2010/12/25

Tokai LS-80




2006/06/17(Sat) 02:19

10年ほど前にもらったギター。
その時は実はLespaul customを持っていた。「モデル」じゃなくて、ホンモノのGibson USAの・・・。
だからハナでわらってたんだ、Tokaiなんか、と。
Rebornって(笑)、と。
ところがトーカイのレスポールって、
実は名器であることで有名なようなんだ・・・

2006/06/17(Sat) 02:22

もらった時、カスタムと比べてみたが、結構いい音出るじゃん、
と思った。正直、あんまり変わらなかった気がする。
まぁ、ごく小さい音で、ヘッドホン通した音だからね・・・。
でも、Customはほんとに、すばらしかったよ。
それまでのギターがぼろすぎたせいもあったかもしれないけど、
あんなにやわらかくて甘い音色は後にも先にも聴いたことがない・・・。

2006/06/17(Sat) 02:24

わけあって手放してしまい、その後はフォークギターやFenderJapanのストラトを弾いてきた。しかし、事あるごとにCustomの音色が恋しくなる。当時は16万で買った。しかし今は30万以上するのだ・・・。

2006/06/17(Sat) 02:26

最近残業が多かったので給料がたくさん入ってきたので
ギターでも買ってやろうかという気になった。
しかしやはりGibsonUSAはあまりに高い。
そこでトーカイレスポールのP.U.を変えてみることにした。
こないだストラトを変えて要領はだいたいわかったので。
その辺の店より全然安いサウンドハウスというネットショップで買った。

2006/06/17(Sat) 02:31

Seymour DuncanのSH4B(JB)とSH2NRZ(Jazz)。
ずっとシーモアダンカンと読んでいたが、セイモアダンカンと読むらしい。LPcustomに乗ってるのと同じものにしようと思ったがなかった。
また、GibsonのPUは高価であった。
そこでよく目にするこのメーカーを選んだ。
JBとはジェフベックモデルのことらしい。
Jazzをフロント(ネック)に、JBをリアにするのが定番ということがどっかに書いてあったのでその組み合わせを選んだ。

2006/06/17(Sat) 02:36

付属の配線図はよくわからないのでネットで情報を探した。
黒、緑、裸、白、赤という5本の線があり、
黒がHOT、緑と裸がアース、白と赤はくっつけて絶縁する、
ということがわかった。
その通りに配線してみて(実は重大なミスをしていたのだが後述する)、ストラトの時にやったように音叉を近づけて音が鳴ることを確認してから、ネジを締め、弦を張った。
間違って7-9フレットであわせてしまって1弦を切った。

2006/06/17(Sat) 02:38

そして小マーシャルにつないで弾いてみた。
うーむなかなか繊細ないい音だ。2、1弦をチューニングするだけで、
うっとりとする。
思ったより太くも甘くもなく、ストラトっぽい、シングルコイルっぽい音だと感じた。カスタムの音とは全然違う。

2006/06/17(Sat) 02:40

ひずませてみようと思ってZoomの安シミュレーターにつないだ。
ん?なんかおかしい。音が小さい。ヘッドホンをしているのがつらいくらいにうるさいはずなのに、ボリュームがあったらあげたくなるくらいに音が小さい。パワーが売りなのがハムバッカーじゃないのか・・・
ストラトをつないで見ると全然大きい。これはおかしい・・・

2006/06/17(Sat) 02:44

何か間違ったと思い再びネットで情報を探すと、
黒ではなく緑がHOTの場合がある、という情報を見つけた。
音が小さかったり変だった場合はそうだ、と。
まさにそうだ!これだ!と再びフタをあけてハンダゴテをあっためたが、いや、でもそんないい加減なことがあるのか・・・?
と、その情報と同じところに、赤と白の線は半田付けすると書いてあるのを見つけた。これか?これは使わないけどくっつけないといけないのか?

2006/06/17(Sat) 02:46

予想は的中した。大きな音で鳴るようになった。
しかし、やっぱり、カスタムのあの上品で愛嬌のある甘くて深い音色ではなかった・・・。

2006/06/17(Sat) 02:47

でもまあいいんじゃないの。
これから引き込んでいい音が出るようにしていこう。
フロントがゼブラなのは単に在庫があったからというだけの理由だったが、つけてみるとこれがなかなかよい。
携帯で写真をとって待ちうけ画像にした。

2006/11/18(Sat) 04:19

LS-80というのが正式名称だ。
トーカイはいったんつぶれかけたが復活している。

2007/12/05(Wed) 21:14

こないだgibsonのサイトにいったらrobot guitarなんてのがあって、なんじゃこりゃと思ったのが無視して通りすぎたのだが、今朝新聞に載っていて、自動チューニング機能をそなえていることがわかった。たしかにギターのチューニングは面倒であり、特に弾き始めの頃は弦交換に小一時間かかったものだ。調弦中に切ってしまったり、巻き方が悪くてすぐに狂ったりしてしまった。しかし今では調弦するのも楽しみになっている。新しい弦を張って、音が変わり、チューニングをあわせていくのは洗濯ものを取り込むような、いい気持ちである。

自動チューニング機能はどういう仕組みなのかわからないが、演奏中にチョーキングしたら誤動作したりしないのか?と思ったがおそらくON/OFFできるようになっていて演奏中はOFFにしておいて終わったら、あるいは必要に応じてONにするのだろう。

ま、どうせ高くて買えないけど。

2007/12/30(Sun) 05:18

なんでだか忘れたけど引っ張り出して置いておいたらなんだかすごく綺麗だ。短いネタを連発するTVを見ているうちに無性に弾きたくなって、ミキサーも引っ張りだしてきて見ながら弾き始めた。ワンカップのビンでスライドしたりしてみた。んで、オープンチューニングをやってみた。何度かオープンチューニングはやってるんだけど、いまだにオープンにする理由がわからない。

08/11/04(Tue) 22:20

階名と書いたと思うが、変換できない。
小学校の音楽の授業で、よくカイメイを読まされ覚えさせられた。
ドレミ、ドレミ、ソミレドレミレ、
ドソミソララソ、ファファソラソファミレミーレ、とか。

ギターを弾いているときにそれを思い出して弾いたりしてみる。

だが、曲を聴いてそのフレーズの一部でも弾くことは難しい。

でも、誰だって、テレビのCMなどで繰り返し流れるフレーズは覚えていて、
口ずさむことがあるだろう。そのときに、どんな音つまり階名はわかっていない。
それでも、メロディーとして再現できる。そういう能力を人間は持っている。


多分、ギターの場合も、いったん階名にしてそれを指板の位置と関連付けるのではなく、
音を聴いて、どうすればそれが再生できるかを、相対的にしろ絶対的にしろ、
覚えるというか身につけて弾くのだと思う。

09/03/31(Tue) 21:49

最近、一日一人くらい、このスレに来る。
買ってください、誰か。
タダでもらったものです。
全然弾いてません。
3000円でいいです。

09/04/02(Thu) 23:55
・・・とか言って、絶対売らないよ。
このギターは大切な人からもらったものだから。
タダでね。

Sat Dec 25 10:19:29 2010

売りました。
ごめんなさい。




2010/10/10

三島由紀夫 「天人五衰」

ノーベル文学賞を村上春樹氏が受賞するんじゃないかとここ数年言われ続け、特に今年はどこぞのオッズが2位になった、などというニュースもあった。

私は彼の作品を3作読んだが、「なるほど」と思う程度だった。ノーベル賞をとるほどの作家か?と思っている。

だがその前に、そもそもノーベル文学賞がどれほどのものなのだろうか。

国境を越えて世界に読まれるのは光栄なことだろうが、それは作品が売れるということで報われる。

誰がどんな基準で選んでいるのか知らないが、いったい何様なのだろうか。


私は村上氏を好きではなく、どちらかというと嫌いなほうだが、かといってノーベル賞が偉大な賞であるとも思っていない。

ノーベル賞をとらなければダメ作家なわけでもなく、とったら偉大な作家だというわけでもない。

川端康成と大江健三郎。

この二人が日本文学史上の最高の二人である、という意見には異を唱える人も多いだろう。

わたしは特に大江氏が好きではない。

彼の作品は少しだけ読んだことがある。「われらの時代」という作品である。
それから「セブンティーン」という短編も読んだ。

「われらの時代」はおもしろかった。予備校に通っていたときだ。
しかし、ひどい話で、「何を読んでるの?」ときかれて「あ、いやチョット・・・」と言えなかったくらいだ。

ノーベル賞を受賞する前のことだ。
「セブンティーン」は確か右翼をバカにしたような話だった。

それから彼は夜ウイスキーを飲み睡眠薬だかなんだかの薬をボリボリかじりながら小説を書いているという話をきいて、『この人の話をきいてはいけない』と、ほとんど反射的に敬遠するようになった。

それから数年後、彼がノーベル賞を受賞した。
そして「あいまいな日本の私」という川端氏を馬鹿にするような題名の講演をしたこと、
文化勲章を辞退したことなどが私を不快にさせた。

川端康成氏の作品は「雪国」「伊豆の踊り子」などを読んだ。
だが、これまた怪しからん話で、「雪国」でおぼえているのは「この指が女を憶えている」とかいう文だ。
その意味がわかったのはオトナになってからである。

そして受賞はしなかったが有力候補だったといわれる三島由紀夫。
彼は私の大好きな作家の一人であるが、彼もケシカラン男である。
日本文学史上もっともケシカラン男かもしれない。

だが、文学というのはそもそもケシカランものなのかもしれない。
いかにケシカランことを考えてそれを具象化するか、それが文学である、といってもいいのかもしれない。

三島由紀夫は、狙って「豊穣の海」を書いたのではないかと思う。
賞だけが狙いではなかったにしても、あわよくば、というのはあったと思う。
だが彼は自分は受賞できず大江氏がとるであろうことを生前に予言していたという。
すごい人だ。

「豊穣の海」は第四巻で破綻している。
あんないい加減な投げ出しっぷりは「ストップひばり君」と双璧だ。

「豊饒の海」が傑作であるという人を何人か見ているが、ほんとうに4巻を読んだのかと思う。

石原慎太郎はクソミソに言っていた。「あんまりひどくて涙出た」と言っていた。
彼が三島氏に可愛がられたのに死後けなすようなことばかり言っているのは不快だが、豊饒の海についての見解は私も同意する。

というわけで村上氏のノーベル賞については、どうでもよいと思っているが、
賞を狙ってリキまないで欲しいと思う。


2010/08/15

Satelliteの歌詞

Sex Pistolsのsatelliteの歌詞をじっくり確認しようと思って探したら、あったんだけど "chastity" の部分がない。公式に発表される歌詞と実際に歌っているものが違うようだ。聴き取って見た。

You're lookin' me and you just can't tell
Lookin' like you've just come outta hell
Lookin like a dirty labatory
There ain't no filth for your chastity

最後は、"filth"かどうかはわからない。
filthy lucre liveに惑わされたか。

意味としては"地獄から出てきたような便所みたいなオマエの貞操にはなんの汚れもない"という、ひどい言葉。ひどすぎて公表できなかったのだろうか。

kiss thisだとウェー みたいにしか聴こえないが、
filthy lucre liveだと filthと言っているように聴こえる。
多分あってるでしょう。

(*)の箇所はよくわからないところ

Suburban kid, ain't got no name
you're two ton body and you're got no brain(*)
I bet you're so happy at your suburbian dreams
But I'm only laughing you ain't in my scheme(*)

You only ever listen when you're on the phone
From your safely with **** at home(*)
And when I got nothin' better to do
And there is always you
You're good for my shoe

You're lookin' me and ya just can't tell
You're lookin' like ya just come outta hell
Lookin like a dirty labatory
There ain't no filth for your chastity

Tryin' to join a scene but you're so obscene
You're looking like a big fat pig bite bean(*)
And you figured out you can't be any use
'Cause you gonna get is my abuse

You know I don't like where you come from
It's just a satellite of London
And when you look me in the eye
I just remember I wanna die


サーチして出てくる歌詞を基本にしたが、全く抜けている箇所があり、
どう聴いても違っているところがあるので、自分の耳で確認した。

自分で聞き取ったのは以下の部分

Lookin like a dirty labatory
There ain't no filth for your chastity

Tryin' to join a scene but you're so obscene
You're looking like a big fat pig bite bean(*)

obsceneの行がわかったときはうれしかった。一日中聴いてやっとわかった。
その次の"big fat pig bite bean"は釈然としないのだが何度聴いてもこう聴こえる。
こんな表現があるかしらないが、"でかい太ったブタがたべるエサ"みたいな意味かと想像した。


you're two ton body and you're got no brain

は、”2トンもあるデカイ体に脳みそは無い”


今更だけど、これ、ラップだな。

2010/08/01

アウトレイジ

武の映画はbrother以降、dollsは見逃したが、必ず劇場で観ているが、これは観なくていいかな、と思っていたのだが、上映館が次第に減り始めるとやっぱり観ずにはいられなかった。

takeshis'以降、ちょっとおかしいなという作品が続いていたが、今回は切れ味が戻った。

ただし、今回の作品にはロマンというか、スピリッツというか、そういうものが全くない。
それは意識されたものかもしれないが。

映画でのヤクザの抗争というのはみんなそうかもしれないが、この映画では特に、まったくの抗争のための抗争である。

そもそもきっかけが、ヤクザの一番偉い男が、「おまえ最近あいつと仲がいいらしいな」とかいう、全く感情移入もなにもできないことである。ひょんなことから大騒ぎになった、みたいな、軽いというか、透明な話である。

2010/07/02

文学論

2007/04/05(Thu) 00:41

文学とは笑えない皮肉であるというのが私の定義です。
笑えないというのはしゃれにならないとか不謹慎とか言う意味ではなく、
皮肉のように事実をそのままではなく遠まわしにほのめかす、これが文学の真髄だという意味です。
さらに詩は、笑えない駄洒落である。
詩は韻を踏んだり文字数を合わせたりしますが、
これは駄洒落と同根なもので、駄洒落でもおもしろおかしくない、まじめくさったことを書くのが、
もっというと無意味な事を書くのが詩であると、気づいたのです。

私は趣味というか自己鍛錬というか狂気の防止のために読書をします。
読む事も書くことも仕事ではありません。

仕事でも話したり文章を書いたりしますが、当然ながら文学と事務の文章は別のものです。
事務では遠まわしにほのめかすのは厳禁で、読み手によって受け取り方が異なるような文章を書いてはなりません。
味気なくてもくどくても洗練されていなくても、簡潔にして明快で味も素っ気もない文章でなければなりません。

しかし、私は事務でも悪い意味で文学的な文章をよく目にします。
人が事務で文学的になってしまう時というのは、言うに言えないことを言うときです。
それは弁解だったり愚痴だったり文句だったり罵倒だったり拒否だったり依頼だったりしますが・・・

2007/04/12(Thu) 00:16
MicrosoftWordで、助詞「の」が連続して使用されると、「の」が連続しているという注意を受ける。たとえば、「私の家のトイレのドアが壊れた」とか。また、行頭に英単語を書くと、先頭が大文字、2文字目が小文字にされる。この機能はオフにすることができるが、非常にわずらわしい機能である。ほかにもいろいろチェックされる内容はあるが、この二つは特にイライラする。助詞「の」の連続については、いったい誰がそんなことを不適切だと言っているのか、つれて来い、と言いたいくらいだ。

私は文章の書き方についてはちょっとこだわりがあるし自信もある。

川端康成がノーベル賞を受賞した時に「美しい日本の私」という題名の講演をおこなった。このときある記者が美しいという形容詞は日本と私のどちらにかかるのか、という質問をしたらしい。川端康成は確か何も答えなかったと記憶している。どこのバカが「日本にいる私という人間は美しい」などという題名の講演をするだろうか!!!!しかも、ノーベル賞、それも文学賞だぞ?

このような表現は、日本語にはよくあるが、それを日本語の欠陥であるとするのは、アサハカである。このような表現は、使用されている単語からどのような意図であるかを汲み取るのである。そう、これが大事な事である。私も最近気づいたのだが、日本語に限らず、言葉というものは、何が書かれているかではなく、何を言おうとしているのかを読み取らないと、理解できない。英語だろうがドイツ語だろうが、誰が読んでも全く同じ解釈しかできない文章などというものは、存在しない。その文章が書かれた場所、誰が書いたか、いつ書いたか、誰に向けて書かれたか、そういうことを総合的に考慮していったい何を言わんとしているのか、と理解せねばならない。もちろん、書き手にも何を言わんとしているかを誤解されぬように伝える努力は必要である。

この時、言わんとすることというのは、何も事実だけとは限らない。ニュースや論文、契約書では言葉は事実を伝達するメディアに徹するが、文学的な表現ではメディア自体が表現に含まれてくる。このことを、「文学はわざとあいまいに表現して読み手に解釈をゆだねる」というのは間違いである。わたしもそう思っていたことがあったが、そうではない。あいまいにするのは事実だけであって、伝えたいイメージや感情、心情などはあいまいではないのである。「ほのめかし」は文学の基本要素であるが、ほのめかすこと自体が目的ではない。

このことを意識したのは、ニューロマンサーを読んだ後、暗夜行路を読んだ時である。どちらも読むのに苦労した。暗夜はまだ終わっていない。この二つのまったくジャンルの違う作品には、一文が短く、説明的描写が非常に少ないと言う共通点がある。そのため、一つ一つの文章を取り出して凝視してしまうと、作者の意図が見えなくなる。短い文章の連続によって、作者の表現したいものがあぶりだされていく。一文一文から受け取られるヒントのようなものを積み重ねて、ある一文でボン!と具象化する、そのような読み方が必要だ。

しょせん文学はフィクションである。どんなに精密に組み立てられていたって、それは作者が頭の中ででっちあげたものである。誰が死のうが、失恋しようが、泣こうが笑おうが作者のサジ加減一つだ。それを人に話してニヤリとさせる、そういう「ゴッコ」であるから、こちらも乗ってあげないと成立しない。

08/04/10(Thu) 20:48
U氏のブログに、文学とは何かということをほとんど説明していると思えるような話が載っていた。あんな先生に教わってみたいものだ。文学というのは、何か伝えたいことを文章によって表現するものであるが、そのときのことばという媒体は、電気信号を伝えるケーブルのようなものではない、ということである。それは、伝えたいことが非常に複雑精妙であることもあるが、それも本質ではない。ごく単純な簡単なことでも、芸術作品としての文章と、たんなる伝言とは違うのである。

08/05/09(Fri) 19:08
二人のU氏に文章の書き方のヒントをもらった。一人のU氏には実演を見せてもらい、もう一人のU氏にはその仕組みを、有名な作家を例に説明していた。その作家の作品も読んでみた。そしてそれらを私なりに解釈してみたので整理してみる。

たぶん、一人のU氏は無自覚に、自分の読んだ本や人との会話などからその感覚を身に着けているだろう。もう一人のU氏は大学教授だから、その仕組みを研究して論理的に他人に説明しようとしてる。もしかしたら私はU教授の伝えたいことを理解していないかもしれないが、それでも、私は彼の話をヒントに重要なことを気づかせてもらった。自分でそれができたかなと思ったのは、駅でベビーカーを押していた男に進路をゆずった話を書いたときである。いつもなら、このように書いていただろう。

「駅で電車を待っていたらベビーカーを押した男が来た。よけるつもりはなかったが男がいっこうに進路を変える気配がないので、しぶしぶ後ろにさがった」

しかし、U氏達からのヒントをもらって、このように書いた。

「駅で電車を待っていたらベビーカーを押した男が来た。『子供がいるからって別にお前が偉いわけじゃねえだろ。絶対ゆずらねえぞ』。1m手前まで来たところで3歩後ろにさがった」

自分の心の声と、1mとか3歩とかいう具体的な数字を書いているのが違うのは、すぐにわかる。しかし、本質的な違いは、具体的かどうかということではない。視点を、自分の目ではなく自分を含めた情景を見るように変えているのである。簡単に言ってしまうと「自分を客観的に見た」ということになる。ただそれだけかもしれない。それがようやくできたのかもしれない。でも、自分の手ごたえとしてはただそれだけではない。

坂口安吾が太宰治について、「マイコメディアン」になりきれているかどうか、という観点から、作品のよしあしを判断していたのを読んだことがある。それによるとなりきれていたのは、魚服記、斜陽などで、人間失格は「二日酔い的」でダメで、「あれは見せちゃいけない」というのである。

これを読んだときにも私は、要するに自分を客観視できているか、第三者として書けているか、というようなことだと理解していたが、そんな簡単な話でもないかなとは思っていた。

最近お笑いやフリートーク番組がはやって、「ボケとツッコミ」という概念が広まった。先ほどの例でいうと、最初の例はツッコミが過剰で説明的なのである。後の例はゆずる男をボケさせ、さらに「結局譲ってんじゃねえかよ」というツッコミを読者の心に引き起こしている。そこがおもしろいのである。

こうすれば、何気ない日常の出来事が小話として成立する。「オチがない」というのは、ストーリー的にどんでん返しがないということではなくて、描写のしかたのことを言っているのであると、最近ようやく気づいた。

08/05/09(Fri) 19:09
文学には描写の要素があるが、描写ではない。私は小学生の頃作文が苦手だった。まず、何も書けない。書くことがない。原稿用紙3枚なんて、とんでもない量だった。その頃は作文というのは情景描写であると思っていたし、先生もそういうものだと説明していた。しかし、文章を書くというのはカメラで景色をフィルムに焼き付けるというよりも、映写機でスクリーンに映しだす行為に近い。自分から写しだしていくのである。受動的ではない、能動的な行為なのである。

悪く言うと、「口からでまかせ」という感じである。その感覚をつかむと、便秘が解消されたかのように文章が流れ出ていく。わたしも中学から高校にかけて、描写ではなく独り言のように書くことをおぼえて、文章を書くのが好きになっていった。もちろん、本当の独り言になってはいけない。言葉も、感情や論理をむき出しにしては、つまらなくなる。

感情を抑えるとはよくいわれるが、論理をむき出しにしてもつまらなくなる。それはいわゆる起承転結というか、全体の構成を考えることである。文章でも絵画でも、全体の構成を考えろ、ということはよく言われる。思いつきで書いていてはいけないという。わたしはこれが苦手で、そんな書き方はまずしたことがない。してもたいてい駄作になる。

全体のことはさておいてとりあえず突き進んで、なんとなく体裁が整うように取り繕うように、結果オーライな感じで進めた方が、いいものになる。そして、今にして思うと、それでいいのではないだろうか。プロの作家も画家も、当然構成を考えはするのだろう。しかしそれはソフトウェアでいう仕様書のようなもの、旅行の計画のようなもので、予定変更ややり直しや後付けが当然なのではないだろうか。

平野啓一郎の日蝕は、確か資料収集に1年だか2年だかかけたという話を聞いた。緻密な、何重ものプロットが隠されているという話も聞いた。でも、だからといって、その資料、構成、プロットにしたがって、プラモデルでも作るように機械的にくみ上げていったとは到底思えない。
絶対に、自由に、インスピレーションのわくままに筆を走らせていく工程があるはずだ。
そして、その工程なしに芸術作品は成立しえないはずだ。

09/06/21(Sun) 09:39
文学の主目的はストーリーではない。おもしろおかしいお話しを作ることではない。
人間としてあるべき姿を描くことでもない。
しかし、文章表現の巧みさを競うことでもない。
文章そのものは、やはり文学の手段であって、目的ではない。
真実を伝えることでもない。
「美の表現」、これが文学の至上の目的である。

09/06/21(Sun) 09:42
そのことだけなら、私もしばらく前にそうだろうな、と考えたことである。
しかし、それでも私を悩ませ続けたのは、「怪しからん話を書くこと」の是非である。
要は、「太宰治の作品は評価していいのか」ということである。

09/06/21(Sun) 09:44
私は、「美が究極の目的であるなら、美文で殺戮を描いた作品が文学として成立するのか」という疑問に答えが出せなかった。
答えはノーであるとは思うのだが、どうしてそれがダメなのかが説明できなかった。

09/06/21(Sun) 09:47
しかし、さっき床屋で髪を切られながら目をつぶっていたときにわかった。
表現するものは美であって善ではない。問題は表現されているものであって、
その媒体である文章ではない。「美しい文章」「美文」「文章がうまい」というのはよく言われるが、それはある意味「だけど怪しからん」「だけどくだらない」「だけど中身がない」などと、最終的には非難される場合に使われることが多いと思う。
芥川龍之介や三島由紀夫がそうである。太宰もそうかな。

09/06/21(Sun) 09:52
「美しい文章だ」というのは、「その文章が表現しているものが美しい」というのと、
「文章そのものが美しい」というのが混同して使われていると思う。
そしておそらく、「表現しているものは美しくないが文章自体は美しい」などということは、
ありえない。
人が文章を読むと、ただちにそれが表現しているものがその人の脳内あるいは心に浮かぶ。
人がその文章について評価できるのはその「浮かんだもの」に対してでしかない。

09/06/21(Sun) 09:55
いや、「美しい文章で醜いものを表現する」ということはありうるだろう。
しかし、そのときにいう「美しい文章」というのは、せいぜいが文法的に正しく、無駄がなく、矛盾がなく、言葉の選択が適当である、という程度のことである。
そして、そういう意味での美しさなら、新聞記者や論文を書く学者の文章にもあるのだ。
私のいう「文学」とは、「文章を媒体とした芸術表現」のことである。
評論とか、文学を学問として研究することを言っているのではない。

09/06/21(Sun) 09:57
表現されるものが至上目的であるから、それが美しければ、駄文であろうが、
誤字脱字、文法が間違っていてもよいのである。
そして、先ほど言ったような狭い意味での「美しい文章」を目指していると、表現するもの自体の美がおろそかになり、よく言われる「文章は美しいが中身がない」という失敗となるのだ。

09/06/21(Sun) 10:01
そして、映画、音楽、CG、写真、絵画などにはない、文学にしか表現できない美というものがある。
どんなに文明が進歩して、科学技術が発展しても、文学は永遠に無くならないだろう。
映画に匂いがついても、立体化しても、登場人物に触れたり会話したりできるようになっても、
温度や圧力まで感じられるようになったとしても。

09/06/21(Sun) 10:04
私は子供のころは、「本」を読むときにはそこから映像を描いてそれを見ていた。
木でできた人形が歩き出して、嘘をついたら鼻が伸びて、学校へ行かずに遊んでいたらロバになる・・・。挿絵もあったのだが、それを参考に、いろんなシーンを頭の中に映像化して楽しんでいた。

09/06/21(Sun) 10:06
しかし、その読書法は中学生の頃に破綻した。大人向けの本が読めなくなった。
そしてマンガばかり読むようになった。
マンガは美しかった。文学などは退屈極まりないものに思えた。
テレビや映画もある。文学なんて過去の遺物だ、不便だったときに仕方なく文字で書いたのだ、などとさえ思ったこともあった。

09/06/21(Sun) 10:09
よく言われるのが、「マンガ・映画などはイメージが勝手に頭のなかに入ってくるが、文学(たいてい「読書」という言葉が使われるが)は自分の頭を使って描く」ということで、
だからマンガを読んでテレビばかり見ていると馬鹿になるよ、と言う。
これは雑な言い方ではあるが、ほとんど真理である。

09/06/21(Sun) 10:13
しかし、気をつけなければいけないのは、マンガや映画の「映像」と、文学で表現される「映像」が同じものではないと言うことである。
マンガや映画では媒体が「映像」になっているだけで、表現したいものは別にあるのである。
そして、文学で表現しているのは「映像」つまり人の姿カタチや動作、風景、町並みなどももちろん含まれるが、それだけではない。それは音とか暑さ寒さとかというだけの話ではない。
それを見ている人の心理、そこから感じられる感情、心情、というものが含まれる。

09/06/21(Sun) 10:15
「マンガやテレビで馬鹿になる」というのは、その媒体にすぎない映像が、本当に表現したいものだと勘違いしてしまった場合である。
そして、実際にマンガやテレビにおいては、表現者自身が勘違いしてしまっているケースが非常に多い。
文学では表現目的がわかっていないと話にならないが、マンガやテレビではそれらしい姿かたちを並べればなんとなくカタチになって成立してしまうからだ。

09/06/21(Sun) 10:22
いわゆる「大衆文学」と「純文学」の違いもそこである。
純文学かどうかというのは、表現しているものが単なる見た目の美しさや面白さであるか、
それを超えたものであるかによる。
「見た目」というのは単なる視覚的という意味ではない。
心理や感情といったことを描けばいいわけでもない。真理や感情にも皮相的なものがある。

09/06/21(Sun) 10:42
さあ、ここまではごく常識的なところだろう。
問題はここからである。
芸術と道徳は相容れるのか?
もっというと、芸術と信仰は相容れるのか?
と言う問題である。

私は二十歳の頃に、「相容れない。芸術は堕落だ。」
という中世の教会のような頑迷な結論に達し、
それ以来社会を腐敗堕落した愚か者が築いたむなしい虚像であるとみなして
あざ笑いながら生きてきた。

09/06/21(Sun) 10:43
その考えは今もほとんど変わっていない。
芸術なんか、不良のやるものだ。
芸術なんか、弱虫の、負け犬の慰み者だ。
もしくは、金持ちが暇つぶしにやる道楽だ。
そう思っている。
でも、そんなはずはない、とも思っている。

09/06/21(Sun) 10:45
許せないのは、そういう迷いも悩みも感じることなく、
教養のために芸術をたしなんでます、アレはいいよね、
たまにはこういうものもたしなまないとね、
などと語っている奴等である。

09/06/24(Wed) 23:44
文学の本質はどういうものかを語った言葉で覚えているものが二つある。
ひとつは浅田次郎で、夜焼きそばを作ろうと思ったときに、突然世界が降りてきた、というものである。
「世界」という言葉だったかは定かでないが、とにかく、ストーリーでも人物でもない、ある全体的な雰囲気のようなもの、
それを表現することが小説だというのである。

もうひとつは、また太宰である。
これは何かの作中の言葉であるが、濡らした紙にさっと写し取るような、というような言葉。
これも正確な言葉は覚えていないが、やはり、部品を積むようなものではない、
全体を捉える、表現する、ということだ。

09/06/24(Wed) 23:48
「素朴な、自然のもの、従つて簡潔な鮮明なもの、そいつをさつと一挙動で掴まへて、そのままに紙にうつしとること」

富嶽百景でした。

Mon Apr 26 04:47:54 2010
「箇条書きでいいから」

というのは、仕事をしているとよく聞く言葉です。
学校でもあったかな?

これは、箇条書きで事実を羅列することは、まとまった文章を書くよりも簡単であると、人が考えていることをあらわします。

しかし、本当にそうでしょうか。
わたしは、むしろ箇条書きにするほうが大変で、
意図も伝わらないので不便だと感じます。

Mon Apr 26 04:51:38 2010
多分、ふだん文章を書かない人、文章は他人に用件を伝えるためのものだと考えている人にとっては、箇条書きのほうが簡単なのかもしれません。

私は、このひとり掲示板もそうですが、書いているうちに思考がまとまるということを何度も経験しています。
自分が考えていること、体験したことをそのまま描写するような文章は、あまり興味がありません。

私は、自分の中にある、形の無いもの、意味がわからないもの、どうしようもないものを、
言葉にすることによって、安心するのです。

それは、仕事でもないし、奉仕でもない。
祈りのようなものかもしれない。

Mon Apr 26 04:54:48 2010
祈りというのは、自分や他人によかれと、幸福が訪れよと、お願いするものではない。
祈りとは、決意表明であり、神への慰めであり、賛美である。

文章も同様である。
行動も同様である。

われわれのすべての行動、発言、書く文書、それらは、祈りなのである。
思考を描写するようなものではない。

行動すること、言うこと、書くことによって、自分が作られていく。
書くことそのものが、自分なのである。

Fri Jul 2 07:18:23 2010
作家がある状況を描き、何人かの人物を登場させて何かを語らせる。その発言が抽象的で、特定の主義や思想を語るような場合、それが小説であり、架空の物語であり、作者が作り出した虚構であることが意味を持つ。
虚構であるように見せかけて作者の言いたいことを語る場合もあるだろう。逆に、ある思想が滑稽だったり醜悪だったりあるいは非現実的だったりすることをあらわにする効果もあるだろう。

Fri Jul 2 07:20:04 2010
だが、多分たいていの場合は作者もわかっていないのだ。登場人物に語り合わせてみて、何か新しいものが生まれる。または、語り合っても何も生まれない、ということがわかる。二人で徹底して語りあった後に、お互いが主張していたことと全く関係のないことに意気投合するかもしれない。

2010/06/26

フリードリヒ・A・ハイエク 「隷従への道」

あるブロガーがすすめていたので買ってあったが読めずにいた本。

この著者名を見ればそのブロガーが誰かはすぐにわかるだろう。
別に名前を出しても問題はないのだが万一ググられて「知識人」が迷い込んで笑われるのもイヤなので、名前は書かない。

そのブロガー(以後I先生とする)がすすめた本でもう一冊買ったものがありそれはドゥールズという人のものである。
これも読めずに置いてある。

I先生のすすめる本はどれも読めない。彼は高校生のときにドストエフスキー全集を読破したそうだ。またしきりにマルクスをほめている。それは彼と犬猿の仲であるこれも有名ブロガーのU先生も同じだ。最近マルクスを褒める人をよく見る。というか、今人文系の大学教授になっているような人でマルクスを否定する人を見つけるほうが難しい。

マルクスの本は最近ちょろちょろと読んでいるが、何が書いてあろうと、本気で熟読することはないだろう。

さてハイエクのこの本であるが、要するにヒトラーが政権をとるようなことになったのは何故か、というようなことを考察したもののようなのだが、なんとも薄味と言うか歯切れが悪いというか、とらえようのない文章である。

頑張って少し読んでみたのだが、「社会主義は幻想だった」というようなことが回りくどく書かれている。

全体主義、集産主義、共産主義、という言葉もでてくるが、社会主義をメインに書かれている。
「社会主義がなぜ失敗したのか」あるいは「社会主義が間違って進んだ方向を正そう」というような意図がありそうでそれもはっきりしない。

とにかく容易な断定を避けている。
1943年に書かれている。

好き勝手に書いていたら眠くなった。
またあらためて。


2010/06/19

リングにかけろ

について書いたことあっただろうか。
私の人生のバイブルといってもいいこの漫画について。

リングにかけろの漫画史における位置は非常に重要である。
この作品は、「スポ根」と呼ばれていたジャンルがファンタジーへ移行する転換期の作品である。
リングにかけろが終わる頃始まったのが、ドラゴンボール、北斗の拳という伝説的な名作である(実は私はほとんど読んでいないのだが一般的な認知度において)。

梶原一騎が確立したスポ根ものがマンネリ化したところで、
もはや現実世界とは一線を隠した世界でのバトルが始まった、それがリングにかけろであったのである。

作者の談によると竜児という主人公の名前、幼児は泣き虫だったこと、姉に厳しく育てられる事などは「竜馬が行く」の影響らしい。
しかしやはりボクシング漫画であるのであしたのジョーの影響を強く受けている事は間違いない。特に最初の剣崎との試合は少年院での力石とジョーの試合をパクっているといわれてもしかたがないだろう。

そう、リンかけも最初はスポ根だったのだ。
それが途中から脱皮するかのように変化していく。
アストロ球団の影響もあったかもしれない。

リンかけは単行本で25巻ある。もちろん買って全巻揃えた。当時はジャンプを毎週買っていて、単行本の発売を知ると本屋に電話して予約して取りおきしてもらっていた。集め始めた時2巻まででてたかな?なので最初は初版じゃないけど、その後はみんな初版。13巻だけ予約をし忘れて初版じゃなかった。予約しないと売り切れてしまうくらい人気だったんだよ、当時は。

おおざっぱに区切ると以下のようになる。

上京編
都大会
全国大会(チャンピオンカーニバル)
日米戦
影道
世界大会
ギリシア12神
阿修羅
プロ編

竜児がブーメランフックを会得するのは全国大会が始まる前である。
左ジャブと右ストレートしか知らなかった竜児に教えた次のパンチが左フックだったのだが、竜児はその左フックを打つときにこぶしをひねるというクセがあり、それがブーメランフックとなったのである。
しかし、ブーメランフックの威力はすさまじく、相手のランニングシャツが切り裂かれてしまうほどなのである。たんなるコークスクリューブローでは説明がつかない。しかし車田正美はブーメランフックはコークスクリューブローである、という以外の釈明を一切していない。
そして、コークスクリューブローというのもあしたのジョーからの「オマージュ」である。

単なるコークスクリューブローを「ブーメランフック」と名づけてスーパーブローに仕立て上げたこと、これが車田の革新であった。
しかしこの手法はアストロ球団のジャコビニ流星打法とかの影響であろう。

全国大会の決勝では河合武士と闘うのだが、彼はアッパーカットを得意とするボクサーで、今思えばここにも力石とジョーの影響が見える。
おそらく作者自身もあしたのジョーの二番煎じであるという意識はあったはずだ。

ここで憎いのが、主人公のライバルである剣崎が、左手を負傷して全国大会に出場しない、という設定である。これは作者が後先考えずに都大会で剣崎の左手をボロボロにしてしまっただけなのかもしれないが・・・

竜児のブーメランフックの次にスーパーブローを披露したのは支那虎のローリングサンダーである。神業的ディフェンス、右手が不自由で左手一本で闘うボクサー。ありえなさすぎる設定。たしか0.1秒間に3発。スペシャルでは0.01秒間に5発だったか?

日米決戦で剣崎が復活。
世界大会で5人がスーパーブローを持つ。
剣崎だけはドイツ戦まで温存。本当は決勝戦までとっておこうと思ったが
準決勝でスコルピオンに対して初披露して代々木オリンピックスタジアムのガラスを突き破って場外に吹ッ飛ばす。

私は日本人が欧米人を蔑称する「毛唐」という言葉をリンかけでおぼえた。

決勝:ギリシア
準決勝:ドイツ
準々決勝:フランス
その前:イタリア

こんな感じだったかな。
フランス戦の時には剣崎以外はスーパーブローを用意していたはず。

もともと少年ジャンプの対象読者層は小学生から中学生であった。
竜児も中学生だった。なんと、プロ入り前までのすべては、
中学生の時のハナシなのである。
しかも都大会やら全国大会なら3回あるはずなのだが、1回しかでてこない。
「あんまり強すぎるから出場禁止になった」なんていういい訳が
阿修羅編開始時にでてくるが読者としてはもう、そんなこと、どうでもよかった。

18歳にならないと取得できないプロのライセンスを特例で取得した剣崎。
リンかけだからまあそれくらいなら驚かない。
しかし車田氏がただものでなかったのは、そのデビュー戦が世界タイトルマッチだと言う事。多分現実にはありえない。大財閥の御曹司だからということになってたけど。
とどめをさしたのがチャンピオンの名前、ジーザス・クライスト。
私はそれをある本屋で立ち読みしたのだが、その時のことはよーく覚えている。
立ち読みしているのに人目もはばからず笑ったのだ。くだらないとかいうのではない、自分でもなんでわらってるんだろって不思議におもったけど、ワラってしまったのだ。

私がリンかけの数々の死闘のなかでベストだと譲らないのが、
この剣崎のデビュー戦にして世界タイトルを奪取した試合である。
この試合のときはジャンプも特別扱いで、2週連続巻頭カラーというたしか前代未聞の扱いだったのである。

世界大会の後くらいからは、もう、詩である。
スポーツとか、青春とか、そんなものを超越した、詩である。

全巻入手した。久しぶりに読むがやっぱりもう頭の中にしみついていてとてもじっくり読む気になれないが、名場面はやっぱり素晴らしい。都大会の決勝で、剣崎は竜が放った渾身の右にあわせたカウンターの左でどこかがブチ切れた。そして渡米する。アメリカでケンカしたときは右腕一本で、治療を終えて帰国後の初戦では負傷が癒えた左手一本で相手を倒す。竜虎の激突は都大会以降は最後の世界タイトル戦までない。その試合では、お互いのスーパーブローの相打ちで、剣崎は右腕、竜は左腕を壊す。竜二のスーパーブローはずっと左手だったので、その時点で皆ファントムを残す剣崎が勝ったと思ったのだが竜二はレインボーというスーパーブローを会得していた。結局竜二が最後に勝利をつかんだのは右腕だったのである。あれだけ左を制するものはといっておきながら、結局最後世界を制したのは右であった。竜二というのはもう透明なくらいに無性格である。あんなに無性格な主人公もめずらしい。でも、そこがリンかけの成功の大きな要因の一つであったと思う。主人公が個性的な作品というのは、作者も読者も主人公自体に思い入れが強すぎてしまって作品全体としては破綻しがちな傾向があるように思う。個性的な人物を描くときには、主人公にしてはならない。

竜は努力家として描かれていたが、最後の最後にもしかして剣崎を超える天才なんじゃないかということになる。

今回初めて感じたことだが、この漫画には少女マンガのような匂いを感じる。車田はオトコ臭いことを主張しているようだが、感覚は女性的なものがある。

4巻は泣ける。竜が菊のいいつけを破ってパワーリストをはずしてしまい右こぶしをケガするのだが顧問のセンセが聖華学院との練習試合を承諾してしまって竜は断りきれずに試合に臨む。ん?待てよ。

この試合でセンセは男子の一諾だのなんだの言うのだが、そもそもあんたが適当に試合を引き受けたからこんなことになったんじゃないのか?

今16巻読んでみたんだけど、この第一部の終わり方はちょっとひどいな。もうリンかけにあきちゃってたのかな。最後の竜とアポロンの試合は最後アポロンを場外に吹っ飛ばすんだけど竜も倒れてるんだよね。ダブルノックダウンじゃないのか?より遠くに飛ばしたほうが勝ちなのかよって笑ってしまった。

リンかけの数々の名シーンのひとつ。
剣崎が左腕を怪我してアメリカへ治療に行ったときに、白人といざこざをおこす。
きっかけはなんだったか忘れたが、剣崎がお前なんか右手一本で倒せると言うと、
白人は笑って人差し指を突き出し、1分で倒してみせる、と言った。

すると剣崎は親指を立てた。
白人は「ジャップおとくいのサルマネか?」といって笑うと、剣崎は
「ワンセコンド」つまり、1秒で倒せると言った。

白人が逆上して殴りかかると剣崎はワンパンチで倒して予告を実現する。

その白人はどこから持ち出したのか拳銃を構える。

・・・そこへ誰かが現れたんだっとと思ったけど忘れた。

その渡米のさいに、空港で菊が送りに来る。

ガクランを来て左腕をつった剣崎に、菊がお守りを渡す。

剣崎は田舎モンの思いつく餞別だななどと鼻で笑うと、
菊は「いらないならいいよ、捨てっから」と言う。
すると剣崎はお守りを持った菊の腕をガシっとつかみ、菊を見つめながら
「俺が捨ててやるよ、アメリカのドブ川にな・・・」

と言ってお守りを奪い取る。

そして二人は別れ、二人とも滂沱の涙を流す・・・

そして剣崎はそのお守りを肌身はなさず持ち続け、後のギリシア12神との対決で、
相手のスーパーブローに吹き飛ばされてコーナーポストに胸を強打するが、そのお守りのおかげで一命を取りとめる。

剣崎は菊の弟である竜二とのタイトルマッチに敗れた後、菊と教会で結婚式をあげる・・・。

菊は後に麟童という男児を生む。
リングにかけろ2の主人公である。

・・・と、リンかけ2のことを調べていたら、後半に「竜童」とかいう俺のしらないキャラが登場したようだ。
絵を見ると完全に竜二だ。

竜二の隠し子か。さすが車田正美・・・。


なんせリンかけの続編だからそりゃあ俺も注目して、しかし2以外は興味が無いし一話なんか10秒くらいで読み終わるから立ち読みしたりマンガ喫茶で読んだりしていたのだが、1にくらべて絵も話も雑で、ファン達にも評価は低いようである。



2010/05/17

カール・マルクス 「賃金・価格および利潤」

「賃金・価格および利潤」 カール・マルクス 長谷部文雄訳


欲しかった本を買おうとジュンク堂へ行ったのだが、一番欲しかったボルヘスの伝奇集がなかった。岩波文庫の書棚を久しぶりに眺めて、何冊か読みたいなと思うものがあったのだが、
何を思ったか、マルクスをとった。

私はオンチといっていいほど経済学に無知で、嫌いでもある。
だが、賃金、価格、利潤といったものについては、ある程度仕事をして給料をもらっている身として、また、最近の不況について猫も杓子も語るのを見ていて、いやでも考えさせられたことである。
素朴に疑問に感じていたことは、「利潤を得ることはどうして許されるか」ということであった。

私は国富論も読みかけたことがある。そして最初のほうで、「利潤とは先行投資に対する利子である」というようなことが書いてあり、いちおう納得して、最後まで読み通さなかった。

マルクスについては、簡単に言ってしまうと「共産主義という悪魔の思想を生んだ人」と考えていた。
「宗教はアヘンである」と言ったというのもきいたことがある。
一方、いわゆる「マルクシズム」というものは、マルクス本人の思想とは全く別の物だと言った、
ということもきいたことがある。

また、共産主義とはどういうものなのか、についても、話をきいたり読んだりして、
おぼろげながら知っているが、破綻し失敗に終わったと理解している。

でも、マルクスが実際にどういうことを書いていたのかは、知らなかった。
大学の教養課程で選択した授業で、「経済・哲学草稿」が教科書だったことがあるのだが、
何がいいたいのかさっぱりわからず、授業もそのうち出なくなってしまった。

さて、というわけで初めて彼の書いたまとまったものを読んでみた。
薄い本であるが、なかなかおもしろく、一気に読んでしまった。
私が一冊の本を一気に読むなんてことは、めったにない。

意外に常識的なことを述べていて、需要と供給による価格調整のことも否定しておらず、
一体何がマルクシズムなのか?と最初は思っていたが、
だんだんマルクスも興奮してきたのか、キナ臭くなってきて、
最終的には「賃金制度は廃止されるべき」などという極論を言っている。

左翼的な傾向の人の話を聞いたり本を読んだりして感じることは、「虫がいい」ということである。
サルトルを読んだときにも感じた。一見論理的で、人がなんとなく受け入れていることについて、
矛盾を指摘して合理的にスパスパと解決して小気味よいかのように感じるのだが、
どこか、「でもそんなに簡単に割り切れるだろうか?」と、さめた目で見てしまうところがある。
少なくとも、読んで心が躍り、目が開け、希望を感じることはない。

マルクスは、「資本家が労働者から搾取して不当な利益を得ている」と言った、というようなことは聞いていた。
だが、ここで重要な事がひとつわかった。
わたしも似たようなことを考えたことがある。「商品の価格には人件費も経費として含まれているのに、さらにそれに加えて利益を取るのはどういうわけか?」と。
そして、自分がそういう風に考えているのは、マルクスと同じ考えなのではないかと。
しかし、マルクスの考えは違った。
彼は、「資本家は商品の価値以上の利益を得ている」とは考えなかった。
「資本家は商品の価値を価格として設定しているが、そのために必要な労働力の対価を正当に支払っていない」
と言うのである。

つまり、私は「資本家は客からボッタくっている」と考えたのだが、
マルクスは、「資本家は労働者からボッタくっている」と考えたのだ。

なるほど、本来の価値以上の価格をつけたら消費者は買わないから、
売るためには適当な価格をつける必要がある、というのはもっともだ。
だが、これは意外であった。実際にはどう考えても価値のないものに高価格がつくからだ。
しかし、それはまた別の問題だろう。

だが、商品の価値というものは、労働と交換されるものではなくて、労働によって生み出されるものではないか。
というか、商品に付加価値をつけるのが労働であり、それだから賃金が得られるのであって、
確かに資本家は労働力によって生み出された価値のすべてを労働者に還元しないが、
それは商品を生産するために必要な材料やら工場やらを先行的に準備するのだから、
その利子と考えれば不当とは言えない。

まあ、これくらいのことなら、誰でも考えるだろう。
でも、私がいつもマルクスとか共産主義とかについて考えることは、
どうしてこんなことに人々が熱狂して、それに基づいた国家まで出現するに至ったのか、ということである。
そんなに人間は愚かだとは思えないのだ。
ヒトラーについても同じである。ユダヤ人を滅ぼすなどという考えに、どうしていい大人が、
国民が、同意してしまうのだろうか?
とても理解ができない。もっと複雑な事情、あるいは精緻な論理が絶対にあったはずなのである。

昨夜のマルクスショックは日中にも尾を引いていた。
そして、なんだか、中学から高校くらいの時期を思い出して切ないような気持ちになった。
共産主義と言えばある時代には若者がとりつかれるものであった。
若者の思想であった。

何が若者をひきつけるのだろうか。

貧しくて非力な存在が、社会をひっくり返せるような気になるからだろうか。
しかし、共産主義というのは、少なくとも今では、カッコのいいものではない。
なんだか金持ちを嫉んでいるような、自分が貧乏で無力でなんの才能もないことを告白するようなものだ。


2010/05/01

クリストファー・ロビン

クリストファー・ロビンという登場人物をご存知だろうか。

彼はくまのプーさんにおいて、私たちを物語と現実世界のあいだに行き来させる仲介者である。

私はその挿絵とともに、強烈に覚えている。
クリストファーロビンが、くまのぬいぐるみの手だか足だかを持って、
それをひきずって階段を登っている絵である。

そのぬいぐるみがプーさんである。

あのかわいいプーさんを、クリストファーロビンはそんな風にあつかっていたのである。

そしてことあるごとに「ばっかなくまのやつ!(Silly Old Bear!)」と言うのである。

そして数々のエピソードは、おそらくクリストファーのおじいさんである作者が語る話である。



今思い出した。

私は高校生の時に女の子を部屋に連れてきたことがある。
最初で最後の事だ。

そのとき、彼女は私の本棚を見て、くまのプーさんを見つけて笑った。
「かわいい」とかなんとか言って。

そういう位置づけなのだ、くまのプーさんは。

でも、本当は、そんな「かわいい」と笑うような本ではない。


A.A.ミルン 「くまのプーさん」

iPhoneでiBooksを入れると、サンプルとして Winnie-the-Pooh がついてくる。
「くまのプーさん」である。

皆さんは、「くまのプーさん」を読んだことがあるだろうか?

私は読んだことがあるどころか、愛読書である。

初めて読んだのは小学校6年のころで、岩波少年文庫で買った。
石井桃子さんの翻訳である。

わたしはとても感動して、「プー横丁にたった家」も買った。
何度も繰り返し読んだ。

そして、学校で好きな本を紹介することになったときに、私は「くまのプーさん」を紹介した。

そのときの教室の空気は今思い出してもぞっとするくらいに、みんな引いていた。
担任の先生すら、引いていた。

「くまのプーさんなんか、幼稚園児が読む絵本だろ・・・」
みたいな声なき声が聞こえた。

しかしそれはディズニーのプーさんしか知らない人の考えだ。
もともとのプーさんは、おもしろおかしいクマの滑稽話などではない。

悲しい話のオンパレードである。

たとえば。

イーヨーというロバがいるのだが、その誕生日にプーとコブタ(Piglet)がプレゼントをすることになった。
プーはハチミツの入ったツボを、コブタは風船をプレゼントに選んだ。


しかし、プーは途中でハチミツを全部なめてしまい、コブタは転んで風船を割ってしまう。

プーは空っぽの壷を、コブタは割れた風船をイーヨーに渡す。

するとイーヨーは、割れた風船を壷に入れ、またそれを出して喜ぶのである。

涙なしに読めるか!?



2010/04/12

丸山真男 「日本の思想」

丸山真男の「日本の思想」を読もうと思った。

赤いボールペンで1ページ目から傍線が引いてある。
私にしては極めて珍しいことだ。

しかし、すぐに私は疑問を感じて読めなくなってしまった。
「思想」などというものに歴史などあるのだろうか?
人の思想が進歩したり受け継がれて発展していくことなど、あるのだろうか、と。

それは動物の獲得形質が遺伝しないという進化論の否定と同じことを意味する。

伝統的な思想と、欧米から輸入した思想。
伝統思想と外来思想。

ここで感じたことは、この「日本の思想」自体が「外来思想」によって、外来の方法によって語られているのではないか、ということだ。

その方法では日本の伝統的な思想はとらえどころの無い、なんの系統もない、曖昧で非論理的な、迷信のようなものとして受け取られているのではないか、ということだ。


2010/03/28

Bob Dylan Live at Zepp Tokyo 2010/03/28


ボブディランのライブを見るのは4回目である。最初は確か1994の武道館。あまりよくなかった。
その次が確か2001年。パシフィコ横浜と武道館に行った。これはよかった。

そして今年、スタンディングのホールでのライブとなった。本人がそういう会場を望んだと聞く。
私は高校生のときからDylanを聴きはじめ、アルバムはほとんど全部聴いている。聴いていないのはベストとかライブの一部だけだ。かなりのディラン通だと自負している。

今年は今までになくネットでの前評判がいやというほど入ってきていて、それがどれもこれも絶賛だった。そんなものはアテにはならないとはいえ、この絶賛振りは尋常ではない。期待が高まった。チケットは先行発売を逃して、正規発売日を待ってパソコンの前で準備していたが一瞬のうちに売切れてしまったので、Yahooオークションで手に入れた。定価よりちょっと高いくらいだったのは、場所があまりよくないからだったのは当日わかった。

zepp Tokyoは初めてだ。スタンディングとはどういうものなのか、まったく予想がつかなかったが、思ったよりも整然としていた。手すりのようなものがあって、区切られている。押し合いへしあいということもなく、満員電車よりちょっと空いてるくらいの感じだ。入場し終わったが開演まで40分くらいある。そのまま棒立ちで開演を待つ。

すでにiPhoneは電源を落としている。読むものも何も無く、ただつったって会場を見まわして待つ。年齢層は30代くらいが多かっただろうか。女性は少ない。目の前に白人と日本人女性のカップルがいて、どうしてもその女性をジロジロ見てしまう。会場には音楽が流れていたがそのうちラジオのDJのようなシャベリが流れ始めた。会場はこじんまりしている。もちろん武道館よりは狭い。ディファ有明と大きさや雰囲気が似ているように感じた。見上げると二階にも席がある。両脇にせり出したところに座っている人たちがいる。かなりのVIP席だ。どんな人が座っているのだろう・・・。5時になった。2階から英語でなにか叫び、拍手をする人がいる。まだか・・・

10分くらいすぎていただろうか、流れていたDJが途切れ、ちょっとおどろおどろしい音楽がながれ、場内が暗くなり、歓声があがった。明るくなるやいなや演奏が始まる。

Gonna change my way of thinkingだ。意表をつかれた。バンドメンバーはみな黒っぽい服を着ている。ステージ中央にいたのはDylan ではなくチャーリーセクストンだ。ディランはステージ右側にいて、カーボーイハットのような帽子をかぶってキーボードの前に立っている。音がでかい。ディランの声も割れている。一言で言うと、「ワルい」感じだ。クールさはない。会場もゆれている。さすがスタンディングだ。

2曲目は Love minus zero no limit。以後、苦い曲と甘い曲が交互に演奏されていった。うれしかったのが simple twist of fate。" Blame it on a simple twist of fate " という歌詞で涙が出た。そして shelter from the storm, Trying to get to heaven でまた涙が出た。

MCはまったくない。アンコール前の最後の曲(Ballad of a thin man) の前に、メンバー紹介をするだけである。アンコールの曲も決まっている。最後の曲はツアー途中からall along the watchtower から Blowing in the wind に変わった。日本人にはメロディアスで感傷的な曲のほうが受けるのだろう。セットリストも日が経つにつれてそういう傾向になっていったように感じた。

今まで見たDylanのライブでは一番盛り上がったし、一番よかった。本人がノリノリだった。印象に残ったのがチャーリーセクストンが目立っていたことだ。ステージの中央に立ち、ディランとソロを掛け合ったりしていた。ディランはボーカリストというより、バンドの指揮者というか、プロデューサーのような存在だった。これが最後の来日かなと思っていたが、まだまだ現役バリバリでいけると感じた。まさにnever ending tourだ。

とか言っていたら最終日の今日、Forever youngをやって、セカンドアンコールまでやったそうだ・・・。まあ、最終日だからな・・・・それくらいやるだろうな、昨日の様子からして当然だ。


2010/03/23

La dolce vita



新宿を歩いていたらミニフェリーニ映画祭のようなものをやっているのを見つけた。
ちょうど何して時間を潰そうかとおもっていたところだったので、タイムテーブルを見たら、
8 1/2が上映中で、1時間後に La dolce vitaが始まるところだった。
本当は8 1/2が見たかった。あの映画は好きな映画で、よく覚えてもいる。
dolce vitaの方は観たことは観たのだが、わけがわからず、おもしろくもなかった記憶があるので、
いい機会だから見直してみようと思った。

観客は結構はいっていて、小さな映画館だったが7,8割くらい席がうまっていただろうか。
100人前後というところだったかな。
この映画は約3時間ある。途中で寝ちゃうかな、もしくはオシッコ行きたくなって退出しちゃうかな、
と心配していたが、だんだん引き込まれていって、最後まで集中してみることができた。
観たはずなのに、覚えのないシーンがいくつもあった。
特に最初にヘリコプターでイエスの像を運ぶと言う強烈なシーンを、覚えていなかった。

この映画は、難解とされているようだが、難解というより、意味がないのだと思う。
フェリーニが何を言いたいのかわからないのだが、別に何を言いたいわけでもないのだと思う。
主人公のマルチェロは女たらしというか、自由人というか、クズというか、
酒を飲んでの夜中のランチキ騒ぎが描かれる。
しかし、卑猥なシーンもないし、人生に絶望して快楽に走る人間の苦悩なんてものでもなく、
あっさりと描かれている。
登場する俳優女優達は有名な人ばかりのようだ。
特に、Anouk Aiméeはきれいだった。
1960年の作品で、彼女は28歳のときだ。

あと、マルチェロの同棲相手で、自殺をはかる女もきれいだった。

2010/03/16

The Who Live at Yokohama 2004/07/24


横浜の競技場。名前が何度か変わったので正式名称は知らないが、ワールドカップの会場にもなった、6万人くらい収容できるスタジアムである。2004年に、ここにThe Whoが来た。

初めての来日である。The Whoは間違いなく、それまで来日したことのなかったバンドの中でもっとも大物だった。私はWhoが日本に来ることなどないとあきらめていた。ある日テレビでロックオデッセイのCMが流れて、whoが来ることを知った。2004年の夏は、とても暑かった。ロックオデッセイは野外イベントである。

whoの出番は夕方だった。私は昼頃会場に着いた。全身にイレズミを入れた男が裸になってステージに立って喚いていた。音量がすさまじく、すぐに外へ出た。会場で売られていた一杯500円のハイネケンを、何杯も飲んだ。B'zの稲葉、Who、そしてエアロがトリ、という順番だった。稲葉のステージは見ずに、会場の外でハイネケンを飲みながら時間を潰した。そんな人がたくさんいて、うれしくなった。

5時ごろだったかな。少しすずしくなってきたが、まだ明るかった。いよいよザ・フーが、The Whoが登場する・・・・。会場が異様なざわめきと緊張感につつまれる。Whoのファンって、こんなにいたのか?

ライブのレビューを書くつもりはない。もう6年も前の話だし。私はその次のWhoの単独公演も観に行ったが、2004年のほうが断然よかった。なんせ、初来日である。Whoのメンバーも、観客も、初めてのご対面である。特に、ボーカルのロジャー・ダルトリーには緊張の色がありありと見えた。Peteはサングラスをしていたが、やはり緊張というか心を閉ざしたような、ビジネスとして演奏しよう、というような雰囲気を感じた。私も、多分他の観客達も、「もう60歳のオジイさんだし・・・でも有名なザ・フーだから、盛り上げないとね」くらいの気持ちで来ていたのではないだろうか。

しかし、数曲が演奏されるうちにそんなものは消し飛んだ。Anyway Anyhow Anywhereをやった頃にはすっかり会場は一体化していた。ロジャーの顔も柔らかくなり、ピートもサングラスを外した。私は当時のwhoがどんなセットリストで演奏していたのかもロクに調べずにいたのだが、その日の演奏もいつもどおりのリストだった。しかし、私は、アンコールのTommyメドレーの、Pinball Wizardから始まって Amazing journey, Sparksへとの流れに驚いた。

Amazing Journey...

はっきり言ってこの曲は、「カルトソング」である。Tommyという、Whoの代表作自体が、はっきりいって「カルトアルバム」である。多分会場の多くの人はそんなことを気にしていなかっただろう。そしてTommyメドレーは、期待していなかったと言ったらウソになるが、まさか無いだろうと思っていたギタースマッシュで幕を閉じた。あれ以来、Peteはギターを壊していない。多分、The Who最後のギタースマッシュである。

Peteがシャンパンゴールドのストラトをフラ~っと持ち上げた。「ぶち壊す」とかいう感じではなく、自然に宙に浮いたような、静かな、柔らかな感じであった。そしてPeteはその金色のストラトキャスターを、ステージに、叩きつけた。粉々になった。エレキギターが、あんな風に粉々に壊れるのか?と驚くくらい、粉々に、きれいに壊れた。40年くらいステージに立って何本もギターを壊し続けて、どこを叩きつけたらギターが壊れるのかを熟知しているのかと感心するような壊しっぷりだった。

そしてPeteはその後に、エフェクターもおまけのように叩きつけた。ニヤリと笑って、アンプのツマミを絞った。

エアロのステージが始まってまもなく、わたしは会場を後にした・・・・・・・・・


2010/02/28

WHO'S LAST

The Whoで初めて聴いたのは Who's Lastだった。
これは解散前のライブテイク集である。

Whoはライブで真価を発揮するバンドなので、
シングル集などのベスト盤よりも、こっちの方がバンドを理解するには適切だった。
そんなつもりは全く無かったが。

それは高校生のとき、まだCDなんか無くて、
貸しレコード屋でアナログ盤を借りてきてカセットテープにダビングした。
それからもう20年以上が経つが、媒体がCDになったりMDになったりしながらも、
ずっと愛聴盤であり続けた。
そして今は、Itunesで買ってiPhoneで聴いている。

Peteのギターが非常に軽快でよく聴こえるのだが、
ギターが、確かシェクターとかいうメーカーのテレキャスターモデルである。
Pete Townshendと言えば、リッケンバッカー、SG、レスポールというイメージが強く、
特殊な時期だ。

後で映像を見たらピョンピョンとびまくっている。
レスポールではああは行くまい。

1曲目はMy generationである。

歓声のフェードインから始まる。
ドラム、ギター、ベースが軽く音を出す。
歓声がやまない・・・・と思うと、ブーイングのようなものが起こる・・・
アレ?と思うと、あのイントロが始まり、再び大歓声・・・

このオープニングがたまらない。

これを聴いた後で普通のベスト盤を聴いてがっかりした記憶がある。


2010/02/25

JuJu club 5集


Judain 名義になってはいるが、曲と演奏はJuJu clubである。
一回ずつ聴いただけだが、5集は駄作と感じた。
Judain の方は、JuJu clubっぽいが、イマイチだ。
仲がギクシャクしていたのだろうか。
いい意味でバカにしたような、ふざけた感じがなくなってしまった。

2作とも、Judainを前面に出したために、
彼女に重圧がかかり、他のメンバーも不満を抱いたのではないか。

Judain には、あの「黄色いリボン」が収録されている。
歌詞も英語で、そのままである。
これはまさか・・・と歌詞カードを見てみると、
作詞作曲者がクレジットされ、アレンジがJuJu clubとなっていた。
が、それはテープのようなもので貼ってあるものだった。
まさか・・・
そのテープのようなものを剥がしてみると、
"Composed, Arranged, Lyrics by JUJU Club"
となっていた。

2010/02/21

JuJu clubとcardigans

JuJu clubの歌詞をデータとして欲しいなと思って調べていたら、
「16/20」の「내가널원할때」が cardigansの carnivalという曲のカバーだ、
という情報を見つけた。
だが、クレジットにはJuJu clubの曲であるとクレジットされているという。

それって、「パクリ」ってことじゃないのか?

youtubeの動画がリンクされていて、iPhoneですぐに確認してショックを受けた。

「こいつら、JuJu clubをパクってる!」
とさえ思った。

絵が古っぽかったので昔のグループかなと思ったら、
1995年の作品だった。JuJuのほうは1996年。

わたしも大好きなあの曲が、パクリだったとは・・・。
cardigansという名前は聞いたことがあるかな、というくらいで、
曲はひとつもしらないが、このcarnivalという曲は有名なようだ。

「16/20」には、これを含めて3曲の「カバー」があるらしい。

しかし、一曲しかクレジットはなく、
その一曲も「Motive: Blondie 의 Denis」となっており、
「モチーフとした」というだけで、カバーしたつもりはないようである。

家に帰って、もう一度 carnivalをyoutubeで見た。
曲全体の雰囲気はそっくりで同じ曲のようだが、
よく聴くと微妙に違う。

モチーフにしたのか、パクったのか、意識せずに似てしまったのかはわからないが、
少なくともカバーではない。

「パクリ」といえば、「Fun Fun 」に、Rolling stonesのbrown sugarのイントロのと
そっくりなギターリフが出てくる。
これも、雰囲気はそのままで、「ブラウンシュガーじゃん」と思うと崩れていく。

JuJu clubの何がいいのかは一言では言えない。
単純でいて、メロディーがとても美しくて、
彼らはどういう音楽を聴いて育ったのだろうとは思っていた。

ちなみにcardigansは「ニューウェイブ」というジャンルに分類されるらしい。
私はこのての「ジャンル」をほとんど信頼していない。
「パンク」「プログレッシブ」「オルタナティブ」「ヘビーメタル」・・・

JuJu clubは最近は活動していないようだ。
持っていない最後の2枚のアルバムをオンラインで買った。
アマゾンには売ってないし、オークションにも出ていなかった。

ラブリーボーン

テレビのCMで、中に船の模型がある瓶を叩き割ると霊界でもそれに対応して船が壊れるシーンと、主人公の女の子のかわいさにひかれてみてきた。

ゴーストとか、奇跡のなんとかとかいう映画でも、
死後の世界を描いたものはあったが、
地上の行為が霊界に反映するのは、どちらも描いていなかったのではないか?

そして、死者が地上に働きかけるのは非常にささやかで、
ほとんど「気のせい」レベルにとどまっている。

私は、この描き方に非常に感心した。

映画自体の評判はいまいちのようである。

観に行ったシネコンでも、チケットはあまり売れていなかったようだ。
題材が題材だけに、日曜日に家族やカップルで観るような映画ではないし。

観る前から、泣くのはわかっていた。

ストーリーも、演技も、節度があるというか、抑制されていたというか、
露骨でなく、感情をぶちまけたようなものでもないのが、よかった。

観る人によっては、それが「中途半端」と感じるかもしれないが。

私はこの映画の監督のことも役者のことも原作のことも何もしらない。

でも、CMで見たほんの少しのシーンで、観るべき映画だと思った。

そしてその勘は間違っていなかった。


鎮魂とは、成仏とは何か。
被害者の無残な遺体が発見されて両親がそれを確認する、
犯人が捕まって罵倒されて、
こんな残酷なマネをした男がいると大々的に報道する、
そんな様子を、もしこの映画のように死者が見ていたとしたら、
どうだろうか?

「私の遺体がパパとママに会えてよかった」
「悪いことをした犯人はその報いを受けるのよ」
なんて思うだろうか?
私は、自分が死んだら遺体なんかとっとと焼いて欲しいと思うが、
みんなはそうじゃないのだろうか?

遺体なんて、金庫にはいったまま、誰も見つけることのできない
穴の底に捨てて埋め立ててしまったほうがいいんだとさえ思った。
あれは、犯人が自分の犯罪を隠蔽するための行為だったが、
それがはからずもスージーを「葬る」ことにもなっていた。

性犯罪に限らず、「悪」というものは絶えることがない。
絶えてしまえばいい、と思う気持ちは正しいものだろうが、
それは極めて困難で誰にも成し遂げられていない。

また、「悪」は決して他人事ではなく、
誰もが自身の中に持っているものである。
全くの善人も全くの悪人もいない。

犯人役は普通の紳士である。
それは、「紳士を装った鬼畜」ととらえることもできるが、
「紳士も鬼畜の所業をなす」と言うこともできる。
そして実際、犯罪というのは多くの場合そういうものだろう。

自分の利己心や信念に基づいて理性的に遂行するというよりも、
感情や肉体に振り回されて「我を忘れて」しでかすのが多くの犯罪である。
だから、更生施設というものが存在するのである。


私が子供の頃見ていたマンガやヒーローものの番組では、
悪の親玉みたいなのがいて、それが怪獣やら何やらを送りだすのだが、
親玉は常に生き延びる。

この世の悪の親玉も、そのようにしぶとく生き続けている。
そして、われわれが忘れてはいけないことは、
私達もその親玉の子分かもしれない、ということである。

悪を憎むことと同じくらい、自分の中の悪を自覚することが必要である。


JuJu clubの「カバー」


「16/20」に収録の以下の3曲。

돈이드니
Denis (Blondie)

내가널원할때
Carnival (Cardigans)

이첸아냐
Bizarre Love Triangle (New Order)


・・・全部そっくりです。
私も勉強不足でした。

もっといろんな音楽聴かないとね・・・。


2010/02/07

極道めし

iPhoneを充電するために入った漫画喫茶で見つけた。

「あしたのジョー」を探したがどうやらないようなので、席の近くにある書棚を見ると極道モノばかりである。その中で、この漫画が目を引いた。

なんだこれ?タイトルが書いてある部分、なんていうんだっけ、そこに書いてある絵が、みんな何か食べている。暇つぶしに読んでみたら、これがおもしろい。声を出して笑ってしまった。

この漫画は極道モノとグルメものを両方パロディーしたような、それでいてふざけてもヤケにもなっていない、不思議な作品である。

漫画アクションに現在も連載中のようである。
ジャンルわけするとすれば、グルメものになるであろう。

しかし、話題になる食事はインスタントラーメンだの、喫茶店のナポリタンだの、たまごかけごはんだの、そんなものばかりである。
刑務所にはいった連中が暇つぶしにうまかったメシの話をして唾を飲み込ませたら勝ち、というゲームをするのだが、特におもしろかったのは、うめぼしやラッキョウの話をして唾を飲み込ませるというほとんど「反則」をしたところである。


2010/02/01

JuJu club


私は10年ちょっと前、韓国に行ったことがある。
以前書いたが、私には韓国人の親友がいたので、
韓国には親近感があったのである。

韓国に行ったのは、その友人ともう疎遠になってしばらくした頃だった。
確か、当時は金大中が大統領で、「韓国に来てください」というCMが
TVでよく流れていた。

2泊くらいしたのだが、たいしたところには行けなかった。

NHKの韓国語講座を見てちょっと勉強したつもりでいたが、
全く通じなかった。英語か、ヘタをすると日本語の方が通じる。

泊まったホテルも日本人がフロントにいるホテルだった。

帰るときに、両替を空港でし損ねて、東京のある銀行で両替することになって、
電話をかけた。
もう忘れてしまったが、私はそのときに銀行員の対応に腹を立てて、
公衆電話で大声を出して行員を怒鳴りつけて受話器を叩きつけるように切った。

その後その銀行へ行って、なんとか両替を終えて、家へ帰った。

そして、その時住んでいたアパートの部屋で、
JuJu ClubのCDを聴いていたら、
なぜか涙があふれてきた。


JuJu Clubは韓国のバンドである。
なんでそのCDを買ったのかはもう覚えていないが、
4作目までは今でも持っている。

その後どうしたのかなと調べてみたら、どうもJUJU clubとしては活動していず、
ボーカルのジュダイン名義で2007年にアルバムが出たのが最後のようだ。