廃することに大賛成である。しかし、技術はあくまでも技術、形式であって、それにおぼれると本質が失われるのである。技術は簡単に進歩するが本質の進歩に近道はない。だから優れた芸術家は新しい技術を軽蔑するのであり、それが正しいのである。