2011/09/18

Come to mama (Pete Townshend)




私の敬愛するミュージシャン、Pete Townshendのソロアルバム White Cityの最後に収録されている曲。
私はThe Whoを聴くよりも前に、このアルバムによって初めてPete Townshendの作品とその演奏に触れた。
1曲目のGive bloodのイントロの衝撃は今でも忘れられない。

このアルバムにはこれまた当時聴いたことがなかったPink FloydのDavid Gilmourも参加していて、The Whoとはもちろん、Peteのソロアルバムの中でも雰囲気の違うアルバムとなっている。
Come to mamaは長いイントロの後、簡潔なメロディーの簡潔な詩が激しくシャウト気味に歌われ、これまた激しい「何を怒ってるの?」というくらいのギターのカッティングソロが繰り出される。
何度も聴いた曲だが、ふと歌詞の意味を吟味したくなった。

His pride is like a bandage
He's wrapped in a warm cocoon
His pride is just like Heroin
He's back inside the womb

His pride is like an Ocean
Encircled by a reef
His pride's an hypnotic potion
His memory is a leaf

Her pride is like an armour
Flaming ring of fire
Her pride is like a blindness
An ever tightening wire

Her pride is like a razor
A Surgeon's purging knife
Her pride is like a censor
She's slashed out half her life

タイトルの come to mama というフレーズは、母親が子供に「ママのところへおいで」というときに使うようだ。
「ママのところへ帰れ」というような侮辱の意味もあるのだろうか?

4節あって、前半二節は男性の、後半は女性のPrideを、1節で2回ずつ、合計4つずつ何かに喩えている。

男性 (his pride)

a bandage 包帯
Heroin 麻薬のヘロイン
an Ocean 海
a hypnotic potion 催眠剤


女性 (her pride)

an armour 鎧
a blindness 盲目さ
razor 剃刀
censor 検閲(官)


prideは日本語になっているが、自尊心という意味でよいだろう。Pete Townshendの歌詞は自己批判的であると同時にちょっと他責的だったり被害妄想的なところがある。また女性についての表現も少し屈折したところがある。喩えられたものをざっと見ると、男性のほうが弱くてもろいイメージのものが多い一方、女性のほうは堅固で攻撃的なイメージである。しかし単純に男女のプライドの対比を描いただけでもないと思う。

ちょっとわかりにくいのが、hypnotic potion, blindness, censorのあたりだ。hypnotic potionはヘロインと同じようなもので、どちらも自分の弱さやおろかさをごまかしているというような意味だろうか。それに対して女性は鎧ですべてをはねつけ、自分に不都合なものは一切目を閉じ、あるいは切り捨て、検閲官のように削除する、という感じだろうか。男と女はプライドの性質こそ違えどちらも自己自身を見つめて反省しないという意味ではどっちもどっちという判定だ。

he, sheと三人称になっているが、この男はpete自身、そして女は特定の彼の身近な(妻とか)女性のことではないだろうか。私はこの曲はpeteが女と喧嘩したか、昔にした喧嘩のことを思い出して落ち込むとどうじに怒りがこみ上げてきたのをなんとか抑えて第三者のことを客観的に描写した詩に創りあげたのではないかと思う。

私はbob dylanの詩はよく意味を考えて、なんとなく意図は読めるのだが、peteの詩はよくわからないものが多い。だがこの曲の詩はなんとなくわかったような気がする。

2011/09/12

トルストイ 「クロイツェル・ソナタ/悪魔」

「クロイツェルソナタ 」

二十歳の頃、トルストイを読んでみようと「復活」とかいろいろトライしたがドストエフスキーのようにはのめりこめず読めずにいた。「クロイツェルソナタ」も裏表紙にある概要からしても興味をそそられたのだが読めなかったのだが、古本屋で久しぶりに見つけて、最初に読んだ時はうっとうしかった導入部の車内の様子とかが逆に新鮮で、またタイトルの「クロイツェルソナタ」が話とどう関係があるのかも知りたくて読んだ。

ツルゲーネフの「初恋」のような独白形式である。小説としては作者が旅行中に列車のなかで出会った男が語るという形式になっているが、結婚、性欲、嫉妬、そして音楽についての過激な思想がぶちまけられている。

クロイツェルソナタといわれてもピンと来ないが、聴けばあああれか、とわかる有名な曲である。 

トルストイという人は若い頃放蕩をしたがその後は厳しい倫理家になったそうだ。 
しかし、私は今回「ソナタ」を読んで改めて思ったのだが、若い頃の放蕩は人を取り返しのつかないくらいにダメにする。妻を殺した男が前半に語る性欲の罪についての話は、ほとんどトルストイ本人の本音ではないだろうか。性欲をあそこまで罪であると憎んだのは放蕩の反動だろう。

若い頃左翼運動に傾倒したとか、ヤクザだったとか、とんでもない不良だったとか、それがある日改心して宗教家になった、などという話はたまに聞く。そういう人が書いた本がベストセラーになったりした。
ドストエフスキー、太宰からはじまってアウグスチヌスとかもそうだ。

パウロはどうだろう?パウロも改心した男であるが、彼はイエスを迫害していたとはいえ熱心なユダヤ教徒であり放蕩家ではなかったのではないか?だからイエスに選ばれたのではないか?後で調べてみる。

そういう、「改心者」の話を聞くと、結局その人の人間を作ったのは過去の悪行のほうで、語る時にもその悪行についてのほうを生き生きと自慢げに語りさえする。「あの時代があったから今の自分がある」などと。 

だが私は彼らを見て思うのは、単に若い頃思う存分やりたいことをやって気が済んだだけだろう、ということである。ドストエフスキーがいい例である。彼は根本は無神論者だ。彼の小説を読んで感動する人たちは、アリョーシャやゾシマ長老に感動するのではない。ミーチャとかイワンの無頼っぷりや懐疑っぷりに共感するのだ。

トルストイについてはまだ判断できる程読んでいないのだが、彼はもっと素直で、馬鹿正直で、情や欲望に流されやすい人で、それが読者に共感されるのではないだろうか。

あと、医者否定もキツいね。 
俺みたい。


「悪魔 」

20年前には読めなかった。経験がたりなかったのか。しかし、経験していないと読めないような話は、二流の作品ではないか?