2009/12/26

人は自分の読める本しか読まない

読書すればするほど、人はその人らしくなっていく。

つまり読書というのは見聞を広め、疑似体験をして、古今東西の偉人と対話をして教養を深めて幅広い人格を養う結構なものである、ということに対する、イヤミである。

だって、自分を否定するような本は読めないでしょう?

自分の考えていることを、肯定してくれるような本だけを、人は読むんです。

そして、自分の考えは間違ってなかった、あの人もそういっていた、と安心するんです。

そうやって、読書によって、人は自分らしさに磨きをかけるだけであり、
クソッタレは博識なクソッタレになり、やさしい人は博識なやさしい人になり、
陰険な人は博識な陰険な人になる、それだけである。

2009/11/23

final cut

このアルバムは某所で開催したフリーマーケットで見かけた。アナログレコードであった。レコードプレイヤーも売られていて、私もスタッフの一人だったのだが、そのアルバムをプレーヤーにセットして針を落とした。いいなと思った。誰かが、「誰だよピンクフロイドかけたの」と笑いながら言った。私はなぜ笑ったのかよくわからなかったが、今ならわかる。

final cutは、3枚目のthe wallだ、などと言われているようである。
the wallも、同じ頃によく聴いていた。
あの、裏切られた感じ、冷え切った感じ、終わった感に共鳴していた。

そしてfinal cutはもっと、終わった感があって、
終わったのになんだかカラっとしていて、スガスガしささえ覚えるような、
初秋のような、暑さにこりごりしていたがようやく涼しくなってきたときの夕方のような
そんな雰囲気が大好きだった。

pink floydも、3拍子をけっこう使う。
wallの最初もそうである。

その頃は、3拍子が好きな時期でもあった。
3拍子をやるのは、ほかにはボブディランくらいしかいなかった。

final cutはそういう終わった感、シミジミ感がただようのであるが、
最後に開き直ったような爆発がある。

not now, john という曲である。
これは激しい曲と言えるが、言葉や声こそ激しいが、
やっぱり冷めた、終わった感がただよっているのである。

このアルバムでボーカルは絶叫するかぼそぼそしゃべるように歌うかである。
どっちかだけならウンザリであるが、両方あるのでいいのである。


2009/11/21

塩野七生 「ルネサンスとは何であったのか」

古本屋の店頭で売っていた100円の文庫。
塩野氏は名前は聞くが作品を読んだことがない。

思想は保守的でいまどき珍しい古風な人かなと思っていた。

だから、ルネサンスなんかクソだ、ということが書いてあるのかと期待したら、絶賛していた。

ところが、ルネサンスこそが彼女のテーマであり、ローマを書いたのもルネサンスがきっかけだというのである。

そして、さわりだけ読んでこの、何だろう、何をそんなにとがっているのかというくらいの傲慢さというか高飛車というか

低級な文明で暮らす地球人を教化しに来た宇宙人か、というようなノリに耐え切れなくなった。

もう、彼女の作品を読むことはないだろう。

2009/10/14

SION

デビューアルバムを買った。
前から欲しいほしいと思っていたのだがなかなか買う機会がなかった。

私が高校生のころにデビューした。
雑誌にインタビューが乗っていて、酒びたりのあぶないやつだという紹介と、ディランやストーンズが好きだということで注目して、貸しレコード屋で借りて、感動していた。

しかし、なぜかあまり売れなかった。
しばらくして福山雅治がsorry babyをカバーしてヒットしたが、それでも本家のSIONは有名にならずじまいだった。

久しぶりに聴いてみると、当時はわからなかったが80年代の流行りの感じがある。
スプリングスティーン風な、尾崎風な感じが。
歌い方にもっとも影響を与えているのはディランだろう。

しかし、ディランみたいな歌い方をするというか真似しているような人は多いが、誰も真似できない。
できていたのはFrank ZappaのSheik Yerboutiで出てくる男くらいだ。
思いつくのはマークノップラー、長渕、泉谷とか。
ルーリードもそうかな。

ディランには、ハスキー、鼻づまり、美声などの要素が複雑に絡み合っている。
そう、美声なのである。かわいさといってもいいか。

そういう観点からすると、志村けんのおばあちゃんの声のほうがよっぽど近い。

しかしSIONは歌い方だけではなく、
詩もディランをマネできている。それも、翻訳しても通じる本質的な部分を。
「今日もまんざらじゃなかった」がそれである。

「今日もまんざらじゃなかった」
と言っておいて、まんざらなことを並べて、
「・・・を除けば」
とするような。

さっき尾崎の名をだしたが、当時はまったく思わなかったのだが、歌詞の内容には尾崎に通じるものがある。周囲に溶け込めず、とにかくカネを稼ぐけど意味も目的もなくてむなしくて、と言う感じ。

それがバブルだったのかな?

2009/10/04

竜二

先週末に借りて、今まで10回くらい見たかな。
こんなにいい映画だったとは、知らなかった。
ただのリアルなやくざ映画みたいな印象があったのだが、
実際はむしろホームドラマのようだ。
私が子供のころに見ていた、人情味あるドラマの感じ。
松田優作とかショーケンの世代。

2009/09/21

Limits of control


ジャームッシュの新作公開をふとしたことで偶然知った。
あまり大々的に宣伝されないし上映館も少ないのでいつも見逃してしまうが。
上映回数も少なく、昼1回であとは夜2回などが多い。

張り切って見に行った初回。5連休の初日。
なんだこれ?
あの饒舌なイザックが全然しゃべらず、わずかに英語をあいづち程度に話すだけ。
これがひとつのジャームッシュのギャグか。

冒頭のシーン、スペイン語を話すかと聞いた後、フランス語で話す。
イザックがフランス語を話すことはイヤというほど知っているので、
それをわざわざ訳しているのがこれまたギャグなのかとニヤリとする。

だが、そんなことで笑っている場合ではなかった。

ストーリーはほとんどない。
20ページあったとかいう話だが、1ページで済みそうなくらいに、ない。
いろんな人物が入れ替わり立ち代わり現れて話をしていくのは、
コーヒーアンドシガレッツやブロークンフラワーズみたいな感じで、
彼の得意技というか、それしかできないのかなとちょっとうんざりする。

それぞれが話す内容があまり面白くない。
なんか、まともな芸術論っぽくて。
コーヒー・・・でイザックがやったように、用もないのに呼び出し、
本当に何も用がなかったとか、そういうのじゃないし。

俳優達はみな有名らしいのだが知っているのは工藤とビルマーレイくらい。
しかし後で最初にフランス語をしゃべっていたのがあの用もないのに呼び出した男の役だったことを知る。

ブロークン・・・に出ていた女優も出ている。
ストーリーとしてのクライマックスは、
暗殺を遂行するところだが、そのシーンには何の工夫もなくあっさり終わる。
そしてこのときに交わされる会話も、なんだか普通の暗殺シーンで交わされるつまらない会話である。

仕事が終わった後、スーツを脱いで空港を去っていくところで終わりか・・・
と思うと主人公がアップになる。
ん、まだなんかあるのかなと思ったとたんに、ブチっと映像が切れる。

途中でフラメンコのシーンがある。
これがとても素晴らしくて、さすがの寡黙な暗殺者も笑顔で拍手をする。

音楽といえば、Borisという日本人が曲を提供している。
「サイケデリック・ノイズ・メタル」とかいうジャンルに分類されるらしい。

これが、あまり良くなかった。
デッドマンのニールヤングを意識したような、
あとは逆回転とかをつかったのはビートルズとかを思い出してしまう。

フラメンコとかシューベルトとか、もしくはもっとコテコテのブルースとかの方が
よかったんじゃないかと思う。

あとは、言葉。
「スペイン語を話すか」というセリフが10回くらいいろんな人物から語られる。
そして、Noと答えると、英語で話しだす。
一部、日本語、たぶんヘブライ語も出てくる。痰を吐くような発音で、アラビア語かヘブライ語だとわかる。

海外の作品では、小説などでもよくフランス語や「ドイツなまりの英語」とかが出てくるが、いつもそれはどうでもよくて「何を言っているか」ということを考える。

しかし今回はこの違いが終始まとわりつくので無視するわけにはいかない。

英語というのはプラクティカルな言葉で、
フランス語やスペイン語を聞いていると英語は無味乾燥なつまらない言葉に感じる。

大好きなジャームッシュなので、評価が気になって、海外のレビューまで確認した。
どこまで本当に「わかって」いるのかは疑問だが、意外に好評である。

私はわけのわからない映画が嫌いではないし、ジャームッシュが好きなのも
そういうところなのだが、今回はストーリーが単純すぎて、
会話も特に難解なところがなく、それが気持ち悪かったのである。

しんぼる

すでに3回見た。こんなものをいい年して3回も見るのかと言われそうだが、見るたびに面白くなった。しかし、この映画はちょっと左脳を使いすぎなんじゃないだろうか。
何もない密室にガラクタのようにモノが出てくるような状況は見ていて気持ちよくない。
やっと出たと思ったら別の部屋。そしてどこまで登っていっても解放されることがない。
並行して進行するメキシコの話が救いだが、こちらにはあまり工夫がなく退屈だ。
予算が無いから密室にしたとかいうのがどこまで本当かわからないが、
最後の登っていくシーンの背景にニュースで見るような映像が流れるなんて、やめて欲しかった。
でも、スジは通っている。笑えたし。

2009/06/22

チェーホフ 「桜の園」

「桜の園」を読み始めた。


近所の古本屋で210円で買った。昭和25年初版発行、26年5刷の岩波文庫。
臨時定価四拾円とある。
「桜の園」とチェーホフの作品は、太宰を知った頃に読んだのだが、よくわからなかった。
「斜陽」が「『桜の園』だ」というので、読んだのだが、共通点が見えなかった。
まだ数ページしか読んでないのだが、わけがわからない。
これは楽しむのではなく、調査のようなつもりで読む。


太宰治 「人間失格」

生誕100周年ということで、こっちも読んだ。シラフで、じっくりと読ませてもらった。
よく考えてみると、これを読むときは自分の生活が比較的落ち着いているときが多い。
私も弱くて欲望に流されやすい性格なのだが、そういうときはこれを読まない。

もう何度も読んだし、彼がこれを書いた年齢も超えているし、
笑って読めるところもあるが、やはりこの作品には彼の並々ならぬ気合を感じる。
そしてこの作品では、自分自身と同じくらいに、彼が接してきた人たちへの
冷たい、絶望的なまでの批判が展開されている。

特に女性に対しては恨みといってもいい、ほとんどバケモノ扱いである。

「人間失格」は昭和23年の三月から五月にかけて執筆され、
雑誌の6、7、8月号に3回にわけて連載された。
自殺したのは6月13日で、第一回が発表された後である。

今までずっと、太宰が自殺したのも無理はない、
いつ死んでもおかしくない人生だったと思っていたが、
よく考えてみると、ここまで生きてきてどうして死んだのか、
わからないところもある。

彼はからだが弱く病気がちだったようだが、残された写真をみるとそんなに青白くもなく、
体格も悪くはない、健康そうな男に見える。
彼が精神的に病んでいた、という説をよく聞く。アダルトチルドレンだとか、境界性人格障害だとか・・・。
でも彼は確か胸が悪かった、あと、肋膜炎か何かになって、その鎮痛剤として使用した薬の中毒になったのであって、イタズラにクスリに溺れたのではない・・・
昭和23年には喀血もしている・・・
というのを聞くと、ただ単に「破滅型だから死んだのだ」と片付けることもできないように思う。

それから、死んだわけもわからないが、その直前の「斜陽」を書いたときに出会った太田静子という女性との関係もよくわからない。
年譜によると初めてあったのが昭和16年で、昭和22年には太宰から会いにいって1週間も滞在して日記まで借りている。
「6年ぶりに会った」という「斜陽」にあった話は、これまた事実であった。
そしてそれを即小説にしてしまう神経。
本当に、酒代のために必死で書いていたのだろうか・・・

それから山崎富栄という女。写真を見るときれいな人だが、
いろいろなところから伝え聞く彼女の発言や行動も理解しがたいものがある。

今ざっと調べたところでは、
いろいろ原因は複雑にからみあってはいるだろうが、
決定的な理由はやっぱり、結核だと思う。

「人間失格」の文章がなんだかやけっぱちで、覇気がないのは、
気力体力ともに衰えていたからだろう。
そしてそれが、それまで抑えられていた他人への批判を前面に出す結果となった。
道化を貫くことができなかった。

あとは、太田静子の謎だ。
どうして子を生ませるようなことをしたのか。
静子が子供を欲しがったのだろうか。
そうとしか思えない。太宰は周到な男だ。
きっと、静子は結婚できなくてもいいから子を産ませてなどと言ったのだ。
だから子が生まれた後は冷たくしたのだ。
恋に落ちてできてしまった、というようなものではないだろう。

静子もトミエも、太宰にとっては女中のようなものだ。
彼はまさしく色魔で・・・・・

もうやめた。寝よう。

2009/06/17

太宰治 「斜陽」

また「斜陽」を読んだ。

今日はテレビでも番組をやっていたし夕刊にも太宰ブームだとかいう記事があった。

「斜陽」には太宰自身をモデルにしたような男が二人出てくる。
上原と直治である。
上原は最低な男としてクソミソに描かれるが、
クソミソに言っているのは実際に愛人であり子供まで生んだ、「斜陽」の主人公であり語り手でもあるかずこと、
その弟という設定だがモロにそのまんまの太宰である。

今回読んでみて、上原という人物は実際の太宰よりも酷く描かれていて、
太宰だけでなく作家や芸術家全般を批判したのかもしれない。
上原は、世間が見ている太宰の姿、直治はほんとうの太宰の姿ではないだろうか。
かずこが身ごもった子供を、上原の奥さんつまり、太宰の奥さんに抱かせたいとかいう、奇妙な言葉で締めくくられているのも、そうだとするとちょっとわかるような気がする。

あんな人生を送った男なのに、最後に(2回目?)結婚した妻とは、子供ももうけて、一応死ぬまで夫婦であった。作品中にも、その他のエピソードにも、妻を信頼しているという言葉が何度か出てくる。さんざん愛人を作っておいて、と私も思っていたが、彼が妻を「愛していた」というのは本当だったのだろう。
「斜陽」では上原に対する復讐のような意味でその妻に子を抱かせるという風になっていたが、あれだけ実体験に近くて、しかも時間もついこないだというレベルであるから、妻だって誰のことだかすぐにわかるだろう。

そんな愛情表現はありえないと、普通の人なら思うだろうが、
私は今思った。
あの「子を奥さんに抱かせる」というのは、太宰の妻に対する愛情表現ではないかと。
太宰は、かずことして語り手となっている女にはあまり愛情がなかったと思う。
むしろ、流行作家だからと軽薄な動機で近づいてきたバカな女だと考えていたと思う。
少なくとも「斜陽」を読む限り、主人公の女に共感しないのはもちろん、同情の余地すらない。

「斜陽」のいいところは、6年ぶりに再会して変わり果てた上原と、惨めなカタチで結ばれ、
そのあと突然直治が自殺した、というところ。
引用される遺書と、かずこが浴びせかける上原への軽蔑の言葉。
わたしが思うにあれは遠まわしな女性批判である。
直治がつまり太宰が本当にすきだったのはスガちゃんなのである。
なんで「スガちゃん」なんだろう。
もしかしたら二人だけにはわかる暗号なのかもしれない。
そうだったらいいな。

太宰の文章には、何か違和感がある。
読みやすいのであるが、なんか足りないような、神経が行き届いてないというか、
雑というか。嘘臭いというか。
血が通っていないと言ってもいいかな。


2009/05/20

宮本輝 「夢見通りの人々」

古本屋の店頭で105円で叩き売られていた「夢見通りの人々」を読んでいる。
最初はどうかと思ったがだんだんえげつない話になってきておもしろい。
これは多分、「青べか」などの影響を受けているのではないだろうか。
宮本輝が山周について語っているのを読んだこともあるし。


「夢見通りの人々」

読み終わった。やっぱり新しい「青べか物語」だ。
関西弁がよかったのかな。

吉田修一 「パークライフ」

作者は私と同い年である。
ある場所で時間つぶしに読んだ。軽薄な小説である。
村上春樹的なスカシてる感じ。

私が小説を書いて食べるシーンがでてきたら、
ブリ、納豆、キムチ、炊飯器、ニンニク・・・
ペッパーとかなんたらサンドとかそういう言葉は出てこない。
まあ、つまり、糞食らえですわ。

永井荷風 「濹東綺譚」

「ぼくとうきだん」。「ぼくとうきたん」と読むのが正しいのかなと最近思って、岩波文庫を買ったら、「ぼくとうきだん」という読み仮名がついていた。
俺の読み方は正しかった。
この作品は、何度か読もうかなと思って書店でぱらぱらと開いてみるものの読む気になれずにいた。
映画化されたときは特にその気になったが、どうしても文体が受け付けなくて読めなかったが、
ボリュームがたいしたことなさそうなので、我慢して読んだ。
定価だと四百何十円するのだが古本屋で210円で買った。

文体がどうこうというより、永井荷風という人の性格が受け付けないのだろう。
要は風俗パンチドランカーである。
最後は孤独な死を迎えたようだ。
この作品については、何の感動も感心もない。
荷風という人が日本の文学史上でどういう位置を占めているのかは知らないが、
名前だけはよくきくので、ひとかどの人ではあるのだろう。

エロ小説では、全くない。実はそういうモノを期待していたところもあったのだが、
さすがにそこまで最低な作家ではなかった。

本編と、その補足のような話、そして本編は実体験と創作が重なりあっている。

その補足部分を読みながら、思ったのは、
作家というものがとりあえず名を残したということは、それを読んで喜んだ読者、
評価した学者や評論家などがいたからだ、ということである。
つまり、けしからん作家がもてはやされるのは、そういうけしからんものを望む空気があったからだ。
太宰しかり、三島然り。

ボクトウキダンは昭和11年、戦争が始まる頃に書かれたそうだ。
それは永井の晩年で、彼は世間の流行に不快を感じていることを書いている。

多分、彼の他の作品を読むことはないだろう・・・

2009/05/02

太宰治 「富嶽百景」

最近富士山のよく見える場所に引っ越してきて、あらためて読み直してみた。
「富嶽百景」は高校の国語の教科書に載っていたのを読んだのが初めてである。
当時は別になんてことのないお話だなとあまり思うことはなかった。
太宰と言えば「人間失格」とか「斜陽」とか自殺とか薬物とかいった
激しいものに興味があった。

しかし、やはり太宰の作品である。
教科書に載せるようなハナシではない。
これを書いた頃は、確かに太宰にしては落ち着いていた時期だったのかもしれない。
しかし、すでに彼が死んだ歳をすぎて彼ほどではないにしても
酒も飲んだしいろんな汚い経験を経た今ならわかる。

彼は二十歳の頃に結婚している。このときの妻のことは年譜にも書いてあるが、
太宰の入院中に彼女が「姦通」したという記述をよく見る。
「姦通」って・・・。まるでそれが太宰の破滅のきっかけとなったかのような、大げさな書き方だ。太宰なんか姦通どころか心中未遂まで起こしているというのに。
「富嶽百景」にも、「意外の事実をうちあけられ」とある。その後がぶがぶ酒を飲んだとか時期からしてその「姦通」の告白のことをさしているのではないか。
まあそうであるにしろ、そうでないにしろ、「一晩中酒を飲んで朝ションベンしようとしたときに富士山を見ながら泣いた」なんて、高校生に読ませんなよ。

別にそれくらいいいじゃんか、というかもしれない。
最近、テレビで芸能人が集まって雑談のようなハナシをする番組がよくあるが、
そんなところで笑い話として語るならいいが、こんな筆致で語られたら笑うに笑えず、
教科書なんかに載っていたらオトナってこういうものなのか、と思ってしまう。

この話は富士山をけなすことから始まって、
有名な「月見草がよく似合う」とか、言いつつ、彼も富士山の魅力から逃れられずにいる。
今の流行り言葉で言えば、富士山なんてあまりに「ベタ」だということなのだろう。

「おう、けさは、やけに富士がはつきり見えるぢやねえか、めつぽふ寒いや」

・・・私はこんなことをつぶやいた魚屋なんか、絶対にいなかったと思う。

2009/04/08

夏目漱石 「坊ちゃん」

で、その次に読んでいるのが夏目漱石の「坊ちゃん」。
これは中三のときに感想文を書いた本で、
厭世的な内容で、われながら傑作だと思ったが、
学校の先生にしてみたら手放しでほめるわけにはいかない内容だったかな。

久しぶりに夏目漱石を読んだのだが
やっぱりタダモノではない。
なんだろう、この疾走感というのか、
ロックンロールのような軽快さ、

明治時代に書かれた文章なのになんの違和感もなく入ってくる。
そんじょそこらの現代作家よりも百倍、なじむ・・・。


「坊ちゃん」は通勤時などにちょこちょこと読んでいるがまだ終わっていない。
さて、文体のことでなく、話の内容について触れてみよう。
「坊ちゃん」は若い教師のおもしろエピソードみたいなイメージがあるが、
とりようによっては人間の醜さをさらしているとも読めて、
晩年の「こころ」に通じるものがある。
つまり恋敵を転勤させるとか、
新人教師を生徒がバカにするとか。
「こころ」では恋敵を出し抜くようなマネをして、
恋敵は自殺し自分も後に自殺する・・・
しかし私は、こんなことは文学のテーマにするにしては低級というか、取るに足らないことだと思う。
所詮文学なんてそんなもの?
いや、そうは思わない。
私はもともと漱石をそんなに評価していない。
それはやっぱり、内容の無さから来る。



「坊ちゃん」終わり。

なんでも一気呵成に書き上げ校正もほとんどなかったとか。モーツァルトみたいに。

ひとつほめるとするなら、清の存在である。
「坊ちゃん」のなかでの清の存在は、「こころ」の明治天皇のように、
それがなければ何の変哲も無いお話になってしまうところを、文学たらしめているポイントである。
「こころ」の天皇はまぐれかと思ったが、
「坊ちゃん」を読んで、そうじゃないのかなと思った。

2009/03/26

Jazz at Massey Hall

私は一時期Jazzを研究していたことがあった。
メインはマイルスデイビスで、彼のめぼしい作品はほとんど聴いて、自伝も読んだ。
でも、Jazzのアルバムの最高傑作はときかれたら、 massey hallと答えるだろう。
この作品は契約の関係で名前が出せないらしいのだが、チャーリーパーカーの代表作である。

いきなり始まるperdidoという曲。
ざわついた観客の声となんだかだらけた退廃的な雰囲気。
最初に吹いているのはチャーリーパーカーだと思う。別に誰でもいい。

これが、もうヤケっぱちというか、何もかも捨てたような、終わってしまった感があって、
自分が疲れてどうでもよくなったようなときに脳裏によみがえってくる。

ただし、このアルバムは1曲目以外はあまり好きではない。
マッセイホールの録音でないものやオーバーダブなどがあるらしいし。

でも、それを差し引いても、1曲目がすばらしいので名盤なのである。

2009/03/22

山本周五郎 「赤ひげ診療譚」

山本周五郎の3冊目。前作2冊よりは、普通の小説らしく、テレビの時代劇を思わせるような展開もあった。医者とその弟子となると、「破れ傘刀宗」のようだ。実際数人の相手を叩きのめす場面が出てくる。刀で斬りこそしないが。

共通の舞台でのオムニバス的な構造と、ダメな奴、狂った奴が多く登場するのは、「青べか」や「季節のない街」と同じ。これがなかったら、ほんとにただの時代劇の脚本になっていただろう。

頑固で情熱家で地位や名誉を求めないという、黒澤明が好きそうな話だ。映画は見ていないのだが、途中から去定はすっかり三船敏郎の姿をとってしまった。

この作品は、ちょっときれい過ぎるというか、お説教臭いというか、時代劇や映画の脚本っぽいのが物足りない。

2009/03/15

まあだだよ

この映画は確かTVでCMをやっていた。所ジョージがまーだだよ!と言ってみんなを先導しているシーンが記憶にある。
私は全く興味がなかった。クロサワクロサワっていうけどそんなにたいしたもんかね?と思っていたくらいだ。

最近、クロサワ映画がやたらと放送される。日本映画チャンネルやNHK BSで、何度も何度も。
あまりに有名なので、特に好きというわけでもないのだが、ほとんどの作品を既に見た。

まあだだよは初めてである。

冒頭のシーン。
教室に、退職することになった教師が入ってくる。すると、教室に煙が漂っている。
「誰かタバコを吸ったな?」とは言うが、叱りはしない。大学なのだろう、タバコを吸うこと自体はかまわないが、
教室では吸ってはいけないことになっているようだ。

教室は静まり返っていて、生徒たちは全員、教師のほうを見ている。
肘を突いたり腕組みをしたりしている者もいない。
教師が動くと全生徒の視線がそれを追いかける。

ここで、もう違和感がある。
まず、学校の教室というのは、そんなに厳粛なものではない。
生徒なんかあっち向いたりこっち向いたりして、教師の顔なんか時々ちらちらと見るものだ。

なかには厳粛な学校、厳粛な教室もあったかもしれない。
しかし、もしそうなら、教室では禁じられているタバコなんかを、
教師が来る直前に吸うことなどないだろう。

そのクセ、先生は大切な事を教えてくれました、
なんて心から尊敬しているかのような事を一人が言うと、みんながいっせいに立ち上がる・・・

こういう、集団がみな意志を一つにして、
まるでマスゲームのように行動するシーンは黒澤映画にはよくあるが、
いつも気持ち悪さを感じるところである。

この教師というのは内田百閒だそうだ。
ちなみに私はずっとヒャクモンだと思っていたが、よくみると耳ではなく月である。
もともとは間だったのを、わざわざ閒に変えたそうである。
彼の名前は何度か見聞きしているが、作品を読んだことはない。

なんてことや、それを演じた松村達夫が2005年に90歳でなくなったことや、
彼の演じたどですかでんの姪の女に手を出す役は最低な男だったが名演だったなとか、
先生の奥さん役は今日経で履歴書を連載している香川京子なのかとか、
そんなことを調べつつ1時間くらい見たが、途中でやめた。

何で人が宴会しているシーンを延々と見なきゃならなのか。
こんな映画、売れるわけないよ。よく作ったね・・・。

2009/03/07

コーヒーアンドシガレッツ

これも何度か見た映画で、彼が得意なオムニバス形式である。
なかでも傑作なのはcousins?である。
今まで何度か見ているがニヤニヤする程度だったのだが、
今回は手でひざをたたくほど笑った。
この話ではジャームッシュは完全に笑わしにかかっている。
正面から。

あと、特に何の用もないのに電話してきた男と会う話もおもしろい。

これをジャームッシュの最高傑作としてもいいかなと思った。

フルメタルジャケット

またフルメタルジャケットを見た。
何回目だろうか。なんといってもデブ(private pile)の狂気がこの映画のポイントであるが、
彼をあのような行動に駆り立てたのは軍曹ではなく周囲の同僚達、特にjokerなのではないかと思った。
あの話が実話であったかどうかは知らないが、おそらくあのような事件は過去にあったと思う。
しかし、軍曹の罵倒だけで彼があのように狂気に至ることはない。
多分、jokerは彼に対して、あの軍曹はちょっと言いすぎだ、だの、オマエは決してダメな奴じゃないだの、
言っていただろう。しかし、彼もリンチには参加している。
デブは、自分のダメさを自覚していたはずだ。こんな自分では戦地に向かえない、どうしようという不安があったはずだ。
しかし、それに対して、人間にもいろいろ個性がある、だれもかれもが戦士に向いているわけではない、とか、
戦争は国家のエゴだとか、そういう甘い言葉を聞かせてしまったら、
どうしてもその甘い言葉のほうに流れてしまうのが人間である。

彼には射撃技術という長所があった。
あれは彼が軍曹を恨んで殺害しようという意図で射撃に情熱を注いだというのではなく、
ただ才能があっただけだろう。

jokerが彼を慰めなくても、彼は軍曹に射撃の腕を認められて、それまでの屈辱が一気に晴れたはずだ。

しかし、彼はjokerの甘い言葉に自身の心情を乱され、狂気に至った。
最後にjokerを撃たなかったのは、彼にやさしくしてもらったからではない。
彼は殺すにも値しない男でしかなかったのだ。

2009/03/05

中丸明 「好色 義経記」

「好色 義経記」 中丸明

この作家はバカですね。おもしろく読んだけど。
夕刊紙の風俗レポートみたいな文体でした。

2009/02/21

Anna

有線のビートルズチャンネルを聴いていたら、「Go with him...」というフレーズを繰り返す曲がかかった。この曲は中学生の時に初めて聴いて知っている曲ではあるのだが、タイトルを知らなかった。
中学生の頃は、「Go with hime」が聴き取れなかった。・・・と、歌いだしは「Anna」だったのか。
ずっと「I am not」だと思ってた。ついさっきまで。

いい曲だな・・・
これはPlease, please meに入っている。
このアルバムは聴いたことない。Love me doが入っているからデビューアルバムかな?
その初めて聴いたのは、FMラジオのジョンレノン特集で、45分くらいの番組で一週間くらいぶっ続けでジョンの曲を流していた。最初と最後に日本人が挨拶ていどにちょっとしゃべり、曲紹介はガイジン、たしか「William Jackson」という人だったと思う、が、やって、あとはCMも何もなく、曲だけがかかるというすばらしい番組だった。アルバム一枚を丸ごとかけたりすることもあった。

放送が夜中の3時なので、タイマーを使って録音した。もちろん、カセットテープである。残念ながらそのテープは捨ててしまった。

ジョン特集なので、yesterdayとか、all my lovingとか、hey judeとか、fool on the hillなどはかからなかった。特に私が気に入っていたのは If I fell である。
Norwegian Woodを紹介するWilliam Jacksonの声が聞き取れなかった。カセットテープに曲のタイトルを書いていたのだが、そこがどうしてもわからない。

no reason would ? かななどと結局わからないまま聴いていて、結局わかったのはいつだったかな・・・


2009/01/14

山本周五郎 「青べか物語」

ところどころ面白かったが、わけがわからないところも多かった。
しかし、最近遠ざかっていた人間臭い世界は、嫌ではなかった。

最初の、「青べか」を売りつけるずうずうしいじいさんがおもしろかった。

またいつかあらためてじっくり読んでみたい。