2011/12/17

キェルケゴール 「死に至る病」

キェルケゴールの「死に至る病」というのは、この自己について書かれた本である。

テーマである「死に至る病」というのは「絶望」のことである。

この本は聖書をある程度読んでいないと理解不能である。少なくとも福音書を読んで、『なんだかよくわからないな』くらいの感想を持っていないと読めないだろう。この書物を難解だという人をよくみかけるのだが、難解なのではない。キリスト教や聖書を除外して哲学書として読むから読めないのである。キェルケゴール自身、これが哲学でも説教でもない中途半端なものであると断り書きをしている。

さて、「絶望」であるが、キェルケゴールのいう絶望とは、「自己が自己であろうとしないこと」である。自分が自分自身でないものになろうとすること。そして、キリスト教でいう「罪」とはそれだと言うのである。

さらに絶望にも段階があって、自己嫌悪のような簡単なものに始まって「悪魔の強情」ともいえるような「高度」なものであり、絶望できることはある意味優れた人間であるとも言えるなどと言っている。

だがやはり絶望は絶望であり、それを解決できるのは信仰しかない、というのである。

要するに「死に至る病」は「哲学を捨てて信仰しましょう」という話である。

優れた哲学者は、みんなこう言う。ソクラテスしかり、カントしかり、ヘーゲルしかり。「哲学によって真理を明らかにすることは不可能である」ということを理解するのが哲学のゴールである。

私が初めて「死に至る病」を読んだのは高校3年生の春である。みんながいよいよ本格的に受験勉強を始める頃である。私はどうしてもその気になれず、というか大学に行く理由も見つからず行きたい学部もなくぼーっとしていた時にこれを読み、2回ほど読み、何か悟ったような気になった。

「自己を見つめすぎてはいけない」というのとほとんど同じようなのだが、安易に自己から目をそらすのではないということ、わたしはこの頃にほとんど信仰を持ったと言ってもよい。

 

2011/12/13

ポール・ヴァレリー 「ムッシュー・テスト」




「ムッシュー・テスト」
ポール・ヴァレリー  清水徹訳  岩波文庫

twitterでヴァレリーのbotをfollowしたら面白いので、ヴァレリーのものを何か読んでみようとジュンク堂へ行ったが、詩集と「・・・の危機」とかいうのしかなく、いまいち読む気がしなかった。

ある日新宿の紀伊国屋に行って(ハンズの横にあるやつ)、洋書コーナーのヴァレリーのところを探したら手ごろな厚さのものだったので選んだのが Monsieur Teste であった。
もちろん、歯がたたない。フランス語なんか、フランスギャルの歌詞くらいしか読んだことがない。

Monsieur Testeは邦題でなんというのか調べると、岩波文庫にあることがわかったのでジュンク堂で買ってきた。 

朝、喫茶店で2回、家で寝る前に一回、そして今日電車の中で読んだら読み終えた。
量としてはとても短い。
だが、久しぶりに読むに値する本を読んだと感じた。 

これはエッセイと小節と詩の要素を持ったもので、それらのどれとも限定できない。 

キーワードは、自己と支離滅裂。

透明というか、無意味というか、ストーリーのない、感情も意志もない、とらえどころのない文章である。

しかし、難解だとか、お高く止まってるとか、安易な権威批判とか感傷でもなく、非常に誠実な印象を受けた。

そう、誠実。
私が読書をするときに最も重視するもの。誠実さ。
それが、この作品にはある。

何を言わんとしているかは掴みきれてはいない。
そして多分、これは掴んだと感じたら読めていないという類のものだと思う。

「テスト」というのは、英語の testify にあたるもののようだ。試験のtestではなくて。

「安易なもの、簡単なものが嫌いで、難解なものを求めた」というようなことを言っているのだが、それは「そんなに簡単に言い切れない」という意味であって、決してよくあるような小難しい理屈を述べたり人と違うことだけを競うようなものではない。

ニーチェ、カフカ、村上春樹、太宰治、トーマスマン、などには誠実さを感じない。三島には感じる。誠実さとはバカらしさとほとんど同じである。こいつバカじゃないの、と言わせるような、滑稽とほとんど区別のつかないものである。

それが honnêt homme か。

2011/12/01

お気に入りの映画



デッドマン(ジムジャームッシュ)


Stranger than paradise


coffee and cigarettes


HANA-BI


砂の器(野村芳太郎監督)


ヤングガン(1)


どですかでん


どん底(黒澤明)


夜の終わりに(アンジェイ・ワイダ)


8 1/2


竜二


仁義なき戦い広島死闘篇

2011/11/11

アナログレコードとCDの比較

結論を言おう。アナログレコードの方が優れている。私は今日、レコードとCDの違いについてWEBで検索してみたところ、「CDの方が音質がよい」という意見が多数を占めていた。私には意外な結果であった。「CDは特定の周波数をカットしているので音に深みがない」というような事を複数の人から聞いていたからだ。それを語っていたのはミュージシャンや音楽愛好家の人達で、一人については直接話を聞いて、CDとレコードなんか比較にならない、聴けばすぐわかる、ということであった。私は毎日暇さえあれば音楽を聴いているが、音源はCDもしくはMP3である。MP3についてはCDよりさらに音質は低いと聞く。

CDとレコードの「音質」について語られることは主に二つあって、「情報量の多さ」と「雑音のなさ」である。レコードは磨り減って劣化するというのはまた別のハナシなのでそれは除外する。どちらが情報量が多いのか、ということについてはわたしはずっとレコードだと思っていたのだがそう簡単に言い切れないようである。いろんな話をきいていると、どうやら情報量の多さではCDの方が優れているという印象を持った。しかし、私はミュージシャンや音楽愛好家が「レコードの方がいい」と語る口調の強さの方がどうしても信用できる。「温かみがある」「深みがある」などというあいまいな表現をされていて、CD派の人々は思い込みにすぎないと批判するところである。少し理屈をつけると「CDは人間の可聴範囲を超える音をカットしているがそれが味わいや深みを消す」などということになるようだが、これも真実かどうか怪しい。実際CDとレコードの音を聴かせて区別できない人も多いそうである。

しかし、私は1時間程の通勤時間内でレコードの方が優れているという結論の根拠を見出した。これは、以前別の話で述べた「形式と内容」に関わることである。周波数とかサンプリングとかいうのは形式の話である。おそらく形式ですぐれるのはCDなのであろう。しかし、この形式上の優位が、音楽を録音・再生するということにはマイナスに作用するのである。形式上優位であり、生音の成分を忠実に保存・再生できるということは、演奏者にとって楽であるが、形式上不利な録音システムを利用する場合、録音によって失われることを考慮して、演奏者や録音技師達が工夫する。たとえばボーカルと演奏の音量の比率とか、ボーカルの声の出し方そのものとか、マイクの位置とか、演奏する場所が室内なのか屋外なのか演奏に適した音響設備の整ったホールなのか・・・そのように録音のために工夫し調整することがたくさんあるのがレコードすなわちアナログ録音である。一方CDすなわちデジタル録音はそのような工夫の必要はなく、スタジオで気軽に録音できる。多少ノイズが入っても機械的に処理して消すことができる。これである。私はデジタルとアナログの一番決定的な違いは、音の加工が可能であることではないかと思う。それは、「微妙な音が消える」「自然な音でなくなる」ということもあるが、それにもまして「演奏者の工夫と緊張を奪う」ということが重要ではないかと思うのだ。

その貴重な証人の一人がレス・ポール氏である。これはデジタルとアナログの違いではないのだが、演奏家でありエンジニアでもあったレス・ポール氏は多重録音装置を発明した。それ以前の録音で多重録音をするには、たとえば最初にバッキングを録音したら、そのテープを再生しながらボーカルが歌ったものを録音していた。だから、ボーカルが失敗したり、飛行機が飛んできたりしたらバッキングからやり直していたのである。レスポール氏は複数の録音を「トラック」に分けて、ボーカルが失敗したらボーカルだけ取り直せばすむようにした。ところが、この画期的なシステムを発明してからヒット曲が出なくなったそうなのである。私はこれも、便利な多重録音システムが演奏者の緊張を奪った結果だと思う。アナログレコードの録音から感じる「味わい」「深み」とかいうものは聴き手の思い込みなどよりも、録音技術が演奏家に与えた影響による気合の変化の結果なのである。これは録音装置の技術とは無関係のようであるが、これほど確実に与える影響もない。こう考えると、すべてに説明がつく。CDが含む周波数帯域の方が広いのにレコードの方がよく聴こえる理由、CDとレコードの音を聴き比べても区別できない理由。昔レコードで発売された古いアルバムがCD化されてそれを聴き比べたらおそらく区別は難しいだろう。演奏家に与える影響が変わらないからである。

私自身も、音楽を作ったことがある。最初に使用したのはカセットテープを使用する4トラックのアナログMTRである。音量は針が動くメーターで表示され、ボリュームやパンの調整は丸いツマミを回すことでおこなう。このときに作ったものは傑作が多い。ところが、その後MTRも高機能小型化がすすみ、カセットテープは使用せずにSDカードなどに録音するようになった。表示や操作は針やつまみではなく数値とボタンでおこなう。またギターのエフェクタやドラムマシンなどが内臓され、録音可能なトラック数も32だとか、飛躍的に増加した。私はいい時代になったものだと感心して新しいMTRを買ってみたのだが、どうもいいモノができない。カセットMTRの場合、録音した後再生するには当然巻き戻しが必要である。演奏が終わって録音を止めてテープを巻き戻す時間。これはメンドクサイことではあるが、「今の演奏はよかったんじゃないかな・・・あそこが失敗だったかな・・・」などと反省する時間でもあったしワクワクする時間でもあった。だがデジタル録音の場合は巻き戻しなどせずに録音が終わったらすぐ再生できるし、消すのも一瞬である。カットアンドペーストのような操作も簡単にできる。だが、そのような便利さは作品の本質には関係ないどころか悪影響を与えるのである。

以上述べてきたことは、アナログレコードとCDの過渡期の人間ならではの事である。最初からデジタル録音しかしたことのない演奏家には影響のないことだ。むしろ、録音のために余計な苦労をしなくてすむことで、演奏に専念ができるようになる。私は新しい技術を否定するのではない。不毛な努力はことごとく廃することに大賛成である。しかし、技術はあくまでも技術、形式であって、それにおぼれると本質が失われるのである。技術は簡単に進歩するが本質の進歩に近道はない。だから優れた芸術家は新しい技術を軽蔑するのであり、それが正しいのである。

  

2011/10/29

仁義なき戦い

初めて見る。もちろんこの映画のことは知っていたけど、あまり見る気になれなかった。
ヤクザ映画は嫌いではないのだけど、それはあくまでもちょっと破綻しているような、支離滅裂なモノに限る。

ツタヤに行くと、10本くらいかな、たくさんある。
このようにシリーズ化されていることも敬遠していた理由の一つである。
当然、一番最初のを見た。

いきなり原爆投下のきのこ雲がスチールで映され、赤い字でデカデカと「仁義なき戦い」のタイトルが出て、
もう陳腐にさえなってしまったあの「テレレーテレレー」の音楽がかかるところは、カッコよかった。

最初のシーンは終戦直後、米兵に女が強姦されそうになって主人公が助け、MPが来る、などというシーンから始まるのだがうるさいし動きが激しすぎるしこれは誰だとか字幕がバンバンでるのが忙しくて見る気をなくしかける。

そして竜二に出ていた岩尾正隆が殺されるシーンで一段落する。
この殺人で主人公は刑務所に入るのである。

基本的に画面はきれいで、変に気取ってもいず、かといって退屈だったりすることもない。 

10人くらいいる部屋で話し合いのようなことをしているシーンがちょくちょくあるが、このときにそれぞれ好き勝手な方を向いていたり話を聞いているのかいないのかわからないような感じはよかった。

クロサワ映画だと全員が話し手の方をみていちいちうなずいたり反応するところである。

この映画から借用したと思われるシーンがいくつかあった。 

まずは、ビールを注がれて飲んだときに「これは馬のションベンか?ビールならもっと冷やいのもってこい」
というシーン。
これは「リングにかけろ」で剣崎が、菊がもってきたアイスティーを飲んで言うセリフとほぼ同じである。

もう一つは、主人公が死んだ兄貴分の住まいを訪れ、女がいるところに別の知っている男がやってきて鉢合わせるという、竜二と直であったようなシーン。

セリフは広島弁なので、何を言っているのかよくわからないところがある。 
が、好きな人はこの広島弁のセリフがいいらしい。

見ながらwikipediaなどでこの映画のことを調べた。

誤解していたことが一つある。
これは飯干晃一が書いた本が原作になっている。
私はこの本を、よくわからない作家がカネのために部外者のくせに極道について適当なことを書いたもので、ロクなもんじゃないだろうと思っていたのだが、
主人公が獄中でつづった手記があって、それが週刊誌に掲載され、その解説をする形で飯干晃一がかかわったようである。

だから、この話はホンモノの極道の話なのである。
しかし、けっこうヤクザ達は弱虫だったり卑怯だったりする。
「仁義がない」というのは無慈悲であるというよりも、卑怯である、という意味のようだ。


・・・というようなことを、調べたり考えたりしながら見たので、
まだちゃんと見れていない。

菅原文太、梅宮辰夫、松形弘樹など、「若いなー」と思ったりするのが先にきてしまい、
映画そのものを見ることができなかった。

また落ち着いたら見直してみたい。

そうそう、ひとつだけ。 

主人公の能美(だっけ?)は、透明な性格である。熱すぎず、賢すぎず、馬鹿でもなく、非人間的でもない。
ごく常識人だと言っても過言ではない。

それを取り巻く変わり者達。

これはいい小説や映画ができやすいパターンである。

2011/10/28

チ・ン・ピ・ラ

これは高校生のときにテレビで見て感心した記憶があって、
ずっとまた見たいと思っていた作品である。

これは竜二の金子正次が残した脚本によるもので、竜二の監督(途中から交代して)をした川島透が監督した作品である。

私は竜二のすばらしさは脚本もそうだけど川島透の手腕によるものだとずっと思っていたのだが、
本作には竜二ほどの味がなかった。

この話は最後にどんでん返しというか、オチがある。
銃で撃たれて死んだと思わせて実は演技だったというものである。
これにはちゃんと伏線があって、オープニングもそれから始まり、途中にももう一回、撃たれる演技のシーンがある。

私は最初に観たときは最後のは演技ではなくて、今までふざけてやっていたことが現実になってしまった、ということじゃないかと思った。実はこんなことだったらよかったのにね、という、観る者がどちらともとれるシーンじゃないかと。

今回観直してみたら、やっぱりこれは二人がまんまと出し抜いたという話だったのだと思う。
しかし、そうだとすると、少し後味の悪さが残る。

ヤクザ映画っていうのは悲劇でないと。
クスリにはまってしまい逃げてしまった女はどうなるんだ。

実際、誰だか忘れたけど映画評論家が監督か役者にこのラストシーンについて、「なくてよかったんじゃないか」といっているのを見た記憶がある。

私もそう思う。
最後、港で「死んだフリなんかするなよ」と泣きながらみっちゃんをひきずっと行くシーンは感動的だったから。
柴田恭平を見ていたら、尾崎豊を思い出した。 
似てないけど、尾崎ってああいうちゃらちゃらしたところもあるんだよね。

ジョニー大倉がよかった。 
ちょっと太ってかわいい竜二みたいで。
やっぱり金子正次も韓国人の血が流れてるのかな。
そういう情報はないけど、顔とか名前からして。 

2011/10/16

Epiphone Casino


ギターを買った。
Ephiphone Casino
59000円くらいだった。

数年もっていたFender Japanのストラトを手放して数ヶ月、やっぱり淋しくなった。

アンプにつなぐことはあまりないし、つないでもひずませて爆音を出すこともないので、
セミアコがいいなと思っていた。

Gibsonが欲しかったけどやっぱり高いからEpiphoneで妥協した。

帰って弾いてみると、イマイチなかんじだった。
ボリュームなどを調節するつまみをまわすとヨレる。
こんなギターは初めてだ。
まあ音には直接関係ないからそれはいいけど。

ネックの裏に「HAND-CRAFTED IN CHINA」というシールが貼ってある。
中国製だ。日本製だと値段が倍以上になるらしい。
まあしょせんは暇つぶしに爪弾くものなのでそんなにイイモノでなくてもいい。

モノは店頭に展示してあったもので弦がさびていたので張替え、
しばらくアンプなしで弾いてみるがやはりイマイチである。
ストラトやレスポールはアンプなしでもそれなりによかったのだが・・・

zoomのアンプシミュレータを買ってきてしばらく遊ぶ。
シミュレータもリズムがついてたり録音ができてたりと機能が多彩になった。

ギターなんてものは、手にしてみないと良さも悪さもわからないものである。
私は結婚のようなものだと思っている。
見た目はいいね。サンバーストで、お尻の大きい豊満なホローボディーで、f穴(正式名称は知らず)が開いている。

よろしくお願いしますね。


F-hole, 日本語だと F字孔と呼ぶそうだ。この穴は何のためにあるのかふと疑問に思ったが、当たり前すぎるのかあまり情報がない。共鳴した音の出口(サウンドホール)であることはわかるのだが、音を出す目的である。胴が共鳴すればその振動は外に伝わる。ソリッドギターは空洞でもなければサウンドホールもないが、やはり胴が共鳴するし、それだから木材の質などにこだわるのである。ピックアップで増幅するといってもやはりソリッドギターも弦の振動だけを拾うのではなく胴を共鳴させるのである。

サウンドホールは音を出すというよりも「逃がす」役割をもっているようだ。密閉された箱だと、共鳴が乱反射のような状態になり、せっかく振動したものが打ち消されたりするのだろうか。

アコースティックギターやクラシックギターは真ん中に丸い穴で、バイオリンやセミアコギターはF字孔なのはボディの形状によるのだろう。アコースティックギターなどはボディの表面が平らだが、バイオリンやセミアコは丸みを帯びている。この形状からセミアコギターなどははアーチドトップギター、アコースティックギターなどはフラットトップギターと呼ばれる。丸みを帯びているので丸い穴があけられない。そのため横のほうに細長くF字型に穴をあけた。F字である理由は諸説あるがアーチドトップのボディに開けるからというのがいちばん根本の理由であろう。

アーチドトップにすることで、音色がまろやかであたたかみのあるものになるとのことである。だが当然製作は難しく高度な技術を必要とするため高価なのだろう。

casinoにも目立たないが丸みがある。そういえばレスポールはソリッドギターですが丸みがあり、ストラトは平らだった。その辺も両者の音色の違いに影響しているのだろう。

こんなことも、実際お金を払って手にしてみて、ようやくわかったことである。


私はいままでトーンコントロールなど一切やったことがなかった。10と0で音が変わったりまったく出なくなるのはわかったが、それを調整して音色を調整する必要は感じなかった。ボリュームもトーンも常に全開にしていた。

今回あらためて疑問に思ったので説明書を読んでみた。
「全モデルのトーン・コントロールは、トレブル・カット・コントロールです。ノブを逆時計回りに回すとピックアップのトレブル出力がカットされて、ダークなサウンドが得られます。時計回りに全開に回すと、ブライトなサウンドが得られます。」

その前に二つのピックアップについてであるが、二つまたは三つついていて、ネックに近いほうを「リズム」「フロント」ピックアップ、遠い方を「トレブル」「リヤ」「リード」ピックアップと呼ぶが、違いはピックアップの位置だけである。もちろんピックアップそのものを違うものにすることはできるが、販売されているものは大体同じピックアップが二つついている。位置が違うだけで、そのPUが拾う音色が異なり、フロントはマイルドで暗めの重いトーン、リヤはシャープで明るめの軽いトーンとなる。

音色を「マイルド・シャープ」「硬い・柔らかい」「明るい・暗い」「軽い・重い」などと表現することがよくあるが、
これは基音と倍音の比率を言っている。倍音とはある周波数の整数倍の周波数の音のことで、たとえばギターのA弦をはじいた時に440Hzの振動と同時に880Hzとか3倍とかの振動が同時に発生する。基本が強ければ「マイルド」「柔らかい」「重い」「暗い」感じに、倍音が強ければ「シャープ」「硬い」「明るい」「軽い」感じになる。
フロントPUは振動する弦の中心よりにあるので基音を強く拾い、中心から遠いリヤPUは倍音を多く拾うのである。

そしてピックアップセレクタのスイッチにより、どちらか一方だけをオンにするか、両方オンにするかの3通りの選択ができる。ストラトのようにPUが3つある場合は、「フロントのみ」「フロント+ミドル」「ミドルのみ」「ミドル+リヤ」「リヤのみ」の5通りが選択できる。

私の場合、ひずませてリズムギターとしてバッキングする場合は「軽め」、クリーントーンのときは「重め」にする程度である。あとは使用するエフェクトによって適当にいじって気持ちいい感じの場所を探す程度だ。

私もギターマガジンをよんだり、いろんな人がトーンについて語るのを見聞きしていたが、あまりこの手のことにこだわりすぎると演奏家でなくエンジニアになってしまうので深入りしないようにしている。




2011/09/18

Come to mama (Pete Townshend)




私の敬愛するミュージシャン、Pete Townshendのソロアルバム White Cityの最後に収録されている曲。
私はThe Whoを聴くよりも前に、このアルバムによって初めてPete Townshendの作品とその演奏に触れた。
1曲目のGive bloodのイントロの衝撃は今でも忘れられない。

このアルバムにはこれまた当時聴いたことがなかったPink FloydのDavid Gilmourも参加していて、The Whoとはもちろん、Peteのソロアルバムの中でも雰囲気の違うアルバムとなっている。
Come to mamaは長いイントロの後、簡潔なメロディーの簡潔な詩が激しくシャウト気味に歌われ、これまた激しい「何を怒ってるの?」というくらいのギターのカッティングソロが繰り出される。
何度も聴いた曲だが、ふと歌詞の意味を吟味したくなった。

His pride is like a bandage
He's wrapped in a warm cocoon
His pride is just like Heroin
He's back inside the womb

His pride is like an Ocean
Encircled by a reef
His pride's an hypnotic potion
His memory is a leaf

Her pride is like an armour
Flaming ring of fire
Her pride is like a blindness
An ever tightening wire

Her pride is like a razor
A Surgeon's purging knife
Her pride is like a censor
She's slashed out half her life

タイトルの come to mama というフレーズは、母親が子供に「ママのところへおいで」というときに使うようだ。
「ママのところへ帰れ」というような侮辱の意味もあるのだろうか?

4節あって、前半二節は男性の、後半は女性のPrideを、1節で2回ずつ、合計4つずつ何かに喩えている。

男性 (his pride)

a bandage 包帯
Heroin 麻薬のヘロイン
an Ocean 海
a hypnotic potion 催眠剤


女性 (her pride)

an armour 鎧
a blindness 盲目さ
razor 剃刀
censor 検閲(官)


prideは日本語になっているが、自尊心という意味でよいだろう。Pete Townshendの歌詞は自己批判的であると同時にちょっと他責的だったり被害妄想的なところがある。また女性についての表現も少し屈折したところがある。喩えられたものをざっと見ると、男性のほうが弱くてもろいイメージのものが多い一方、女性のほうは堅固で攻撃的なイメージである。しかし単純に男女のプライドの対比を描いただけでもないと思う。

ちょっとわかりにくいのが、hypnotic potion, blindness, censorのあたりだ。hypnotic potionはヘロインと同じようなもので、どちらも自分の弱さやおろかさをごまかしているというような意味だろうか。それに対して女性は鎧ですべてをはねつけ、自分に不都合なものは一切目を閉じ、あるいは切り捨て、検閲官のように削除する、という感じだろうか。男と女はプライドの性質こそ違えどちらも自己自身を見つめて反省しないという意味ではどっちもどっちという判定だ。

he, sheと三人称になっているが、この男はpete自身、そして女は特定の彼の身近な(妻とか)女性のことではないだろうか。私はこの曲はpeteが女と喧嘩したか、昔にした喧嘩のことを思い出して落ち込むとどうじに怒りがこみ上げてきたのをなんとか抑えて第三者のことを客観的に描写した詩に創りあげたのではないかと思う。

私はbob dylanの詩はよく意味を考えて、なんとなく意図は読めるのだが、peteの詩はよくわからないものが多い。だがこの曲の詩はなんとなくわかったような気がする。

2011/09/12

トルストイ 「クロイツェル・ソナタ/悪魔」

「クロイツェルソナタ 」

二十歳の頃、トルストイを読んでみようと「復活」とかいろいろトライしたがドストエフスキーのようにはのめりこめず読めずにいた。「クロイツェルソナタ」も裏表紙にある概要からしても興味をそそられたのだが読めなかったのだが、古本屋で久しぶりに見つけて、最初に読んだ時はうっとうしかった導入部の車内の様子とかが逆に新鮮で、またタイトルの「クロイツェルソナタ」が話とどう関係があるのかも知りたくて読んだ。

ツルゲーネフの「初恋」のような独白形式である。小説としては作者が旅行中に列車のなかで出会った男が語るという形式になっているが、結婚、性欲、嫉妬、そして音楽についての過激な思想がぶちまけられている。

クロイツェルソナタといわれてもピンと来ないが、聴けばあああれか、とわかる有名な曲である。 

トルストイという人は若い頃放蕩をしたがその後は厳しい倫理家になったそうだ。 
しかし、私は今回「ソナタ」を読んで改めて思ったのだが、若い頃の放蕩は人を取り返しのつかないくらいにダメにする。妻を殺した男が前半に語る性欲の罪についての話は、ほとんどトルストイ本人の本音ではないだろうか。性欲をあそこまで罪であると憎んだのは放蕩の反動だろう。

若い頃左翼運動に傾倒したとか、ヤクザだったとか、とんでもない不良だったとか、それがある日改心して宗教家になった、などという話はたまに聞く。そういう人が書いた本がベストセラーになったりした。
ドストエフスキー、太宰からはじまってアウグスチヌスとかもそうだ。

パウロはどうだろう?パウロも改心した男であるが、彼はイエスを迫害していたとはいえ熱心なユダヤ教徒であり放蕩家ではなかったのではないか?だからイエスに選ばれたのではないか?後で調べてみる。

そういう、「改心者」の話を聞くと、結局その人の人間を作ったのは過去の悪行のほうで、語る時にもその悪行についてのほうを生き生きと自慢げに語りさえする。「あの時代があったから今の自分がある」などと。 

だが私は彼らを見て思うのは、単に若い頃思う存分やりたいことをやって気が済んだだけだろう、ということである。ドストエフスキーがいい例である。彼は根本は無神論者だ。彼の小説を読んで感動する人たちは、アリョーシャやゾシマ長老に感動するのではない。ミーチャとかイワンの無頼っぷりや懐疑っぷりに共感するのだ。

トルストイについてはまだ判断できる程読んでいないのだが、彼はもっと素直で、馬鹿正直で、情や欲望に流されやすい人で、それが読者に共感されるのではないだろうか。

あと、医者否定もキツいね。 
俺みたい。


「悪魔 」

20年前には読めなかった。経験がたりなかったのか。しかし、経験していないと読めないような話は、二流の作品ではないか?

2011/08/15

野坂昭如 「火垂の墓」

終戦記念日だからというわけではないが、いらない本を片付けようとしてそういえば読んでなかったなと、読んだ。ちょっと独特の文体が読みにくくて何度か読もうとしてやめていたものだ。
かわいそうな話ではあるが、わたしは終始この作品に感情移入できなかった。経験がないせいもあるが、それだけではない。結局、こんな話を聞かされたら、「戦争は残酷だ、二度と戦争を起こしてはならない」としか言いようがなくなってしまう。

テレビなどでしゃべっている野坂さんは大好きだけど。

2011/06/12

さや侍

初日に新宿で見る。5時半頃からの回を見ようと1時間くらい前に行ったら売り切れでその次の回にするが、
それでも最前列2列の席しか残っていなかった。
客の反応はよくて、後ろから笑い声やすすり泣きも聞こえた。
今までの2作と違ってはぐらかすようなところがほとんどなかった。
映画としては成功だったのではないだろうか。

しかしそれはあくまでも商売としての話で、私はあまり松本らしくない映画だと感じた。
エンドロールにも脚本は松本とクレジットされているがそこに高須氏初め何人かが案を出しているようだった。

始まってしばらくは、説明的だなと感じることが多かった。

そんなことはどうでもいいのだが主人公が逃げて、さらに捕まり、さらに笑わせることになる理由が今ひとつよくわからず、感情移入できない。
単におもろいおっさんにアレコレやらせて笑いものにしているだけのように感じなくもなかった。

笑わせるゲームの結末については、全く予想外ということでもなかったがまさか、という感じだった。
しかし主人公が死ぬソーンはやや冗長でその後はちょっと蛇足に感じた。
あそこはもう少し暗示的にやってほしかった。

本作はおそらく、松本が最初に意図していたものとは大きく違ったものになったのではないだろうか。
今までの2作が今ひとつ評価が低かったため、「売れさせよう」という、周囲のスタッフの力みが感じられた。
大日本人もしんぼるも3回くらい見たが、さや侍は多分もう見ない。

野見さんは、「働くおっさん劇場」に出演していた当時、たまたま勤務時間が遅くて帰って寝る頃にやっていたので見ていて、強烈な印象を持っている。
テレビでさえないおっさんやじいさんが言うどうでもいいことを笑いものにするというのはよくあるが、彼はただのおもしろいおっさんではなかった。

いくら素人でも、テレビに出るようになると自分がどんなことを言い、どんな反応をすればいいかわかってきて、客が求めることをするようになる。
しかし野見さんを初めとする「働くおっさん劇場」の出演者にはそういうことがほとんどなかった。
どうしてそういうことができたのか。後から知ったのだが、おっさん劇場では松本は野見さんと対面すらしていないそうだ。もし松本の目の前で何かやらせたら、やっぱり一度受けたことを何度も繰り返すようなことをしていたと思う。

しかし松本もいなければ笑う客もいない。声で指示をしたりちょっとした会話をするときにも、松本は頻繁にわらうのだが、その笑い声が野見さんには絶対に伝わらないように配慮されていた。

そしてその方法は今回の映画撮影でも使われたそうで、主役であることも映画を撮っていることすらも、ギリギリまで知らされていなかったという。

あと、番人みたいな役の一人の口をあけた三白眼の男が気になっていたのだが柄本明の息子だった。
彼がよかった。ちょっと甘口になってしまった今回の映画を引き締めていた。
そう、今回の映画は甘口だった。お子様向けだ。松本がもっとも嫌うこと。
子連れ狼の影響が見えた。あと武の影響も。
武っぽさはスタッフが出していたのかもしれない。

2011/05/20

プーシキン 「オネーギン」

久しぶりに本を読んだ。

始めて読んだのは高3のころ、もう20年以上前。
なんで読んだかというと、太宰が触れていたから。

プーシキンは「大尉の娘」がおもしろかったのを覚えている。
「オネーギン」の話の筋はよく覚えていなかったが、
「ふさぎの虫」というキーワードと、放蕩者であること、
楽しい話ではないことなどはおぼえていた。

プーシキンが20代の頃の作品である。

「斜陽」のような雰囲気を感じたがマネしたのは太宰のほうなのだろう。

「オネーギン」は韻文であるが、翻訳は散文で小説のように書かれている。
これを韻を踏んで書いたらいったいどうなるのか。
読んでみたいが、ロシア語じゃな・・・


2011/05/14

からっ風野郎



ついに見た。
これは三島の原作でもなければ脚本も書いてないし監督もしていない。ただの俳優である。
だからあまり期待していなかったのだがそれはいい意味で裏切られた。

三島はアタマがでかいだの上半身だけだのなんだのと言われていたが、やっぱり身体はたいしたもので、後姿などは絵になる。カツゼツが非常によくて、声も通って聞きやすい。目に光もある。

脇役の船越英二がかっこいい。日本人とは思えない。若尾文子もかわいい。
あとは喘息もちの殺し屋もいい味を出していた。

ロケ地はどこだろう?
ああいう時代もあったのだ。

ストーリーはけっこうピュアというか人情というか男気というかそういうものがあってちょっと感情移入した。
ラストは悲劇的になるだろうとは思ったが、不思議なシーンで、グロテスクですらある。

カタギになることを決めた主人公は子供の服を買ったあとで殺し屋に撃たれて、昇りエスカレーターに倒れる。
必死で降りようとするが力尽き、最後はエスカレーターの上に大の字に倒れて死ぬ・・・。

このシーンを撮影したときに三島はケガをしたそうだ。

憂国

30分。
俳優は2人のみ。何かしゃべるところがあるが、声は聞こえない。
三島自筆の文章が写され朗読される。

彼はこういうものを美だと思っていたのだろうか。
私には理解できない。

子供の頃、人が死ぬところや、自分が死ぬときを想像したことはあるが、
それの延長だろうか。

2011/05/08

突撃



キューブリックの初期の作品。
カーク・ダグラス主演。マイケルダグラスそっくりである。これがオヤジなのか、とわかった。
タイトルから勇ましい戦争映画かと思いきや戦闘らしい戦闘はなく、それどころか兵士が「突撃」しなかったことで裁かれて処刑されるという話であった。

登場人物の自然さ、その自然さというのも一人一人の多少クセのあるところがそのまま出ている自然さ、登場人物A,Bとかいう作られたものではなく、本当に生きている人間のように描かれるのはキューブリックの映画を見ていていつも感心するところだが、どうしてそんなことができるのだろう?

それは、ちょい役によく現れる。名もなき役というのは得てして無表情な不自然な固い演技になるものだが、そういう人々が肩の力が抜け、自然に、生き生きとしている。すみずみまで血が通っているという感じだ。

この映画について、スピルバーグがあるシーンをほめていたのを見たことがあるのだが、忘れてしまった。
でも、そんなことはどうでもいい。

これでキューブリックの作品は全部観たか・・・とwikipediaで確認してみると初期の頃の作品でまだ観ていないものがある。

一番好きな作品は、フルメタルジャケットかな。スパルタカスは高校生の頃深夜にテレビで見ておおいに感動したのだがキューブリック自信はあまりいいと思っていないようである。あとは、時計仕掛けのオレンジ。

突撃も、観たばかりだが抑制された描き方でありつつ変に斜に構えてもいないので好感を持った作品のひとつだ。処刑される3人の様子が三者三様にとてもよく描かれている。

「2001年宇宙の旅」は、衝撃を受けはしたが傑作だとは思わない。
ちょっと気負いすぎな感じ。

キューブリックはもっとなんでもない平凡な話を撮ったらよかったのに。
なんだかみんな殺人とか戦争とか常軌を逸した話ばかりだが、彼のよさは何気ないシーンにある。
アイズワイドシャットがそれに近かったのかな。

ダグラスとキューブリックはスパルタカスでも一緒に仕事をしている。
ダグラスは単なる俳優でなく製作者でもあり、キューブリックとは衝突があったようだ。
だが私はダグラスが主演のこの2作品が好きだ。
感情や正義のようなものを前面に出すかどうかが二人の意見が割れるところだったらしい。
そして、この2作品は客観的になりすぎもせず、メッセージ色が強すぎることもなく、いいバランスになったのではないか?

2011/05/07

イングロリアスバスターズ

タランティーノの映画は特に好きというわけではないがキルビル2がちょっと面白かったような記憶があった。
この作品を観て、パルプフィクションを初めて見た後に感じたのと同じようなものを感じた。
今回も英語字幕で観たのだが、せりふが速くて追いきれなかった。ドイツ語やフランス語が混ざったせいもあったかもしれない。
そのせいもあって、ストーリーというか、登場人物同士のカケヒキみたいなものがどうしてそうなるかがよくわからなかった。なぜ拳銃を突きつけあうのか、なぜそんな危険なことを簡単にやってしまうのか、理解できない。
この映画はもっとはちゃめちゃな、マンガのような話しかと思っていたのだがシリアスに描かれていた。
笑うようなところはひとつもなかった。
タランティーノの作品は、やっぱり暴力や残虐なシーンが売りであり、それだけなのかなと思う。
二つの復讐計画が重なるというのはなるほどと思ったけど、それだけである。

2011/05/01

From fairest creatures we desire increase

これはシェークスピアのソネット集の最初のソネットからとった。私が初めてソネットを読んだのは確か浪人生のときで、岩波文庫の翻訳だった。英詩なんか翻訳で読んでもしかたがないとは思ったが、わたしはかなり胸をゆさぶられたのを覚えている。ほかの外国語の詩の翻訳で感動したのはゲーテのいくつかとオネーギン(プーシキン)くらいだ。

そして大学に入学し大学のすぐそばにある古本屋で英語のソネット集を買った。最初に長い解説があるが読み飛ばして最初に出くわしたのがこのフレーズである。

From fairest creatures we desire increase,

特に難しい単語は出てこないが、私は理解に戸惑った。訳文では、「美しい被造物こそ我々は増えて欲しいと願う」というように訳されている。しかし、desire A from B などという言い方があるのだろうか?そして from が、そのような「物事の優先順序の最初」というような意味で使われるだろうか?それまで受験勉強で習った英文には出てこなかったし、その後今までもお目にかかったことがない。英文を読む機会とくに英詩などを読むことはあまりなかったが。また、ソネット全体について、子孫を残すとかいうのがなんだか生々しいというか、即物的というか、少し奇妙に感じてもいた。「早く結婚して子孫を残しなさい」という内容の詩が続けてでてくる。

昨日くらいに、新解釈を思いついた。
「美しい被造物を源として我々は増えようという衝動を抱く」
というような意味ではないだろうか。fromというのは、desireが湧き出る源のことを言っているのだ。
つまり、fairest creatures というのはこのソネットが語られている美男子を含めて、「増えて欲しい被造物」というだけの意味ではなく、その美しい被造物を源として、つまり見たり、触れたり、話したりすることにより、子孫繁栄の欲望が湧き出る、というような意味。ある被造物について客観的に見てそれが増えて欲しいと願うのではなく、みずからが増える衝動を抱くという意味・・・

それにしても、美しい青年に恋することをすすめるのは詩らしい主題だが、普通それを「子孫繁栄」には結び付けないよね?

2011/04/24

夏目漱石 「我輩は猫である」

やっと読み終わった。果たして一体この小説を全部読んだ日本人が何人いるだろうか?少なくとも中学生や高校生が読むような、読めるような本ではない。オトナの本である。私は半分くらい読んだときに、この小説に漱石のすべてがあり、これが漱石の最高傑作であると思った。


猫が語り手になっており、猫自体の行動や意見なども描かれるのだが、終盤は猫はほとんど登場せず、クシャミとその家族や友人達の会話が延々と続くようになる。そして最後、クシャミが本音に近いようなことを述べた後、猫はビールを飲んで水の入ったカメに落ちて死んでしまう。

夏目漱石は非常に律儀な、科学者のような人で、客観的な第三者が描写するようなことができず、猫という語り手を必要としたのではないか。その猫はこの作品中で死ぬ。そして彼は他の小説家と同じように、神のような視点をもった何者かに描写させるようになったのである。


2011/04/19

リービングラスベガス

ニコラスケイジが逮捕されたというニュースに関して「リアルリービングラスベガスだ」などと言っているのを読んで、借りて観てみた。
映画をみるのは久しぶりだ。

始まると字幕が出なかった。アレと思って字幕を出すように設定しながら、「字幕なしで見てみようか」と思ったがやっぱりそれはキツかったので、英語字幕をだしてみた。これならなんとかついていける。

さて映画自体はどうということもなかった。ニコラスケイジはこの作品で主演男優賞を総なめにしたそうだが。

こういう破滅ものを描くときには、必ず冷静で中立的な人物が必要だ。そしてその人物に破滅する人物を描かせるのである。主人公自体が破滅してしまうと、見るほうがつらすぎるのだ。
この映画では相手の女性まで引きずり込まれて救いようがなくなっている。

自伝であるという事実、そして後に死んだとはいえ、この作品を書きあげた時にはまだ生きていた、
酒びたりになって仕事もなくしてヤケになっている男に、どんな事情があったとしても惚れる女などいるだろうか。酒びたりになって娼婦と恋に落ちて死んでゆく、そんな話から何を感じろというのだろう。

映画を見た後、映画そのものはどうでもよかったが原作者の実際の人生の方が気になって仕事の合間に調べてみたが、「映画化決定直後に自殺した」ということが映画の枕詞のように言われているだけで、作者の人生そのものに焦点を当てて語っている人は見つからなかった。

2011/04/11

プラトン 「メノン」

徳は教えられうるか。

ほとんど、「教えられない」と言っているような感じだが結論は出ない。
マイケルサンデルを見ているようだ。
まあ、サンデルがマネしてるんだろうけど。


2011/01/09

stratocaster



2005/08/01(Mon) 15:41

私の今のメインギターはストラトキャスターである。FnederJapanのもので5万円くらいだった。色はサンバースト。以前はLesPaulCustomを持っていたのだが、金がなくて質に入れて流してしまった。私の人生の中でも5本の指に入る愚行だった。
LesPaulを買ったのは、PeteTownshendの影響であると言ってよいだろう。Peteはリッケンバッカー、SG、レスポールとギターを換え、再結成してから今に至るまでストラトを弾いているが、私にとってのPeteはレスポールを持っているイメージがあったのだ。

2005/08/01(Mon) 15:44

レスポールを弾くギタリストはたくさんいる。ニールヤング、ジェフベック、ジミーペイジ、スティーブジョーンズなど。
レスポールの特徴は太くて明るい音色。悪く言えば単純でわかりやすい音。それに比べてストラトは枯れたような繊細な音色が特徴である。

2005/08/01(Mon) 15:48

ストラトといえばヘンドリックス、クラプトン、ブラックモア、マルムスティーンなど、誰もが認める名ギタリストが愛用している。ちなみにボブディランもストラトである。ストラトはディラン・ヘンドリックス・ブラックモアの影響である。特に、ブラックモアが「ストラトはレスポールのようには簡単に弾けない」と言っているのを読んだ影響は大きい。

2005/08/01(Mon) 15:51

このようにストラトは玄人好みのギターであるというイメージがある。
私も手にしてみて、レスポールより軽くて弾きやすく、ひずませないときの音色の美しさには感心したのだが、やはりパワー不足というか、繊細すぎるように感じられるようになった。

2005/08/01(Mon) 15:54

2004年の7月24日、TheWhoが来日初ライブをおこなった。
期待以上のステージで改めてTheWhoの偉大さを再認識し、
その後もTV放送を録画した映像を何度も見ている。

2005/08/01(Mon) 16:01

この日Peteは赤とゴールドの二本のストラトを弾いていた。
このストラトのピックアップはレースセンサーのようである。
90年ごろ再結成したときに、ギターマガジンで特集をやっていたが、
そのときからレースセンサーを使っているようだ。
エリッククラプトンのためにつくられたというレースセンサー。


2005/08/01(Mon) 16:06

おそらくゴールドはゴールドレースセンサーを積んでおり、赤は違うものだろう。弦も太いかもしれない。赤の方が多用されていたがゴールドのほうは非常に美しい音色を出していた。アンコールで大活躍したが最後に破壊されてしまったので大阪では赤いのと黒いのになっていた。

2005/08/20(Sat) 00:45

レースセンサーに換装。
ラオックスで13300円だったのでぜってー買わねーとふてくされたものの実はオンラインショップで7000円くらいなのをすでに見ており、定価の高さが逆に購入に踏み切らせた。迷ったのは、きっとPUを換えたからってそう劇的な変化はないだろうというのと、バラしたらギターの調子が悪くなることを恐れたのだ、LPのように。

2005/08/20(Sat) 00:49

換装のときにちょっと困ったのが、線が3本出ていたことだ。ついていたものは白と黒のぶっとい線が2本しか出ていない。3~5ミリくらいの太さか。LaceSensorは細い線が白、オレンジ、緑と出ていて、撚り合わされている。WEBをさがしても2本の接続しか記載がない。だが、どうやら緑の線はどこにも配線せずにほっといてよいようだ。

2005/08/20(Sat) 00:54

ハンダ付けをしたが不安だ。カバーのネジが11本もあり、弦もこれから張りなおすので、失敗したら面倒だ。だが弦を張っていない状態でPUがただしく装着されたか確認するにはどうすればよいか。チューニングで音叉の音をPUが拾うことを思い出した。音叉を近づけてみる。鳴らない。セレクタを動かしてみる。鳴った。このときはじめて、セレクタの使い方がわかった。両端および真ん中にしたときは、3つのPUそれぞれひとつだけが生きる。その間にすると、リアと真ん中、真ん中とフロント、と二つずつが生き、3つ全部が生きることはない。

2005/08/20(Sat) 00:55

そしてなんとリア・センター・フロントの配線順序をひっくり返してしまった。まぁご愛嬌。

2005/08/20(Sat) 00:58

さて、問題の音であるが・・・。違う。明らかに違う。アンプを通さずミキサに直結した状態では、違うのはわかったが、うわ、すげぇ、全然違うわこれ、というほどではなかった。でも、PUセレクタの位置や弾くポジション・弦によってはうわすげぇと軽く感じるくらい、明らかな違いがある。

2005/08/20(Sat) 01:02

音が大きくなったような気がする。それから、聞いていたとおり、高音がよく出ているようだ。サステインはちょっと長くなったのかな、という程度。ノイズはもともとそんなに気にならなかったがそういえば無いかな、という感じ。だんだん、あれ、そんなに変わらないかな、と感じ始めて、小マーシャルにつないでみる。あれ?なんかぜんぜん鳴らない。ODにしてもへんなひずみ方をする。嫌な予感がする。

2005/08/20(Sat) 01:05

次にZoomのボロシミュレータにつないで見る。おぉ、いい音だ。しかし長い間使わずにアンプなしの音を聞いていたからどれほどがLSの威力なのかは定かではない。しかし弾いていてこんなに気持ちよくなったことはないというくらい弾いていて気持ちがよい。そのまま3時間くらい引き続けていた。ドレミファソラシドを狂ったように上り下りしたり、なぜか最近突然頭の中に流れ出したハマショーのラストショーを弾いたりしていた。よかったよかった。換えて正解だった。いい気分転換になった。

2005/08/20(Sat) 01:08

レースセンサーって、見た目がいいよな。

2005/08/20(Sat) 01:14

多分、セイモアダンカンだのをつけて見れば、げ、何これ?というくらいに変わるんだろう。NoiselessとかいうのはLSよりノイズが少ないとか。売ってるストラトにLSつきのが非常に少ないのが気になっていたのだが・・・いまいち人気がないのか?のっぺらぼうみたいだからか?俺はそれが好きなんだけど。Peteが使ってたのが決定的だったよね。Peteはストラトのイメージを変えた。ヘンドリックス、クラプトン、リッチーなどとはまったく違うストラトの弾き方をしていた。

2005/08/20(Sat) 01:15

でもあんまり太くてハムみたいな音にしちゃうとストラトらしくなくなって味がなくてつまらんかなー、Goldくらいがちょうどいいんじゃないのか、なんて思っている。本当はGoldという名前が高級っぽくて選んだのだが。

2006/06/18(Sun) 21:46

TokaiLPのピックアップをダンカンに換えたので
stratoと比較してみた。
本体も自分で買って4年くらい弾いているstratoの方が愛着があるので、どうしてもstratoをひいき目に見てしまう。

ただ・・・・正直、あんまり差がないんだよね・・・


2006/06/18(Sun) 21:49

まず、アンプが小マーシャル、またはZoomの503というシミュレータであるというところが、繊細な音の違いを吸収してしまっているのだろう。
特に503は、ギターの微妙な味を確実に消し去って味気ない電子音にしてしまう。これはGibsonのCustomをつないだ時から感じていたことだ。

2006/06/18(Sun) 21:58

違いの要素は以下のようなものがあるだろう。

1.stratoとlespaulの違い。シングルコイルとハムバッカーの違い。
2.本体の鳴りの違い。固体差。
3.メーカーの仕事の違い。
4.コンディションの違い。弾いてるか弾いてないか。
5.PUのグレードの違い。

1.がほとんどではないだろうか・・・


2006/06/18(Sun) 22:00

1. stratoとlespaulの違い。シングルコイルとハムバッカーの違い。

stratoの方がか細くジャリジャリした感じで、
ハムバッカーのほうがパワーがあり、サステインが長い。いつまでも音が鳴ってる。この差はそのままわかる。ただし503でひずませるとわからなくなる。

2006/06/18(Sun) 22:05

2.本体の鳴りの違い。固体差。

Tokaiはほとんど弾いてない。
そのせいか、少し曇ったような音がするように感じる。

2006/06/18(Sun) 22:09

3.メーカーの仕事の違い。

こんなのわからねえよ。
Fender JapanとTokai。
Tokaiがいいっていうのはよく聴くけど。
でも基本的に日本人は器用で丁寧だから
品質はよい気がする。
ただ、命である木材が、高温多湿である日本のものでは
どうしてもダメらしい。
ただ手持ちの二品の比較においてはそれは互角である。

2006/06/18(Sun) 22:10

4.コンディションの違い。弾いてるか弾いてないか。

曇った音なのは2.ではなくこのせいではないだろうか。
大音量で音楽を聴かせる、扇風機をあてる、
これだけでずいぶん違うという話もきいた。
ドライヤーはダメらしいけど。
やってみよう。

2006/06/26(Mon) 01:03

今日知ったんだけど。
ストラトのフレット間隔はレスポールより長い。
スケールっていうのか。
こないだPU交換した後引き比べた時にちょっとそんな感じがしたが、
ちゃんと比べてみると12フレットの位置が1センチくらい違う。

2006/06/26(Mon) 01:04

そして、弦高が高い。こないだ少し下げたんだが、
それでも高い。ド高い。5ミリくらいあるんじゃなかろうか。
でもデフォルト設定なんだけどね。ストラトは弦高高めじゃないとだめらしい。
あと、コードの響きが高めの方がいいとも聞いた。
まあ、めんどくさいから買ったままにしてただけなんだけど。

2006/07/01(Sat) 21:52

レースセンサーのよさがだんだんわかってきた。
どこかに書いてあったけど、まさにグラスベルのような響き。
ストラトにあう、ストラトのためにあるようなPUだ。

2008/02/04(Mon) 22:57

ギターでFが押さえられなかった、という話をよく聞くが、そういうことを言っているやつは素人か、プロであっても三流である。このFというのは1フレットを人差し指でセーハする抑え方のことだが、こんな抑え方が実際の演奏で出てくることはまずない。素人は歌本とかコードブックなどをみながらその通りに抑えようとするのだが、プロの演奏を見ると6弦全部をジャカジャカやることは非常にすくない。エレキギターの場合は特にそうである。キースなんか6弦がない。例のFコードをジャーン、とやるのはおろかだ。そんなことをやるなら1フレにカポをつけるべきである。

Sun Aug 29 11:37:23 2010

最近いろんなギタリストの曲をかたっぱしから聴いている。george benson, john mclaughlin, wes montgomery, steve vai, paco de lucia, django leignhalt など。(つづり間違ってるかな)

いいと思ったのはgeorge bensonとjohn mclaughlinだ。

steve vaiは全然受け付けない。paco de luciaは、なんか雑な感じがする。

john scofieldは、一時聴いてみたがこれも受け付けなかった。

あとは・・・cornel dupree, roben ford, jim hall, barney kesselなどか。

charlie christianも受け付けなかった。


Sun Aug 29 11:40:52 2010

george bensonがいいのは、間がきちんとあることだ。のべつ幕なしに弾きまくる事をしない。

マイルスデイビスも、「ギタリストは皆弾き過ぎる」と言ったというのを聴いたことがある。
弾きすぎないギタリストとしてあげられていたのがチャーリークリスチャンだった。

マイルスといえばジョンスコフィールドとジョンマクラフリンだ。
マクラフリンはbitche's brewで知った。スコフィールドはunder arrestとかで弾いていて、
特徴はわかっているけど、彼のソロを聴くとそんなによくない。

マクラフリンは逆で、マイルスとやっているときより1人の方がいい。さらに、shaktiとかマハビシュヌオーケストラとかとやってるのはちょっと狂気じみていていい。

Sun Aug 29 11:42:45 2010

ジョージハリスンがインド風の曲をよくやっていて、ビートルズのアルバムを聴いているとジャマだなあと思っていたのだが、
mclaughlinくらいになると、聴ける。


Sun Jan 9 04:32:54 2011

売ってしまった。
アンプも。
エレキギターよ、さようなら、だ。

エレキギターは、やっぱりめんどくさい。大きな会場で爆音を鳴らすのでもなければ、必要ない。