2008/12/31

東方神起 「どうして君を好きになってしまったんだろう? 」

昨日、レコード大賞を見た。今までこんな番組は見たこともなかったのだが。
今年はやることもないしほかにおもしろいものもないので。
東方神起は、行きつけの韓国料理店のでっかいTVでコンサートの映像が流れているのを見たことがあるのだが、日本の同様なアイドルよりも歌も性格も全然いいと思っていた。
曲はあまりじっくり聴いたことはなかったのだが、この曲はすばらしい。

作曲者はどこの国の人だろう?
コードを分析してみた。

B -- F# -- G#m -- F# -- G#m -- F# -- E -- F#

という感じである。
カポ2にして、

A -- E -- F#m -- E -- F#m -- E -- D -- E
である。
でも、なんかテンションノートが乗っている感じもする。

2008/12/29

ゴジラ対メカゴジラ

ゴジラ対メカゴジラ(1974公開、日本映画専門チャンネル)

録画されていたので見てみた。まず驚いたのが、沖縄が舞台だったことである。
オープニングテーマは沖縄風で、タイトルバックも沖縄である。キングシーサーなんてのも出てくる。
いまや沖縄フリークといってもいいくらい沖縄が好きになったのだが、
こんなところに沖縄との出会いがあったことはまったく記憶になかった。
でも、潜在意識に植え付けられていたのだろうか。
たぶん、1975年から開催された沖縄海洋博覧会があった関係で沖縄が舞台になったというのもあるだろう。
本土に復帰したのは1972年だったのか・・・。まだ復帰したてだったんだな。

最後のクビを回すシーンの前に、メカゴジラがみずから頭を回転させてバリアを張るシーンがあって、
当時私は「自分で頭をまわしていたのにどうしてゴジラに回されるとちぎれるんだ」と疑問に思っていた。

そもそもゴジラはこの戦いで非常に苦戦したのだが、途中で突然体を磁石にして、それによってメカゴジラを引き寄せ、
キングシーサーの協力もあって最後クビをねじ切る。

キングシーサーの記憶がない・・・。
なんだか毛むくじゃらで猿みたいで、子供が好むような怪獣ではない。

そもそも、ゴジラがまるで日本の守り神みたいになっているのが不思議だった。

2008/12/24

ロリータ

1962年、スタンリーキューブリック監督。
私はキューブリックファンであるが、この映画はあまり入り込めなかった。自分の掲示板の校正をしながら適当に流していた。
なんか、観ていると疲れる

Kids Return

この映画は公開当時に、キャバクラで知り合ったとてもかわいいコと一緒に観に行った。
そのコには8万円の財布を買ったが、手すら触れずに、ほどなくして別れた。

カップルで観るような映画ではない。
新宿の映画館だったが、終わった後、女の子が一人ワンワン泣いていて、となりに男がなすすべもなくうなだれていた。

この映画は、武の作品のなかでは評価が高いほうに入ると思うが、
私はこの映画があまり好きではない。
確かに、魅せられるものはあって、今回も一気に観た。

でも、何か腑に落ちないものがある。
武が、裏で笑っているように思えてならない。

一見シリアスな話なのだが、成功者として描かれるのは漫才師とトリッキーなボクサーである。
トリッキーなボクサーについては、あの後挫折する感がミエミエのようでもあるが・・・。

自分が漫才で大成功しているし、ボクシングジムにも通っていたそうだし、
多分自分が見てきた人々を描いているのだろう。

でも、あまりに残酷で救いがなさ過ぎる。
ヤクザの描き方も、薄汚くて醜すぎる。

どうしてもこの映画は好きになれない。

2008/12/15

夏目漱石の病気

漱石は胃が悪くて、何度も胃潰瘍を起こした末に、潰瘍が胃壁を食い破って血管が切断されて出血するという壮絶な死に方をしたそうだ。ガンだったのではないだろうか?
また、彼は「神経衰弱」だったことも有名であり、作中にもそういう主人公が出てくる。
彼の病気について調べていくうちに、面白い説を見つけた。
漱石は胃潰瘍と神経衰弱という二つの病気を抱えていたが、なぜか胃潰瘍になると神経衰弱がおさまっていたという。
そして神経衰弱とはドーパミンの過剰分泌によっておこされる「統合失調症」であり、漱石の体は胃潰瘍の激痛に耐えようとしてドーパミンが大量に分泌されるようになって、胃潰瘍がないときはそれが統合失調症として発症し、胃潰瘍になると鎮痛作用として働くために統合失調症の症状がおさまっていたというのである。
漱石は子供の頃からたくさん病気をしていて、そういう体になったというのである。

私も自分でも覚えていないくらい幼い頃に病気をして、医者が注射する薬の種類だか量を間違えて、危険な状態になったという話を聞いている。そして、子供の頃はいつもだるくて気持ちが悪いことが多かった。遠足でバスに乗れば酔うし、朝礼でたっていれば立ちくらみを起こして座り込むし、すぐ下痢をするし、という具合に。

それはほとんど精神的と言うか神経症というか、学校生活でのストレスから発症したものだと思っている。
学校に慣れてくるとだんだん収まっていき、中学生になって部活動を始めて体も強くなっていくと心身ともに落ち着いていった。

しかし、その頃には私は自分の精神が人とは違うことに気づき始めていた。
もしかして私も、幼児期の苦痛に耐えるために、大量のドーパミンを分泌する体になったのではないか?
そして、いわゆる「天然ボケ」とか「不思議ちゃん」とか「電波」とかいわれる人たちも、同様なのではないか?

2008/12/13

オールザットジャズ

これもタイトルだけはよく聞くのに観ていなかった映画のひとつである。
生涯指折りの二日酔いで寝ていることもできないくらい気持ちが悪く、テレビのチャンネルを回していると偶然やっていた。
ジャズとは全く関係のない映画だった。影武者とこの作品の二つが同時にカンヌグランプリだったそうだ。
村上春樹が好きそうだな。
でも俺はきらい。

例によってネットでレビューを探す。非常に評価が高い。まあ、カンヌグランプリだからな。否定はしにくかろう。「8 1/2」と比べる人が何人かいてパクリと言っている人までいたが、自伝的かつメタ映画っぽいところは確かに同じだが、私がこの2作品から受ける印象は太宰と三島くらいに違う。そして太宰と三島も似ているという人がけっこういるんだけど、この二人が似てたら日本人作家の作品全部似ちゃうだろ。

主役の俳優はどこかで見た顔だと思ったらジョーズの主演。フレンチコネクションにも出ている。この映画を撮ったときに47歳。

私は「踊る」ということを知らない。一人でちょっとふざけて踊ることはあるが、人前では絶対できない。ダンスよりもスポーツのほうが美しいと思う。

でもそういう合理的でも合目的的なことでもないものこそが芸術であり美であるというのが、オトナになってわかったことである。

2008/12/11

「漱石文明論集」

仕事の必要で長時間電車に乗ることになり、暇つぶしのために本を持っていくことにした。選んだのは岩波文庫の漱石文明論集である。「私の個人主義」「現代日本の開化」などが収められている。これらは明治44年頃の講演である。漱石は明治の年数が年齢と一致している。三島は昭和と。なので彼らが何歳のときかというのがすぐわかって便利だ。

「私の個人主義」では、漱石が文学とは何かということについてとても悩んだ末に、結局それは自分でどういうものかを考えるしかないと思った、とある。それが彼を文豪たらしめた瞬間であろう。彼は、自分が求めているものを誰も教えてくれないのはもちろん、持ってさえいないことに気づいた。つまり、自分があたらしく何かを築き上げようと考えたのである。これは大変なことである。胃が痛くなるのも当然である。

私も今、自分が求めているものを誰も与えてくれないことに悩んでいる。それは決して自分が甘えているのではなく、現存するものの中には私の求めるものがないのである。となれば、そう、私が築き上げるしかない。

2008/12/09

山本周五郎 「季節のない街」



「季節のない街」を読み終わった。
山本周五郎の作品を今頃になって読んだ事を後悔している。
せめて30歳くらいで読んでおきたかった。
兄が「さぶ」を持っていて、ちょっと読んでみようかなと手に取ったことはあったのだが。

人物の存在感というか、リアリティというか、現実感というか、
自然さというか、頭の中での言葉遊びではない、人を描いた、
小説らしい小説、剛速球のストレートな感じだ。

こういう世界から遠ざかっていた。
子供の頃、それも小学校へも行っていなかった、
近所の3歳から10歳くらいのいろんな子供達と
ワイワイ遊んでいた頃のことを思い出す。
土曜日や日曜日に近所の家で遊んでいてお昼ご飯をごちそうになると
母に怒られた。
ごちそうする母もそれをしかる母もいい母である。
私はなぜ怒られたのかよくわからなかったが・・・。

そこから引っ越して、近所づきあいがあまりない、
今住んでいる場所に来てからは、なんだか寒々しい日々が続いた。
テレビやマンガやゲームで遊ぶようになり、
やがてひとりを好むようになって、
社会人になってからは仕事が終わればほとんど人と会話もしない・・・
たまるストレスと不安・・・

それは私に限ったことではないだろう。
この街のような、感情をむき出して愛憎にまみれた、
一見汚く醜いような人間模様は、今すっかりなくなってしまい、
近所で子供が殺されても誰も気づかず、
すぐそばに住んでいながら顔も知らないような社会になった。

生活は便利に豊かになって食べ物にも困らないし
一年中エアコンが稼動して快適にすごせる・・・
でも、そんなのくそくらえだ。

感動したのでヤマシュウの文庫を4冊注文した。

2008/12/06

シティオブゴッド

この映画は公開当時話題になった。たしかタランティーノが売れ出した頃だ。
レンタルして見て、衝撃を受けたのだが、何か釈然としないものがあった。
今見ていてその理由がわかった。

わたしはヤクザ物、アウトロー物が好きである。
この映画も一見そのようであるが、決定的な違いがある。
それは彼らが自分の快楽のために悪事を働き、カタギの人間を殺してカネを奪っているところである。
これはただのケダモノ、なんのポリシーもない野獣、人間ではない。
こういうものには共感できない。

ラブホテルで最中のカップルを襲ってカネを取るなんて、卑怯にも程がある。
しかもそのカップルを撃ち殺してるんだぜ?

こんな映画が売れてる世の中もどうかと思う。多分中国では上映許可されないだろう。

生きていくためには悪事もやむをえない、宗教や法律なんか体制が無辜の民衆を押さえつける道具だ、そういう発想を憎む。

運転手に銃を突きつけて逃げるカップル。男が警察に捕まり撃たれているのにそのまま車で逃げて降りようともしない女・・・。

兄貴を殺した男が元締めをしているヤクを買ってそれを使って女を口説こうとする写真が趣味の気弱な男・・・。

子供に悪口を言われて逆上し子供を使って子供を殺させるスラムの自称支配者・・・。

後味の悪い映画だ・・・
子供使って何やってんだよ

この映画撮った監督とか脚本家とか、ちょっと儲けたかもしれないが
今頃干されてるぜきっと。

みんなの反応はどうかと、アマゾンのレビューなどを読んでみたがほとんど絶賛している。
「ブラジル人は人を殺しても陽気で爽快」「残酷なのに不思議と後味が悪くない」などと言っている。
あのね、これは実話に基づいてるんですよ?爽快だの言うところじゃないでしょ?
後味が悪くないって、どんだけ鈍感で理性マヒしてんだよ。

実話に基づいているという事が、さらに俺にこの映画を嫌いにさせた。

インランドエインパイア

後半はグダグダでわけがわからなかった。
私はわけがわからない系の映画は嫌いではないのだがちょっと度が過ぎているように感じた。
この映画ではクローズアップが多用されていた。私が何度か指摘しているTVドラマなどの欠点である。
しかし、この映画では不快さは感じなかった。リンチはTV作品も手がけているせいもあるだろうが、彼はクローズアップを便宜上使っているのではなくて好きで使っているのだろう。

前半は、主人公が常識人で周囲の異常な人や状況に対して戸惑い冷静になろうと努めているので、観客は彼女に支えられて異常な世界を眺めていることができる。

しかし、後半は彼女も壊れてしまい、口調も汚くなっていく。そうなるともうついていけなくなる。
3時間という長尺にしたのは、破綻したのもあるし、あえてそういうグダグダをやってみたというのもあるかもしれない。
リンチ程の監督になると、やりたい放題で半分遊びのようなものだったのかもしれない。
何の意味もないことに対して、ああだこうだと意味づけをする観客や評論家を引っ掛けようとしたのではないかとも思える。

私はホラーとかサスペンスとかいうものには全く興味がない。
そしてリンチはそういう作品を撮る人である。
彼の作品で唯一共感できたのはワイルドアットハートである。

それに出ていたローラ・ダーンが主演だったから見れた映画だった。
監督もローラで遊んだだけじゃないのか?
よっぽどお気に入りなんだな。
こういうのはメタ映画っていうのだろうか?
映画を撮っているのを映画にしている、というようなところは。


「ニッキー・グレイス」って、ワイルドアットハートの役名じゃなかったっけ?
違った、セイラーとルーラだった。
でも、なんかきいたことのある名前だな、「ニッキー・グレイス」・・・
まあいいや。

実はこの前にマルホランドドライブも録画していてちょっと見たのだが、そっちは全部見れなかった。

ファミレスみたいなところで、ホモみたいな眉が太くて目が大きい男が夢の話をしていて、それをニュースキャスターみたいな男が聞いている。
その後店をでてその裏口みたいなところへ行くと、猿みたいな気持ち悪い男がでてきて、ホモ野郎が気を失う。
そのシーンを見て、うんざりした。結局そのシーンの意味は最後までわからない。

初めて見たときは感動したオーディションのエロシーンも、あらためて見てみるとそうたいしたものではなかった。

2008/12/03

タワーリングインフェルノ

BS2でやっていた。先日亡くなったポールニューマンの追悼放映だ。この映画のことはよく知っているが、観たことはなかった。公開は1974年だからわたしが小学生になるかならないかの頃である。しかしなぜこの映画のことをよく記憶しているのかがわからない。この映画のチラシだかポスターが高値で取引されているとかいう理由だったような気もするが・・・しかしわたしはこの映画を見ようという気にはならなかった。単に高層ビルが火事になってパニックが起こるというだけのくだらない映画だと思っていたからだ。

そして、そのわたしの予想通りのくだらない映画だった。

ダイハードそっくりだったが、ダイハードのような爽快感はない。火事の原因が人間のエゴによる過失だからである。わたしはこの映画をぼーっと見ながら、原作者のちょっと病的な心理を感じていた。まったくのカンだが、この作者は高齢にさしかかり、生活や健康について不安を感じ始めていたのではないか。特に塔と炎というと、性的な情念とそれに耐えられない肉体、という連想をどうしてもしてしまう。

2008/12/02

村上春樹 「羊をめぐる冒険」

「羊をめぐる冒険」を読み始めたがうんざりしてきた。やたらとセックスだのペニスだのが繰り返される。誰とでも寝る女とか。そのうちセックスはやろうと思えばいくらでもできた、とか。図書館で立ち読みした「ノルウェイの森」にもそんなことが書いてあって、読む気を失くした。もしかして村上の小説はこんなのばっかりなのか?

共感できるのは主人公が終始ビールやウィスキーをがぶがぶ飲んでいることくらいだ。

太宰も自分がもてたとかいうことをちょくちょく書いているが、彼は実際かっこいいし、あまり露骨な事はいわないから許せる。セックスがどうこうという話になったときに彼の顔が思い浮かぶとものすごく白ける。「鼠」って、奴のあだ名じゃないの?

「羊・・・」をなんとか我慢しながら読み続けてきたが、
今朝読んだ部分はとてもすばらしい描写だった。
それは電車に乗って北海道のさびれた町へ行きそこを歩く描写であるが、
比喩や皮肉っぽい言い回しをからめてなんとも言えない空虚さと寂しさのようなものを醸し出している。
これが村上春樹か・・・
と思ったところで、主人公と女の会話が出てきたところでまた少し不愉快になった。

通勤で電車に乗る時間はほんの3分程度である。
電車を降りて今日読んだ箇所のことを考えていて、以前自分が彼の小説について語った言葉を思い出した。
「新聞の折り込み広告のマンションの完成予想図に描かれているような人間の描き方」
要するに、人間を描くのがヘタなのだ。
きっとそうだ。

ジャズはメロディーを重視しない音楽である。
悪く言えばメロディーをバカにしたような音楽。
それを文学に当てはめると、人間の感情や感動をバカにしたような文体になり、
それが村上の文体である。
彼の小説の登場人物は躊躇したり恥ずかしがったりあれこれ思い悩むことがない。
これはアメリカ風なのだろうか?
ずばずばとものを言い合って、ほとんどケンカ腰ですらあり、
目に入る人物をことごとく観察しあざ笑っていくようである。
自分が相手にどう思われているかなど全く気にしない。

カフカも彼が大好きな作家のようで、彼の影響も受けているようだ。
私は審判しか読んでいないのだが、カフカと似たところもあるが、根本的に違う。
カフカには酔っ払ったような自由奔放さも物悲しさもなかった。
彼の小説から感じるものはもっと暗くて恐怖に近いくらいの不気味さである。
そのかわり人を馬鹿にするような雰囲気は感じられなかった。

村上春樹を読むようになってから、自分の文章を読むとつまらないし
文法的にもミスが多いと思うようになった。

これは他の作家ではなかったことである。
三島由紀夫や太宰や漱石やらは自分の文章とは比較対象にすらならないからだろう。

村上は世代が近いし文章も一見誰でもかけそうな平易な言葉を使っているから、自分と比較してしまうのだと思う。
しかし読み続けていると、ノーベル賞有力候補の大作家に向かって言うのもなんだが、文才は尋常じゃない。


「羊をめぐる冒険」を読み終わった。つまらなかった。

特に「冒険」が始まりだしてからは読むのが苦痛でたまらなかった。「聴け」、「ピンボール」はまあまあよかったのだが。なにがいけないって、ある模様のついた羊を探すとか、それに右翼の大物が絡んでいるとか、そういう安っぽい映画みたいな話は受け付けない。羊を探していると思ったらそのうち「鼠」を探しだして、羊男なんてのが出てきて、ついに鼠に会ったと思ったら死んでいたとか言い出す。だいたい、「鼠」って何者?主人公もそうだけど、鼠という登場人物には何の共感も覚えない。読んでいて鼠が出てくると頭の中には「鼠先輩」が現れる。真っ暗な部屋のなかで、鼠先輩と近田春夫が背中合わせでビールを飲みながらナンセンスな会話をしている情景が思い浮かんで、滑稽でしかない。セックスしたとか誰とでも寝る女とかがよく出てくるけど、そのときもあのモグラみたいな村上春樹がセックスしているところなんか、想像もしたくない。相手の女はどう考えても美しくないだろう。

そしてようやく羊を片付けたので、読みかけていた季節のない街を再開した。これはおもしろい。登場人物に生命が感じられる。今読んでいるカンドウセイキョウの話はとくに面白い。漢字で書くべきところがひらがなになっていたり、原稿用紙の字は汚く走り書きのように書かれているのではないかと思える。絵でいうと非常にラフな感じ。だが、リアリティはあり、調和もとれている。三島由紀夫とは対極な感じだ。

2008/11/17

The Who Live 2008年、さいたまスーパーアリーナ

2008年11月16日。起きたら雨が降っていた。週末からなんだか体調が悪く、酒を飲んでもうまくないしなかなか抜けない。上野で買い物をして食事をして、2時半頃に高崎線のグリーン車に乗る。初めて乗る電車だ。さいたまスーパーアリーナへ行くのも初めて。周りは見慣れずさびしい景色。さいたま新都心駅に着く。ひろいコンコースだ。アリーナへ行く人がちらほら見える。雨が少し降っていて、皆左側の屋根のあるところを歩いていたが私はど真ん中を歩いていく。雨などほとんど感じられない。右側に白人の若者3人が缶ビールを飲みつつ歩いている。ガイジンは昼間から飲みながら歩くよな、俺も日本人離れしているんだ、と思いつつ彼らを追い越すとイギリスなまりの英語をしゃべっていた。
コンコースを出ると右手に巨大な建物が見える。さいたまスーパーアリーナだ。ダフ屋お断りの看板が立っており警備員もいて、ダフ屋はいない。ダフ屋のいないコンサート会場など初めてだ。グッズ売り場を見てみるが何も買わなかった。開場まで1時間あるので、周辺をうろついていた。入り口は2階にあるが1階におりて周りを歩いてみる。人はあまりいない。ジョギングしている人がいる。さいたま新都心駅を右手に見て、先ほど歩いたコンコースをくぐって左に曲がった。道路を渡って、けやき広場というところの脇を歩いていると、前から黒いリムジンが来た。車種はわからないが少し古い車である。どんな人が乗っているのだろうと後部座席を何気なく見てみると、軽くスモークがかかっていたようだったが背の高い外人がサングラスをかけて座っていたように見えた。もしかして、と振り返ってみたが、リアウインドウはカーテンがかかっていたか何かでよく見えないが2,3人座っていたようだった。でも、開演が5時で3時に会場入りは遅いから違うかな、と思うが、いったん会場入りしてちょっと出かけたのかもしれないとも思う。
けやき広場では、ミニコンサートが開かれていた。私が最初に見たときには、忘れてしまったがアルファベットの名前の女性だった。その時は客もまばらだったが、その後に出てきたred pepper girsという二人組の時には人が増え、上からのぞいている人もたくさんいた。一昔前にさわがれたTatooと今人気のperfumeをあわせたような感じだ。それが終わると開場10分くらい前になったので入り口へ行く。もう大勢待っている人がいる。会場を整理しているスタッフは皆黒いスーツを着ていて、ちょっとものものしい。スーパーアリーナはまだできたばかりなのだろう、中はとてもきれいだ。自分の席を確認して、ステージの方へ近づいてみる。ロックオデッセイを見た横浜国際競技場よりも一回り小さいくらいのキャパシティだろうか。席はオデッセイのときと同じような位置で、ステージに向かって右側、ステージまでは50mくらいの場所かな。客の入りはよくて、開演時にはぎっしり客が入っていて、ざわざわとしている。私の周りは一人で来ている男性が多く、みな本を読んだりiPhoneを見たり静かにしていた。5時になって照明が落ちた。前座はないようだ。歓声があがってメンバーが登場する。Peteは黒ずくめで帽子をかぶっている。寒かったのだろうか。帽子をかぶったPeteなんか見たことがない。ストラトは赤だ。すぐにCan't explainが始まる。音がでかい。なんだかビリビリとノイズのようなものが多くて、あまり楽器の音が聴き取れない。まあ散々聴きまくった曲ばかりなので頭の中で補完されていたが。セットリストは二日前の横浜と同じだったようで、特に驚くような選曲はなかった。客の反応は良くて一緒に歌う人が多かった。特にBABAのdon't cryのところは大合唱になって、私も思い切り声を張り上げて歌った。客のノリがよいので少なくともロジャーはご機嫌だった。5:15ではinside outsideのところで客にマイクを向けて歌わせている。・・・と、間奏のときにPeteが突然客席の一箇所を指差してYou!!と叫んだ。何を言っているのかよくわからないがYou on the train!!などと言っているのが聞き取れた。そして指差した手を外へ向けて、「出て行け」みたいなジェスチャーをする。ノリが悪いかヤジりでもしていた客にキレたのか?よくわからないが私の気持ちが一気に冷めてしまった。間奏が終わると何事も無かったように演奏は終わり客も沸いていた。私のさめた気持ちもすぐに元に戻って再び没入していく。sister disco、relay、eminence frontなどの2004にはやらなかったシブめの曲も披露したが、それらの曲のウケはやっぱりイマイチ。でもmy generationからold red wineのリフをやってWGFAへの流れはよかった。WGFAの出だしは最近はまともに行かないことが多いのか、2004の横浜同様今回も、一発目のジャーンは決まったが二発目が不発だった。でもそんなことはおかまいなしに熱狂のうちに曲を終える。いったんメンバーがさがるが拍手は絶えることなく総立ちのままで、ほどなくしてメンバーが戻ってくる。Tommyメドレーはもうおなじみである。赤ストラトは音が太くて演奏も荒っぽい。see meでもロジャーは客に歌わせていた。最後、ザックがかなりノって、ためにためて締めた。Tea and theatreが終わるとPeteはJ200を上に掲げて壊すフリを見せるお茶目っぷり。

全体的に熱くて駆け抜けるようなライブだった。ちょっとうわすべりというか、やっつけみたいな感じも無くはなかったが・・・。まあライブとしては、客は楽しめたのではないだろうか。しかし私にはその夜から一夜明けた今に至るまで、なんとも言えない後味の悪さが残っている。なんだろう?体調が悪かったこともある。音響がイマイチだったこともある。ステージから遠かったこともある。でももっと、The Whoそのものに対する失望のようなものを感じてしまったのだ。横浜の時には、WHOにも、観客の我々にも緊張感があった。初来日のWHO。超大物なのに日本での知名度がイマイチなので他のアーティストにまじった出演で、しかもトリじゃない。WHOの前は稲葉。後はエアロスミス。稲葉やエアロが目当てでついでにWHOを見ようという客が多いのではないかなどと余計な心配までした。WHOのメンバー達も、日本人にどれだけ理解できるのか、おとなしくて乗らないんじゃないか、などという不安があっただろう。ロジャーの顔は最初あきらかに固かった。しかし始まってみれば客は予想外に反応がよく、おそらくWHOのことは良く知らないであろう若者達も引き込まれているのがわかった。年取って重要なオリジナルメンバーが二人もいなくなったWHOのパフォーマンスに正直言ってそんなに期待していなかった私のほうも、いい意味で完全に裏切られた。そして今でも語り継がれるギタースマッシュの結末。もしかしたらあれがPeteによる最後のスマッシュになるかもしれない。横浜のときはそんな緊張感があって、節度ある盛り上がりだったのだが、今回はもうなんでもいいから騒いでやれみたいな、いい加減な雑なノリに感じられた。

2008/11/04

アマルコルド

フェリーニの映画は、「道」と「8 1/2」はおもしろかった。「la dolce vita」はよくわからなかった。
「道」については、それをリメイクした、仲代達也と藤谷美和子が出ているのを、試写会に応募して当選してみたことがある。

フェリーニを見るきっかけはそれだったと思う。となるとずいぶん前の話だ。

アマルコルドはいつだったかな、結構最近に、TV東京で昼間にやっていたのをVHSで録画した。私は吹き替えの洋画などまず見ないし録画もしないのだが、アマルコルドはレンタルビデオ屋にもなかったので、貴重な機会だと思って録画した。

内容はほとんど覚えていないのだが、好印象で、録画したテープを捨てずにとっていた。
記憶に残っているのは、ちょっと頭のおかしい男が木に登って「女が欲しいよー」と叫ぶシーンである。

今日、パソコンでゲームをしながら見た・・・というか、ほとんどゲームのほうしか見ておらず音だけ聴いていた。
やたらとにぎやかでイタリア語で家族が怒鳴りあうようなシーンが続く。
だが、うるさくはない。そして音楽がいい。

主人公が誰なのかすらわからない。

太った女の乳房を、若い男がなめるシーンは、記憶になかった。
もし見ていたら絶対におぼえていたはずなので、多分TV放送ではカットされていたのだろう。
そのあと寝こんでいたのには笑った。

最後のほうで孔雀が現れる。
アマルコルドってもしかして孔雀のこと?

今度じっくりと見てみたい。

2008/10/24

HANA-BI

思い出したこと。

2回目か3回目に気づいたことなのだが、最初のシーンは主人公の西が、自分の車のボンネットに座って弁当を食っていた若者を殴るところである。その若者達は後日ナイフを持って復讐に来るのだがそこでも西は彼らをぶちのめす。すると今度は、彼の車に赤いペンキで、「死ね」とラクガキされる。

・・・

そして、西は最後本当に死んでしまう。

確認しようと思って、昔焼いたはずのディスクを探した。確か、WOWOWで放送されたものをVHSテープに録画し、それをスゴ録の外部入力から録画して、DVDに移動したものだ。

音楽がいい。絵もいい。

さて問題のシーンだが、「死ね」は車ではなく、車を停めていた場所に書かれていた。

この映画は神がかっている。
最初に見たのはベネチア(だっけ?)でグランプリを獲ったニュースを見てしばらくしてからで、近所のレンタル屋でVHSを借りた。
そのときはあまり感じるものはなかった。

だが、あるとき、何気なくテレビのチャンネルを変えていたら、銀行強盗帰りのタクシーが走るシーンが映った。どっかでみたなと見ているとHANA-BIだった。

それをきっかけに、何度か見直すことになるのだが、
そのたびに評価が上がっていく。

そして武の映画は全部見て、新作は公開されると劇場で見た。

それらの作品と比べると、HANA-BIの絵(映像)は、別人が撮ったように違う。
本質はあまり変わりがないかもしれないが、映像の撮り方とか構図とか、技術的なものが、洗練されている。

銀行強盗のときもそうだが、車がただ走るだけのシーンが美しい。
ほかに車がなくて一台だけ走るからかな。武の映画にはよく出てくるよね、車が一台ツーっと走っていくシーン。
チンピラの復讐は、話が少し進んでから挟まれる。
こういう、メインのストーリーとはあまり関係のないサブストーリーのようなものを挟むことも、最近の武の映画には減ってきたように思う。

まあでも、今指摘したことはみんな技術上のことであって、彼の映画の本質はそんなところにあるのではない。HANA-BIみたいな撮り方もやろうと思えばできるだろうが、あえてそれをせずに新境地を模索している。

マンガ家も、だいたい新人の頃はリアルに書こうとするがだんだんデフォルメされていくように、自然でリアルな描写から、抽象的な描写になっていく、芸術とはだいたいそういう風に成熟していくのではないだろうか。

2008/10/19

Frank Zappa "Guitar"

1. Sexual Harassment In The Workplace

素晴らしい。フザけた題だけど。
裏ジャケットの写真がかっこいい。あんな感じのイラン人が上野にうじゃうじゃいたよな、90年代後半。その後一掃されて、ダルビッシュみたいにイラン人の子がヒーローになってる今。


Disk2の、 12. Watermelon In Easter Hay

これもフザけたタイトルだけど。素晴らしい。
セクハラとこの曲、この2曲があるのでGuitarは大傑作になっている。
全体としてはshut upのほうがいいかもしれないけど。

セクハラがずっと頭の中に流れているが、それがいつの間にか違う曲になっている。これなんだっけとそのまま頭の中で再生していくと、dylanのwhat was it you wantedであった。

違う違う、と、またセクハラを再生するが、やはりwhat was...に変わってしまう。そのうち、アルバムではその次に入っているshooting starまで再生される始末。

私の脳内で、ですよ?

sexual harrasment in the workplace は、C#のブルースだった。
久しぶりにギターを弾いた。チューニングがあっていればだが。

村上春樹 「風の歌を聴け」

最初はフムフムなるほど、と思ったが途中からムカつき始めた。書いてあることにはまったく共感できないのだが、80年代、私が高校生、浪人、大学、社会人になる頃の、浮かれた世間、酔っ払った世間、軽薄短小、スコラ、GORO、イカ天、きまぐれコンセプト、金魂巻、そういう記憶がよみがえってきた。つぼ八、村さ来、日本酒、ゲロ、チノパン、ボタンダウン、ローファー、ワンレン・・・・

セックスを軽視する風潮、カタカナ、モラトリアム、透明、無表情、スカした感じ・・・

村上春樹を読んだ印象が、「ニューロマンサー」に似ている。「ニューロマンサー」を読んだきっかけになったのはあるブログの記事だったのだが、そのブロガーは村上春樹についてもよく書いていて、彼の作品が出たら即日入手して読むとか言っていた。彼は私とたぶん同い年でコンサルタントで高額所得者でアル中でたぶん***だ。きっと村上もバブルを描いたのであって、それが無機質というか虚無的というか、酔っ払いのたわ言のような変に理屈っぽくてナンセンスな語り口になっているのだろう、キザと言ってもいい。デビュー作なのでちょっと気負いがあったのではないか、ピンボールではキザさが抑えられて、いい感じだった。「羊をめぐる冒険」も買ってある、これは楽しみだ。

「ふぞろいの林檎たち」、「東京ラブストーリー」、「カーンチ、セックスしよう!」的な雰囲気も思い出した。あの頃はなんだったのかな、幸せだったのか浮かれてたのか、今よりまだマシだったのか、よくわからない。

あの頃、なんだかわからないけど、俺はあちこちふらついてた。タバコを吸いながら。大宮、川崎、南町、栄町、平日の昼間に。「カラマーゾフの兄弟」を読みながら。「死に至る病」を読みながら。インターネットもiPodもなかった頃。

2008/10/13

村上春樹 「1973年のピンボール」

村上春樹の「1973年のピンボール」という文庫を買った。ついに、ムラカミの作品に手をつけた。一応、読んでおかないと。まだほんの始めしか読んでいないが、触れたことのない世界だ。意志や主張や感情がほとんど見えない、透明というか、軽やかというか、支離滅裂とさえ言えるような、不思議な文章だ。これって、パンクじゃないのか?

ムラカミは、1949年生まれだから、1973年というのは彼が24歳のときで、この作品が発表された1980年は彼が31歳のときである。若い頃の作品であるが、若いとかどうとかいう問題ではなく、私自身はもちろん、私の身の回りの人にも見たことのない、まるで異次元の世界のような、感性の違いを感じる。

たとえば、根性とか、友情とか、出世とか結婚とか、テレビのドラマや漫画とかにあるような涙とか抱擁とか、憎しみとか和解とか、そういう荒っぽいというか俗悪というか、べたべたしているというか、そういうものが全然ない。

毎日の事務的なことやケチな悩みをわすれるには、いいのかもしれない。

3連休中あちこちフラつく途中の電車の中で読了。軽い小説ではあるが、初めて彼の作品をひとつ読み通してみて、なるほど、これはひとつの特有の世界を形成していると感じた。先日読んだギャツビーを、彼が大好きなことは知っていたが、なるほど、似たような世界である。Jazz的な世界。あまり形式は重要ではなくて、メロディーさえ、アドリブの伏線にすぎないような、そういう世界。

読み終えて、いったい彼の作品の特殊さは、今まで読んできた文学との違いはなんだろうかと考えて、気づいたのが、登場人物達の魅力のなさである。
彼の作品に登場する人物達は、まるで新聞の折り込み広告のマンションの完成予想図に描かれている通行人のように、表情がなく、輪郭さえあいまいで、吐く言葉にはたいした意味も意志もない。

そういう、まるで石ころか街路樹であるかのような人間の描き方については、それはそれで新鮮で、美しいとさえいえるような世界を創り出していることは認める。

さて、私は彼の作品を気に入って次々に読むようになるだろうか?

今日、私は本屋へ行って、次に読むべき彼の作品を探しに行った。でも、どうしても買えなかった。彼が出している、小説以外の少しふざけたような本のタイトルを眺めていると、彼がどうしても好きになれないのである。

「ノルウェイの森」は、なんでかよくわからないけど大騒ぎになって、あの真っ赤と緑の表紙がどこの本屋でも平積みになっていた。ノルウェイの森・・・なんだそれと思って、立ち読みしてみると、なんだ、Norweigian Woodのことか、ビートルズの曲名それも邦題をタイトルにしていることでもう、読む気が失せた。

そして、題名のピンボールの意味を考えた。最初に「これはピンボールについての小説である」、と断っておきながら、なかなかピンボールが出てこない。出てきたのは多分、真ん中より後だ。たぶん、主人公達の生活がピンボールみたいなものだったと言いたいのではないだろうか。ピンボールというとどうしてもpinball wizardが出てくる。あれもきっと、いろんなものを象徴しているのだろう。狭い意味では音楽、大きな意味では芸術一般。芸術とはそもそも楽しいだけで何の得るものもないものだからだ。あとは、最後に台と会話なんかしてたから、女なのかな。でもそれはちょっと余りにも、という気がする。

どうやら初期の3作は三部作となっているらしいので、残りの2作をアマゾンで注文した。そして今朝、仕事にいく道すがら、「私は村上春樹が好きです」と人前で言うことは、あまりカッコのいいものではないのだ、ということがわかった。

今までは、村上春樹は読んだことがなかったので、何か聞かれても読んだことがないとしか答えようがなかった。批判すらできなかった。
しかし、1冊だけだが読んでみて、いろんな人からの評判を聞いて、だいたい彼の小説がどんなものかがわかった。今までも、話題になった人の作品を読んでみて、なるほどと思ったことは何度かある。石川達三、町田康、星川清司、平野啓一郎、綿矢りさ、大江健三郎、ガルシア・マルケス・・・

これらの人たちは、私と同時代に生きた人である。石川達三は訃報を聞いて読んだのである。私が読む本のほとんどは、過去の、それも18世紀とか19世紀とかの作品である。第二次大戦後の話が出てくると、もう最近である。

そして、そういう最近の作家、今生きているような作家の作品は、うかつに手を出せない、と思っている。私はまだまだ、文学のよしあしを冷静に判断できるほどの読解力も経験もない。だから、何がいいものかを知るために、名作・古典といわれているものを、苦労して読んできたのだ。そういう状態で、わけのわからないものを読んでしまうと、偏った感性が身についてしまうのが怖かった。村上春樹もその一人であったが、いまやノーベル賞をとるかというほどの作家になった。それで読んでみたのである。

2008/10/05

悪い奴ほどよく眠る



NHK BS2で。テレビがおもしろくないしカゼぎみでだるいので見た。
19インチワイドディスプレイ、Sケーブルでの映画鑑賞を試す意味でも。
なんだかんだ文句を言いつつよく見ているクロサワ映画。
この作品はクロサワ作品のなかでもあまり人気がないようだ。
まず、汚職を暴くみたいな、三流ジャーナリストみたいな話なのがつまらない。
むしろ、映画は悪そのものを描いてほしいくらいだ。

西村晃演ずる下っ端の翻弄されっぷりは面白かった。

この作品がいまひとつすっきりしないのは、脚本が5人だか6人だかいたことではないだろうか。
各登場人物に、脚本家たちの言いたいことをおのおの代弁させているようで、メインの人物が定まらない。

メインが定まらないといえば、三船敏郎がめがねをかけて刈り上げてぴっちり横わけにしていたのも、
そういう役柄だとしても、あまりに地味で魅力に乏しい。

魅力があったのは西の義理の弟になる酒飲みのドラ息子だが、脇役でしかなかった。

クロサワ映画の嫌いな理由のひとつは、安っぽい正義感というか、体制批判みたいなものがあることだ。それはすなわち、芸術ではなくて娯楽に堕している理由でもある。そういう意味では、武は黒澤に勝っていると思う。絵の撮り方や話の作り方(脚本?)はクロサワの方が上手だけど。武のよさって、やっぱり彼の絵と同じようにヘタウマなんだと思う。

2008/10/03

宮沢賢治と江戸川乱歩

私は小学生の頃、図書館で二人の作家の全集を読破した。
江戸川乱歩と宮沢賢治である。
江戸川乱歩のほうは、少年向けの「怪人二十面相シリーズ」である。たしか全43巻くらいだったと思う。
宮沢賢治は12巻くらいである。
途中から、全部読むことが目的になったようなところがあって、上の空で読んでいた部分もあると思うが、この二人から多大な影響を受けたのは間違いないだろう。

小学生のとき、「家庭学習」というものを義務付けられていた。
これは普通の宿題ではなく、みずから勉強することを決めておこなうものである。

わたしはある日、家庭学習として、宮沢賢治の詩をノートに書き写した。
そのうちのひとつは「永訣の朝」である。
これは若くして亡くなる妹について書かれているため、子供ながらに強い印象を持った。

だが、今読み返してみると、悲しくはあるがまた非常に美しい詩である。
描かれている情景、雪、曇り空、松の木などもそうだが、
賢治の語りとその合間に挟まれる妹の「あめゆじゅとてちてけんじゃ」などの岩手弁が、音楽のようにながれるようなリズムで刻まれている。

あと、「だめでせう」。
これは眼にて云ふの書き出しであるが、
これも強烈に覚えている。

2008/09/21

シュガー


この3人組は好きで、特にウェディングベルは名曲だと思う。youtubeを見ていたら偶然この曲を見つけた。当時も話題になったが、「くたばちまえアーメン」というのは、ちょっとドキっとする、あまりいい気持ちのする歌詞ではない。そして、「くたばっちまえ」と歌っていた女性は、若くして亡くなってしまった。まったく偶然とも思えない・・・。

アキレスと亀

予告編を観た時、イヤな予感がした。
まず、冒頭で挿入されたアキレスと亀について説明するアニメにしらけた。いらないよ、あんなの。
絵がキレイすぎる。TVドラマのようだ。始まってもなかなか映画に入り込めなかった。
主人公を武が演じるようになって、ようやく乗ってきた。やっぱり、武はいい役者なんだろう。
路線的には、最近の2作を踏襲した、ナンセンスコメディである。3部作の最後、マジメな作品を装っていたが。
芸術のために生活も家族も何もかも捨ててしまうところ、最後火をつけて絵を描くところは地獄変を思い出した。
ただ、なんで小屋に火をつけてひまわりを描くのかはよくわからないが。
あのまま死んでしまったらクソ映画になっていたところだ。
結末は予想していなかった展開で、泣きそうになった。
やっぱり、最後にはもっていかれた。

2008/09/19

二冊の必読書

「カラマーゾフの兄弟」の新訳が大変売れているというニュースについて、ある場所で「必読の不朽の世界的古典は何か」みたいな話がされていた。ドストエフスキーの「カラマーゾフ」と「罪と罰」を、そういう作品のひとつとしてあげる人は多い。わたしもそういう触れ込みを聞いて、読まねばなるまいと思って、正直しんどかったが読み通したのである。しかし、ドストエフスキーの作品は決して小難しかったり説教くさかったりすることはなく、どちらかというとユーモラスで、毒舌というか破天荒というか、決してお行儀のよい小説ではないので、ボリュームのわりには楽しく読めると思う。

しかし、私は彼の小説に、面白さ以外の、人間とか神とか罪とか信仰とかに対する、特に深い洞察があるとは感じられなかった。私は基本的に不可知論者で、お人よしで、世間知らずで、常識人である。アタマもよくないし、金儲けもヘタな、つまらない凡人である。正直と謙虚さと素直さが大切だと思っている。熱心な信仰も持たないが、神なんかいないさと真剣に考えたり、信仰を持つ人を侮蔑したりもしない。むしろ、そういうものに大しては興味があるというか、親しみを覚える。そういう人間には、ドストエフスキーの作品はあまり感動できないと思う。そして、それでいいと思う。ドストエフスキーの作品に夢中になって、主人公に感情移入してしまうような人はちょっと危険で、多分嫌われ者だと思う。

さて、私が必読だとする世界的古典は、2冊ある。他人にすすめるのだから、当然自分が読んで感動したものでなければならない。そんな書物は数えるほどしかない。1冊目は、プラトンの「国家」である。もう1冊は、カントの「純粋理性批判」である。そして、この2冊の内容は非常に似ているとも思っている。両者ともに、人間理性と認識の限界を主張しているのである。だから、結局誰も真理なんかに到達できない、という主張である。そして、正義とか善というものを肯定しているのも、珍しい書物である。小難しいことを言う人は、たいてい誰もが漠然と認めているぜそれらの価値観の根底を揺るがすようなことを言うものであるが、プラトン(ソクラテス)やカントは違う。そして、その正義や善を肯定しようとすると、それらの正当性がとても人間に定義や証明をすることができないものであるということに気づくのである。それを説いた書物なのである。人間は、そのことだけは忘れてはならないと思う。家庭においても、仕事においても、芸術、科学、スポーツなんでも、その姿勢がないと、何もできないと思う。

ただ、そういう境地に達するのは、「国家」や「純粋理性批判」を読むことによって成し遂げられるのではない。この2冊の書物はあくまでも確認である。その境地に至らしめることのできるおそらく唯一の書物は、聖書である。私も、先に聖書を読んでから、「国家」や「純粋理性批判」を読んだのである。聖書から受ける漠然とした、しかし確実な何かを、これらの書物によってよりよく認識させられたのである。一見荒唐無稽で非科学的、非論理的に思える聖書の記述が、屁理屈よりは全然説得力があるということを、思い知ったのである。

2008/09/18

瓜田純士 「ドブネズミのバラード」

今年の3月だったろうか。新宿である男が金属バットを持った集団に殴り殺された。私はそのニュースをインターネットで知ったのだが、なじみのある新宿でそんな事件が起こったことに驚いて、被害者の安否が気になっていた。数日後被害者は亡くなったのだが、彼はある世界の有名人であり、その交遊は芸能界にまで広まっているとして、現在テレビなどで大活躍の芸能人の名前がインターネットで話題になっていた。そのような情報を読んでいるうちに知ったのが、この本の作者、瓜田純士であった。

彼はブログを書いていて、私が知ったときにはすでに毎日20万ものアクセスがあるとのことだった。なんでも東京を制覇しただのブラックエンペラーの総長の息子だの小指がないだの全身イレズミだらけだの、クスリと拳銃所持で捕まって出てきたばかりだの、とんでもない男だというので、私は彼のブログや2ちゃんねるのスレッドなどを読みあさった。

その後、私は彼が出場したアウトサイダー第一回大会の動画を購入した。J-Waveに出演した番組は録音した。アウトサイダー第二回はディファ有明へ見に行った。短編映画のブルーベリーも購入して観た。ブログはもちろん、一日10回くらい更新を確認しながら読んでいる。「バラード」のことは、発売されるずっと前から知っていて、当然買うつもりだった。だが、なぜか発売後しばらくは買う気にならなかった。そして、今日、仕事の帰りに家の近所の本屋においてあって、買った。

彼の経験した内容の、おそらく、半分も書けていないのではないだろうか。しかし、この本と、ブログと、ブルーベリーと、噂話を総合すると、2年だか3年で刑務所を出られてよかったな、というような人生だったと思う。ただ、刑務所内のコンクールで優勝したという短編はとてもよかった。これは事実ではなく、だいぶ脚色した話のようだが、その方がよかった。自分の血なまぐさい経験を売り物にするより、こういう「作り話」の方が、面白いと思う。

実は私は、安藤昇、花形敬、ゴッドファーザー、ジアンカーナなど、ヤクザとかアウトローものが大好きである。でも、今まで見てきたのは全部、自分より年上の、昔の話である。ところが瓜田氏は、私より一回りも下のアンちゃんだ。そんな彼が拳銃だのコカインだの刑務所だのヤクザだのという世界に生きて、もうたくさんだと言っている。ブログではいまどきのアンちゃんのような軽快なギャグをとばして微笑ませてくれる。そこが複雑なところである。

2008/09/16

高岡英夫、松井浩 「インコースを打て」

高岡英夫と松井某の共著。週刊文春で紹介され、ほめられていた。高岡は今どうしてるんだろうという思いもあり、買ってみた。
が、期待はずれだった。
高岡氏の思想を松井氏がなんとかしてものにしようとあがきながら、結局できなかった。高岡氏がこう言っている、という紹介の域を出ていない。
松井氏の文章自体が、「ゆる」んでいない。シュート使いの投手や内角打ちの名人といわれた選手たちの話を紹介しているのも新聞記者のような事実の羅列で退屈だ。
高岡氏の著作を読んだときのニヤニヤしつつ胸躍り、自分のからだがゆるんでいく、そんな気持ちにはなれなかった。

2008/09/07

80's

TSUTAYAで80'sモノのCDコーナーがあったので試聴してみた。cindy ローパー、nena、a-ha、フットルース、カルチャークラブ・・・思わず足ぶみしてあごがしゃくれていた。

CDは何種類かあったが、マイケルジャクソンのbeat itとbilly jeanを選曲していたものを買った。

家について寝る間際に聴いてみた。が、じっくり聴いてみるとどの曲もアラが見える。けっこう雑なつくりだ。イントロだけでもういいやとスキップする曲の連続。最後まで聴いた曲はひとつもなかったのではないだろうか。

まあいいかなと思ったのは、バングルスのmanic monday,フィルコリンズと誰かのeasy lover, men at work, time after time くらいかな。

easy loverは当時は何がよいのかさっぱりわからなかった。フィルコリンズのなんかエフェクトがかかったような声も嫌いだった。でも今聴いてみるとフィルコリンズはいいミュージシャンだったんだな、とわかる。

80年代といえばspringsteenとmadonna抜きに語れないだろう!
なんで入ってないんだ!!

Princeも。

inxsとかも。pretendersも。a-haも。
なんかヒネクレた選曲だな。

Almost Paradiseは、死ぬほど聴かされてもう頭の中にコピーされてしまっているくらいだけど、女がAnn Wilsonだということは知らなかった。今聴いてみても、ちょっと遠慮がちに歌っているように聞こえる。そういうところが、好き。


(今アマゾンで探して見つけたが、もう売ってなくて中古でしか入手できないようだ)


2008/08/18

八代亜紀

オリンピックを見ようとサウナに行ったがその合間にアクユウが詞を書いた曲を流す番組を見ていた。亡くなった直後はなるほどと思いながら見守っていたがさすがにいつまでやってるんだという気になってきた。

私が小学生の頃に売れていた歌謡曲のほとんどといってもいいくらいの多くの曲の詞を書いている。が、しょせんは歌謡曲、大衆芸能である。言葉も通俗でベタだなあなどと思いながら見ていた。

私は歌謡曲の詞などどうでもいいと思っている。詞はあまり意味がないほうがいい。ある曲を聴くときに詞がいいと感じるような曲は駄作である。詞は、曲を損ねない程度になんとなくふわっと書かれていればよい。

山本リンダ、尾崎キヨヒコ、岩崎宏美、桜田淳子、沢田研二・・・・。

沢田研二にも感心したが、八代亜紀の舟唄には参った。
詞ではなく、曲に参った。

わたしは物心つくかつかないかの頃から八代亜紀が大好きだった。

そして今日、その物心つくかどうかのときに私が見ていた八代亜紀の映像を見て、わたしの感性が正しかったことを確認した。

2008/08/11

愛の園

歌謡選抜といえば、西城秀樹が「愛の園」というシングルを発表したときは衝撃的だった。

それはまだベストテン入りする前に、新曲紹介ということでかかったのだ。 そのときは司会の小川哲也も戸惑っていて、私も、「こんな曲日曜の昼に流していいのかよ」と思いっきり引いたのを覚えている。当時は「引く」という言葉はなかったが。 

そしてさっきyoutubeで探してみたら、この曲はsteivie wonderの曲だということがわかった。 おみそれしました。 で、結局この曲は売れたのかどうか、覚えてない・・・ あまり売れなかったんじゃないかな・・・

君に薔薇薔薇・・・という感じ

先日ある場所で田原俊彦の「君に薔薇薔薇・・・という感じ」という曲がかかっていた。私が中学生の頃の曲だが、なかなかいい曲だ。調べたら案の定、筒美京平の作曲だった。

私は、今思い出すと少し気持ち悪いが、歌謡曲が大好きだった。ザ・ベストテン、ドレミファドン、ヤンヤン歌うスタジオなどを欠かさず見ていた。そして日曜日は朝9時ごろから放送されていたランキング番組、当時は「ベストテン番組」と呼ばれていたが、をずっと聴いていた。

午後1時からは全日本歌謡選抜という文化放送の番組があった。これは生放送でリクエストを受け付け、3時ごろにベストテンが発表される。さすがにそれをずっと聴くことはなく、ベストテン発表のところだけを聴くのである。そしてベストテンはカセットテープに録音し、好きな曲を何度も繰り返し聴いて覚える。

田原俊彦には、期待していた。少年の自分から見てもカッコイイと思った。一見ナヨナヨとしているようだが、自分でも言っていたように「男、田原俊彦」であった。

いかに好きだったかと今になってわかるのが、シングル曲をみなよく覚えていて、とくに発売直後にラジオで聴いて、これはいいだのダメだなどと判定していたことである。

「薔薇薔薇・・・」は、ちょっと大人向けの曲だったかもしれない。
「悲しみ2ヤング」なんかは日本歌謡史上に残る名作だと思う。


2008/08/03

太宰治 「人間失格」

「人間失格」を読み直した。こんなに短い話だったのか。この小説について、実は壮大なボケであり笑わせているのだ、という説を聞いたことがある。確かに部分的にはそういう意図が見えないこともない箇所があるが、ほとんどは本当に苦悩し絶望した自身の生涯の告白だろう。画家を目指していたが売れず、誰かの亜流のマンガを描いていたとか、春画をコピーして売っていたとか、その辺はちょっと読んでいて悲しくなる。初めて読んだのは高校生のとき。それから20年以上たって読んでみて、当時はわからなかったことが、わからなくてよかったことだが、よくわかるようになった。10年くらい前にも読み直して、あらためて酷いハナシだと愕然とした記憶があるが、今読むとすっかりうなずけてしまう自分がイヤだ。たとえば、何度か出てくる「金の切れ目が縁の切れ目」の解釈。酒に溺れそれを自己嫌悪しながらやめられない心理と生理。酒を飲んで何かを忘れたいとか、飲むと眠れるとか、飲むと陽気になるとかいうようになったのはここ数年のことである。「失格」では、酒以外にもカルモチンとかジアールとか薬物の名前が出てくる。圧巻は酒をやめるためにモルヒネを注射するところだ。とにかく、二言目には酒が出てくる。そして最後、「お酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも」。酒が相当におそろしいドラッグであるというのは確かに同意するけど。

「失格」を読み終えた後、読みかけの「破獄」を読んだ。そして、太宰の文章との違いがほとんど肉体的な感覚に近く、感じられた。吉村昭の文章は、まるでルポルタージュである。実際、これは事実に基づいているからそうなるのも当然かもしれないが。そして、ルポルタージュと文学の違いというのがどういうことか、わかったような気がした。それは、言葉で説明するのはむずかしいが、感覚としてははっきりしている。「失格」のなかの言葉遊びのくだりで、「キミは詩(ポエジイ)を知らんね」というセリフがあるが、まさにそのポエジイというものが、太宰にはある。それは別に破滅的な人生のことではない。「破獄」を読んでいると、「失格」がなんだかおとぎ話のように、浮世離れしたものに、まさに「詩」のように感じられる。

あと、女について。さんざん女に世話になっておきながら、女をすっかり馬鹿にしている。だいたい名前が酷い。シヅ子、シゲ子、ツネ子、ヨシ子・・・。なかには定かでないものもある。特に「シヅ子」。これが太田静子を書いたものかどうかはわからない。ただ名前を借りただけかもしれない。でも、こんな風に名前を使われた彼女の心中はどんなだっただろうか。そしてそのシヅ子と暮らしているときに、二日ぶりに帰ってきて部屋をのぞいた後、また銀座に飲みに行ったというくだりには呆れる。ここは最近のテレビのトーク番組で爆笑をとれるネタである。

ヨシちゃんというのは、山崎富栄がモデルではないだろうか。私は彼女に非常に興味がある。写真をみたこともあるがとても美しい。そして強気で、純粋で、太宰が気に入るのもわかる気がする。ただ、太宰はあれかな、ちょっと深い仲になるとその人のイヤなところばかり見えてしまって魅力を感じなくなってしまうのかな。以前、太宰の心中未遂は実は心中なんかじゃない、というかなり説得力のある話しを読んだことがある。彼の作品にしばしば登場する罪悪感というものはそのせいなのだと。それもわかる。よーく、わかる。

私はもう太宰が死んだ歳を過ぎてしまった。芥川もとっくに。三島が死んだ歳も刻々とせまっている。その次は漱石。みんな若くして死んだんだな・・・。

2008/07/10

DEEP RIVER

宇多田ヒカルはデビュー時にセンセーションを巻き起こしたが、私はその時には冷ややかに見ていた。R&Bをマネして藤圭子の七光りで注目されてるだけじゃねえのかよ、と。

しかしDEEP RIVERはすばらしかった。このアルバムは彼女が結婚する直前に出たアルバムだと思う。多分結婚した彼のことを歌っている曲が何曲もあるだろう。それ以外にもTravelingのどちらまで行かれますちょっとそこまで不景気で困りますドアに注意とかいうやりとりに感心する。

彼女のアルバムを全部聴いたわけではないが、これが最高傑作だろう。
これより傑作のアルバムを作ってたら、もう、許さない。

2008/07/04

吉村昭 「破獄」

吉村昭の「破獄」を新潮文庫で買った。
今日、ファミレスで食事をした後読んでみた。
これは、しばらく前に緒形拳主演でNHKでドラマをやっていたのを見て、ヘンな感動を覚え、読んでみたいと思っていたものだ。
吉村氏はたしか最近亡くなったのだが、ガンになったが延命治療を自ら断って死んでいったとかいう事を聞いた。

最初の一章を読んで、なるほど、と、普段そんなことはまずしないのだが、パラパラとページをめくっていると、ひっくり返っているページがある。上下が逆なのだ。2、30ページくらい。こんな文庫本は新品でも古本でも見たことがない。
発行年月日などが書いてある脇に「落丁、乱丁はお取替えします」と書いてあるのはいつも見ていたが、本当にお取替えすることがあるとは。

多分、いまどき新潮文庫でこんな乱丁があるのはかなり珍しいことじゃないかと思う。
めんどくさいな。もう一冊新しいの買ってすまそうかな。

新潮社に送ったら多分丁重な詫び状つきで返ってくるとは思うが、
面倒なので、さいわいレシートもあったので、買った店に取り替えてもらう。


虫の知らせだったのだろうか。読んでいる途中で緒方拳が亡くなった。そして昨日、破獄が再放送された。そして今日、読みかけの破獄を新宿の喫茶店で読み通した。脱獄名人は最後はおとなしくなって出所し、まっとうな生き方をして死んだらしい。最後のほうは、恐ろしい脱獄犯にも情けをかければ通じる、みたいな展開になって、ちょっと安っぽくなってしまったように感じた。でも事実なのだから仕方がないが。読み通すのに苦労する小説だった。

2008/06/18

ルソー 「孤独な散歩者の夢想」

今ルソーの「孤独な散歩者の夢想」という本を読んでいる。これは高校生の頃読んで共感をおぼえた記憶がある。内容はまったくといっていいほど覚えていないが。

あらためて読んでみると、異様な文章であるのを感じる。なんというか、きわめて抽象的なのである。具体的な情景が全然出てこない。
最初の章を映像化したら、いすに座って黙っている男がいるだけの映像になるだろう。しばらくすると犬にぶつかって転ぶ話がでてくるのだが、これもなんだか異様である。犬にぶつかるってそうあることではないし、犬にぶつかったからって転ぶこともあまりない。よっぽど巨大で凶暴な犬なのだろうか。

犬の件はともかくとして、抽象的で同じようなことをごにょごにょ言うというのは、欧米語、特にフランス語の特徴なのではないかと思った。
カミュの短編にも、やたらに饒舌な話があった。カフカを読んだときも抽象的だとは感じたが、そんなにごにょごにょはしていなかった。

2008/06/08

walls and bridges

ベスト盤。知っている曲も多いからと聴いていなかったのだが、もっと早く聴いておくべきだったと後悔した。もうそんなアルバムはないよな?ホワイトアルバムもそうである。

ガットゥゲッダーン ダンノンマイニー ガットゥゲッダーン ダンノンマイニー ・・・
から始まり、エルトンジョンとのワレバゲッチュースルーザナーイに続いていく並びもいい。
beaf jerkeyもいい。それぞれは、例のFMラジオから録音したやつで曲自体は知っていて、なんかヘンな曲だなと思っていたが、アルバムとして聴くといい。

ジョンレノンにまとわりついている、生い立ちとクスリからくる、なんともいえない臭さがないこともないが、それも良さのうちである。この「臭さ」というのは尾崎豊とか柴田恭平とかのクサさとは違って、本当に「臭い」のである。

nobody loves youはアレンジがちょっと大げさで、別テイクのほうがいい。
最後のya yaも、rock'n rollに入っているやつのほうがよい。



そういえば、rock'n rollも名盤である。
stand by meという映画は名作らしいのだが、ボン、ボン、というあのアレンジがどうもうけつけなくて、そのせいで見てないといってもよい。もしかしたらあっちのほうがオリジナルなアレンジなのかもしれないが、私にとってstand by meはジョンレノンのスッチャスッチャというカッティングのアレンジとして染み付いてしまっている。

全体的にレノンがいっちゃってる感じで、パンク的な匂いすらする。

ジョンは丸めがねをかけて長髪にしてヨーコがどうのピースがどうしただの言い始めた頃はあまり好きじゃない。まあ誰でもそうかもしれないけど。

2008/05/27

バックトゥザフューチャー

今BS2でバックトゥザフューチャーが、1が、やってる。
これは高校生のとき、友達3人くらいで観にいった。
でも、全然おもしろくない。
まあ、当時はなんとなく楽しんだけど、もう見てらんない。
9時半からMLBハイライトを見る。

ただ、この作品にはデッドマンの冒頭ですばらしい演技をする顔がすすけた機関士役の俳優が出ているらしいので、録画してそれだけチェックする。


(翌日)

今日は2をやっている。今日は仕事をしながら、あらためてこの映画のつまらなさを実感していた。そういえば、監督ではないがスピルバーグの名前が冠されていた。
何度も書いているが私はスピルバーグの映画のよさがわからない。嫌いなのではなくて、わからない。基本的に私はミーハーで売れてるものはなんでも好きになってしまうところがあるのだが、スピルバーグだけはそうでないことについては、俺も俗人離れしたところがあるのか、と少しうれしいくらいである。

2は、初めて見るが、まだ20分くらいしか経過していないが、これはダメだ。
絶対に駄作であると断言できる。

back to the futureが人気があるのは、少なくとも1については、50’s的なフンイキがあるからだと思う。古きよき恋愛、心配する親、ヘビメタなどがなかった時代。
タイムマシンはあくまでも過去を振り返るためのきっかけ、小道具にすぎない。

2、3は見ていず、2だけは最初の方をちらっと見たのだが、
どうもタイムマシンによる時間旅行が前面に出すぎているように感じた。
また、未来に行くというのは、あまりおもしろくない。

タイムマシンのことを話すとき、未来に行きたい人はあまり多くない。
ほとんどの人が、過去にもどってやり直したいと思うのではないか。
基本的に人は年をとることをおそれるから。

2008/05/21

TAXI DRIVER




この映画にはいろんな縁がある。初めて見たのはテレビで夜中にやっていたのかな?
「タクシードライバー」という名前が一人歩きしていたような記憶がある。
尾崎豊のseventeen's mapのジャケットだったかな、俺の目はtaxi driverのデニーロみたいに燃えていた、なんて書いてあった。

この映画は3回くらい、今までに見ている。
マーチンスコセッシという名前はいまでこそひとかどの映画監督だということになっているが、
よく考えてみると、彼が撮った映画で異色作じゃない、正当な傑作はあるだろうか?

わたしはこの映画について、監督がスコセッシだとか、主役がデニーロだとか、
ジョディフォスターが出てるとか、そういうことは全く関係なく、重要な作品である。

あるとき、一緒に仕事をしていた先輩が俺に言った。
「○○さん、タクシードライバーって知ってる?君を見るとトラビスを思い出すよ」

それは私が雑談で「クリントン(orブッシュ)を暗殺したい」と言ったときである。
どちらか定かではないが
共和党の大統領を暗殺することはありえないので
多分クリントンであろう。
いや、もしかしたら日本の総理大臣かだれかかもしれない。

たぶんお人よしのようでファナティックで何を考えているのかよくわからないところが、
彼と似ていたのだろう。
俺はうれしかった、その先輩はあまり好きじゃなかったけど。

でも、タクシードライバーという映画が何を言いたいのかは、
いまだによくわからない。
さっきNHKのBS2でやっていて、録画したものをみながら書いているのだが・・・

まず、文芸作品ではない。
世界と歴史を肯定する映画ではない。
これを見た人を幸福にしようとして作られた映画ではない。

この映画でおもしろいのは、音楽。
甘い、俗悪といってもいいサックスのメロディーと、
サスペンス・ホラーの効果音的なおどろおどろしい音楽の交替。
これがこの映画のキモのひとつである。

2008/04/29

HANA-BI

部屋を掃除していたらHANA-BIのDVDが出てきた。買ったものではなく、WOWOWで放送されたものをVHSテープに録画したものをパソコンで録画してDVDに焼いたものである。だから画面のハシにヘンな線が入っている。しかし、この映画を見ているときにそんなことは気にならない。この映画は、そもそも武自体がそういう人間なのだが、見事に絶望を描いている。武は絶望を体現している男である。同僚が殺されたからといって犯人をぶっ殺していいわけでもないし、銀行強盗して殉職した同僚の遺族を助けることが許されるわけでもない。それは、善悪の問題ではない。合法違法の問題でもない。心情の問題である。こんな見事な絶望は現実にはあり得るものではない。こんな生き方をしたら狂人である。ただの極悪人である。しかし、そんな生き方をしている彼は全く幸福ではない。毎日滅私の精神で我慢を重ねて生きている人の方が、おいしい食事を味わいささやかでも暖かな家庭の団欒を楽しみぐっすり眠っていることだろう。しかし彼は何の得にもならないことをして、自他をともに傷つけ破滅の人生を歩んでいる。いったいなぜそんな事をするのか。

武の描いた絵はどれも乾いていて冷たくて、これまた絶望した絵である。美しいね、すばらしいねと人に言わせることを拒んでいる絵である。たとえるなら、愛する人や子供に何かをねだられても何を買ってやることもできず、空っぽの財布を振っておどけるような、そんな絵である。

そういうときに、人はあきれて、愛想をつかして、怒る気もなくし、逆にかわいく思えてきたりする。そういう映画である、HANA-BIは。

空に吸われし


不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心

これは石川啄木の短歌で、中学の国語の教科書にのっていた。そのときはよく意味がわからなかったが、高校生になって部活で筋トレをやるためか何かで校庭に仰向けになったときに、もう夜で暗くなった空にモコモコしている雲を見ていて、まさに心をすわれるのを感じた。

2008/04/28

ジョルジュ・バタイユ 「文学と悪」

私はバタイユの「文学と悪」という評論集を持っている。文庫本のクセに1300円くらいする。バタイユは三島から興味を持ったのであるが、いまだに彼の書いたものがよく理解できない。「文学と悪」についてはボードレールとかウィリアムブレイクとかについて書いている。そして文学というのは悪を描くもので、少年時代である、などというちょっと興味をひかれることを言っていて、つまりは彼も文学が「すばらしい」ものではないということを言いたいのだと、そこは共感するのだが、やっぱり今ひとつ理解できない。この本で最初に取り上げられている作家はエミリ・ブロンテである。「嵐が丘」を書いた女で、30歳くらいで死んでしまったらしい。そしてこの作品が、とんでもない悪を描いているというのだ。「嵐が丘」は松田優作も出た映画になったりもしていた。読んでみたが、途中でやめてしまった。共感できないからだろう。暗くて激しい作品のようだが、どうしても入り込めなかった。今日、もう一度読んでみようと思ったが本が見つからない。捨ててしまったか?

2008/04/27

coffee and cigarettes

ケイトを見直そうとcoffee and cigarettesを見た。こんな人をdylanになんてやっぱり思いつかねえよな・・・と思っているといとこがやってくる。この女優ならまだわかる・・・・ん・・・?今日見たのはこの女優か?こっちがケイトだったのか?・・・ま、まさか!!

そう、これはケイトが二役やっていたのだ・・・・。すごい・・・。
参った。


というわけでcoffee and cigarettesを見直しているのだが・・・すばらしい。まず、音楽の選曲がいい。そして人間関係が複雑すぎない。特にこの映画ではほとんど漫才かコントみたいに二人の掛け合いである。ナンセンスといえばナンセンスだけど、最近の日本のテレビのお笑いみたいなあり得なさはない。わかりやすいオチもない。くだらない洒落やあるあるネタもない。しずかに淡々と、BGMにのって流れていく。

カンフーハッスル

テレビでやっていたので見た。少林サッカーと同じ主演・監督だったが、さらにスケールがでかくなっていた。半ケツとか、くわえタバコの大家の女房とか、オカマの仕立て屋の達人とか、キャラが素晴らしい。そして、一番見ごたえがあったのは琴を使う二人組みとの戦い。あれはすごかった。そしてそれを一喝してしまうババァ。

やっぱり映画っていうのはこういう明快でベタなほうがいいね。

最近よく思うのだが、どこかにこんなサービスないかな。大画面のテレビ(モニタ)と、デカイスピーカーがあって、防音設備もととのった部屋を、レンタルしてくれる。そこで、自分のDVDやらCDやらを鑑賞できるような。漫画喫茶じゃ狭いしヘッドホンだし。そのためにラブホテル入るのもヤダし。

2008/04/26

I'm not there



I'm not there という映画で、ジャームッシュ映画で初めて見て気になった女優であるケイト・ブランシェットがdylanに、1969年ごろのdylanに扮しているのだが、どの写真を見てもそっくりである。レビューなどでもケイトの話題ばかりである。ケイトがすばらしいのではあろうが、彼女にディランをやらせようと考えた人はただものではない。監督の案なのだろうか?彼女が立候補したのだろうか?オーディションでもやったのだろうか?Dylanをプロテストシンガーだとか反体制文化の旗手だとかいう風にとらえるのはうんざりだが、どうやらこの映画はサラっとしているようなので、このまま眠くならなければ見に行ってみようかと思っている。たまには文化的な週末をすごそう。

予告編を見たら泣きそうになった。なんでだろう。

ケイトは素晴らしかった。彼女だけで撮ってもよかったんじゃないかっていうくらい。Dylanがらみの映画にはろくなモノがなかった。そのなかではマシだった。フィクションにしたのはよかった。

でも、この映画も他のDylan映画と同様に失敗作であるのは変わりない。失敗の原因は、ストーリーの核が定まっていないことだ。記者会見のような形式で語るランボーと、離婚することになる夫婦の話、この二つの柱が細く不安定なためだ。

そしてDylanの曲は映画のBGMにはならない、ということを改めて知った。ケイトは歌まではやらなかったようだが、あそこまでやるなら女声でもなんでもいいからLike a Rolling Stoneを見たかったな。

そんでdylanの曲がBGMのセックスシーンは気持ち悪い。
特に2回目のM字開脚のシーンは、何?

久しぶりに有楽町に行ったら駅前の交差点がつぶれて丸井が建っていた。映画館はビルの4階で看板も何もなくてわかりにくかったがきれいでいい映画館だ。今度no countryをやるらしいのでまた行こう。

2008/04/24

町田康 「人間の屑」

これは私小説なのだろうか。串カツを売ったりして生活していた時期もあったのだろうか。無気力なようで非常にバイタリティのある男である。色川武大に似ている。猫に名前をつけて系図を作ったりするところは、相撲ごっこをする話を思い出させた。クスリの匂いとか、「屑」っぽいところも似ている。巻末にTという作家の解説がついていた。私はこの人が嫌いだ。高校生の頃2、3冊読んでおもしろいなと思ったこともあるが、今では全く読まないし、もう一度読みたいとも思わない。解説でも、悪魔の辞典を引用したり、思考実験とかSFとか俺は最初から認めていたとか言っていて不愉快になった。T氏的なものが町田氏にもないことはないが、町田氏の文章には、味というか品というか、湿り気というか、そういうものがある。T氏の文章はジャンクフードのようだが、町田氏のは高級品ではないが人の愛情のこもった手料理のような、そういうしっとり感がある。

2008/04/21

絵本の思い出


08/04/21(Mon) 19:25

「きみとぼく」という絵本のことを、ふとした時に思い出す。我が家には、両親の教育方針のためだったのだろうが、絵本がたくさんあった。本を読むことは強制されはしなかったがとてもよいことだとされていて、本を読んでいるとほめられ、その本について話をするとよく話を聞いてくれた。本を投げたりぞんざいに扱うと怒られた。また、幼稚園でも毎週だか毎月だか土曜日に、絵本が配られた。それが非常に楽しみだった。私はおとなしくて友達もほとんどいないような子供で、家の中で絵本を読んでいることが多かった。「きみとぼく」はその中でも印象に残っている一冊である。ストーリーがおもしろかったとか、こころに残るセリフなどがあったわけではない。ストーリーもセリフもほとんど覚えていないが、その本のかもし出していた世界、多くは絵によっていたと思うが、友達がいなくて内気なサイと小鳥との恋愛のような交流が、今思い出してもうっとりするような静かな暖かい本であったのを、ぼんやりと覚えている。あらためてこの絵本について調べてみた。作者は今江祥智、絵は長新太である。二人ともたくさんの絵本を書いていて、それらも何冊か読んでいるはずであるが、この作品の印象はずばぬけている。1970年の作品である。私は2歳、今江氏は38歳で今の私と同じくらいのときである。ドンくさくてのろまでみんなに馬鹿にされて孤独なサイ。今でもそれに近いものがあるが、子供の頃の私はさらに酷かった。しかし、実はこの本を読んだ子供の頃にはそれほど感動もしなかったし別にどうってことない話だと思っていた。しかし、30年以上たった今でもまだその世界だけは印象に残っているということは、確実に自分の心には刻まれていて、自分を支えていたのである。




あともう一冊、強い印象の残っている本がある。これは挿絵はあったが絵本ではなく、確か小学1、2年くらい向けの本だった。陸海空を走ることのできる車を運転する話である。これは文学的な感動ではなく、当時はやっていたマンガやスーパーカーなどの世界にあこがれるのと同じような興味から読んでいた。タイトルも作者もすっかり忘れていたがキーワードで検索して「みつやくんのマーク X」であることがわかった。表紙の絵がカッコいい。これは子供が夢中になるのも無理はない。文が渡辺茂男、絵がエム ナマエという人の作品だった。渡辺氏は「しょうぼうじどうしゃじぷた」も書いている人だ。この本もよく覚えている。「もりのへなそうる」もこの人だったのか。2006年に亡くなっていた。「へなそうる」は変な題名なので覚えているが、中身は全く覚えていない。ちょっと狙いすぎな雰囲気を子供ながらに感じ取って読まなかったような記憶がある。「へなそうる」の絵を描いているひとが絵を描いた「いやいやえん」も出てきた。これも、赤い装丁も含めてよく覚えている。たしかわがままを言ってたらダメだよというような話だったと思う。あとは「ぐりとぐら」とか。傾向として、あまりお説教くさかったり波乱万丈があったりするような本よりも、たいしたストーリーはなくて絵がきれいで淡々とした本が好きだったようだ。あとは寺村輝夫の王さまシリーズ。これは高学年の頃でも読んでいて、高校か下手したら社会人になってから、図書館で探してやっぱりおもしれえやと笑いながら読んでいた記憶がある。

長さんは2005年、寺村さんは2006年に亡くなっていた。そしてエムナマエさんはなんと目が見えなくなっていた。1986年のことだから、「マークX」の時には見えていたのだ。しかし目が見えなくなっても今でも絵を描き続けているそうだ。

「マークX」は、実は実際に運転しているのではなくて、少年の空想なのである。模型を見て、自分が運転して空を飛ぶところを空想しているのである。だから、情景も透明で、抽象的で、静かで自由なのである。孤独でもある。子供のころは、そういう自由な無意味な空想をよくしていたものである。みんなそうだったはずだ。



2008/04/14

町田康 「夫婦茶碗」

もう芥川賞作家になってしまった、町田康。彼のことを知ったのは、イカすバンド天国に出演していて私がけっこういいなと思っていたバンドの連中が尊敬しているということで名前を出したときである。そのときは町田町蔵と名乗っていた。ふざけた名前だなと思ったがアルバムジャケットの写真は真剣で純情そうな顔をしていた。彼の音楽も1枚だけ、聴いた。なんとかのヨハネとかいう曲が入っていたと思う。あと、飯を食わせろとか食うなとかいう曲とか。パンクというジャンルに分類されていたようである。おもしろいなとは思ったが、それほどいいとも思わなかった。

それからしばらくして、彼が小説を書いていることを知って、図書館などでちょっと読んでみたらとても面白かったのだが、それはナンセンスでシュールなお笑いのような面白さで、まさか芥川賞をとることになるとは全く思わなかった。芥川賞をとってしまうと、少し遠い人になってしまったような気がした。しばらく前にもNHK教育テレビで中原中也の番組に出ていたが、立派な作家としてまじめに中原の事を語っているのを見た。

U氏のブログで彼がほめられていたので、これはやっぱり本格的に、ただおもしろいというだけでなく、一流の作家の作品として、読んでみる必要があると思って、上野駅の本屋で新潮文庫を買った。「夫婦茶碗」は、読んですぐ思い出したのだが、一度読んだことがある作品である。真顔でおもしろいことナンセンスなこと自虐的なことを言う、私の目指している文章である。

芥川賞をとって立派な作家先生になってしまったからそう思うだけかもしれないが、この作品はふざけているように装っているが、実は芸術と生活についての深い考察を語っているのではないかと、前回読んだときとは違う感想を持った。

おそらく彼がこの作品を書いたのは、今の私と同じか少し若いくらいの時のものである。語彙や発想が、やっぱり只者でない。

2008/03/29

影武者

影武者 1980 黒澤明監督

この映画は家族5人で映画館に見に行った。わたしは小学生だった。よくわからなかったがなんかかわいそうだった、みたいな事を当時書くことを義務付けられていた日記に書いたのを覚えている。後にも先にも家族5人で映画を見たことなどない。

・・・・クロサワ映画は嫌いである。やっぱり好きになれない。確かに壮大なロケをよく敢行したなとは思う。衣装もきれいだし、大河ドラマなどにはないリアリティや迫力である。しかし、どうしても入り込めない。クロサワ映画を見ていていつも気になるのが、集団演技のわざとらしさである。驚いたり、顔を見合わせたり、笑ったり、それがいかにもそうすることを指示されているのが丸出しの、マスゲームか何かを見ているようである。

あと全体的に画面が暗くてよくわからない。セリフもだみ声でどなるようなのが多くて聞き取りにくい。最後の勝頼軍が惨敗した後の馬や兵隊がのたうちまわるシーンがしつこい。

ほめるところがあるとするなら、用無しになったあとの影武者の末路である。信玄としては勝新のほうが適役だったかもしれないが、あの情けない感じは仲代達也のほうがよかったのではないだろうか。信長役はカッコよかった。ショーケンも、短気で無謀で嫉妬深い勝頼に似合っていた。本当の勝頼がどうだったのかは知らないが。ショーケンも乗馬を習ったんだね。大滝秀治も?

そもそもわたしは戦国時代というものがまったく理解できない。信長秀吉家康とかいう人たちが、武田信玄とかが、いったいなんなのか、理解できない。彼らは政治家というよりもむしろ暴走族やヤクザに近かったのではないだろうか。本当にあんなカッコをして、あんな言葉遣いをして、あんなところに住んでいたのだろうか。どんなクスリをやっていたのだろうか。

根津ジンパチを久しぶりに見た。最近見ないと思ったらいろいろあって大変だったようだ。ショーケンもいろいろ、ありすぎるくらいにあった。勝新も。でもやっぱりショーケンはカッコいいな。時代劇にはちょっと華奢な感じだけど、ああいう人もきっといたはずだ。

徳川家康はちょっと・・・。ただの小太りなオッサンだし。

2008/03/26

ヤクザ映画

私はヤクザ映画好きなんですよね。無鉄砲なチンピラが無駄に死んでいくような話が。具体的にあげろっていうとアレですけど。一時期安藤昇の映画を見てましたね。今は見たくてもレンタルビデオ屋が近くにないんでね。武の「Brother」とかもいいですね。「チンピラ」っていう、ジョニー大倉と柴田恭平がやってた映画、あれも好きでしたね。「竜二」とかはちょっとかっこよすぎですね。「からっ風野郎」っていう三島由紀夫が出てるのも見てみたい。「スタア」っていう短編は大好きです。

2008/03/25

フィツジェラルド 「グレート・ギャツビー」

「グレート・ギャツビー」 The Great Gatsby, 1925 フィツジェラルド著、野崎孝訳 新潮文庫

昨日映画を観て駄作だと思ったのだが原作は村上春樹をはじめとして絶賛されているので読んでみた。
映画と違って小説ではギャツビーは滑稽でもあるが愛すべきかわいそうなヤツとして愛情をもって描かれている。
Greatというのも皮肉ではない。それは太宰が「人間失格」で葉蔵をダメ人間として描きながらも、
神様みたいないい人だったと言わせているのと同じようなものである。
感動はしない。理解しがたい。描写が詳しすぎるというか、おそらく現実のエピソードに近いのであろう。
ただ、私が今まで触れてきた小説や映画などにはない、苦さというか、複雑さというか、現実に近いというか、そういうものは新鮮だった。

2008/03/22

華麗なるギャッツビー The Great Gatsby



名前だけはなぜかいやというほど聞いたことがある。たしがギャツビーと言う名前の男性化粧品もあって、CMをよくやっていた。
movie+でやっていたので録画しておいた。あまり見る気にはならなかったがvistaの再インストール+SP1適用をする合間に見てみた。わたしは映画でもテレビでも本でも、ぱっと見の印象でどうしても受け付けないことがあるが、この映画は受け付けない雰囲気に満ちていた。しかしscreenplayがコッポラだったし、このスレのネタにと思って我慢して見てみようかと思った。ギャツビーが出てくるまでの俳優女優陣の魅力のないこと。ロバートレッドフォード以外はしょうもない役者ばかりである。今1時間半くらい経過しているがわたしの心は微動だにしていない。いったいどういう人間が、どういう人間のために作って、どういう人間が何を求めて見る映画なのか、まったく理解できない。登場人物の誰にも感情移入できない。絵もクローズアップが多くて安っぽいテレビドラマのようである。噴飯物といっても過言ではない。最後の交通事故からギャッツビーが殺されるあたりはもう滅茶苦茶で、結局最後は金持ち批判かよというくだらない映画である。星はマイナス100個!!

何がダメなのだろうか?語り手的な存在であるニックのせいではないかと思う。彼は透明な中立的な凡庸な人間なのだが、あまりにも客観的すぎる。彼に魅力がなさ過ぎるのでゴシップ記事を読んでいるような気分にさせられるのだ。

ギャツビーに対してあまりに私が批判的なのを怪しむ人がいるかもしれない。実はこの作品の原作は、私が尊敬するある人がけなしていたのだ。だから有名ではあっても今まで手をつけずに、つけられずにいたのだ。その有名な人とはJDサリンジャーである・・・と思い込んでいたのだがそれは大間違いで彼(ホールデン)も大好きだといっている。

でも、ホールデンではないにしても、だれかがギャツビーなんか、とけなしていたのは記憶にあったのだが、・・・思い出した。Dylanだ。

You've been with the professors
And they've all liked your looks
With great lawyers you have
Discussed lepers and crooks
You've been through all of
F. Scott Fitzgerald's books
You're very well read
It's well known

・・・でもこれも別にけなしてはいないのかな?

いろんなレビューなどを読んでいると映画が駄作だという人は多いが、原作のほうは誰もが認める名作といってよいようである。野崎孝と村上春樹という二人がライ麦とともに訳しているところを見ると、何か共通点があるのだろう。


駅から家に歩いて帰るときに考えた。ライ麦と、ギャツビーと、村上春樹の共通点を。みんな、浮かれた時代をすごした繊細なお坊ちゃん達じゃないのかと。ライ麦は終戦後だけど、戦勝国だから結構浮かれてたんじゃないか。尾崎豊もライ麦に感激したようで何かのPVに出てきた。彼もバブル期の人間である。

そして太宰治もそうなのではないか、と考えたのだが、彼はまた特殊に思える。私は彼は単なる感傷的な青年などではなく、もっと恐ろしい、暗い、悪意を持っていたように思う。生きた時代も浮かれていたどころかもっとも厳しくつらい時代だった。戦争中なのに酒と薬におぼれて作家などやっているなんてまともな神経じゃない。こう見てくると、やっぱり時代なんか関係ないのかなと思えてくる。太宰みたいな人間が実は普遍的なのではということは以前も書いた。

村上春樹については、ノーベル賞かとまで騒がれている作家であるのに、恥ずかしながら一冊も読んだことがない。買おうかなと彼のコーナー(もちろん文庫の)までは何度もいったことがあるが、タイトルをながめて、手にとって最初の1ページを読んでみても、どうしても読もうという気にならないのである。ノルウェイの森はあまりに有名なのでまず読むならこれかな、と思うのだが残念なことに上下に分かれている。私は複数冊にわかれた文庫本を買うのは非常に抵抗がある。本なんか1冊にまとまっていないと、うんざりしてしまう。カラマーゾフとか、白鯨とかは壮大なので気合を入れて全部かって読むぞ、と読んだが、村上春樹はなんだか軽薄で軟弱そうなのでそこまでして読むほどのものではないかな、と思ってしまう。ねじ巻き鳥クロニクルとか海辺のカフカとかいうタイトルも、激しく読む気を誘わない。

繰り返すがまったく読んでいないので私には彼のことを批判する資格はない。軽薄・軟弱とかいうのも、私の先入観にすぎない。ギャツビーもなんどか開いて読んでみようかなと思ったことがないではないが、冒頭だけ読んでどうも文体が鼻につく。

とりあえず帰り道に本屋へ寄って、野崎孝訳の文庫を買ってきた。青空文庫でも読めるのだが、やっぱり本は縦書きで紙に印刷したものでないと。

2008/03/18

30 years maximum R&B

The Who のvideoで、30years maximum R&Bとかなんとかいう、ライブ映像集がある。まだビデオだった頃に買ってすぐに売ってしまったのだが、見たくてしょうがない。まず一番見たいのが、Peteのインタビューである。多分2000年頃のものだ。一番最後に、whoっていうのはうるさくてヘタでどうしようもないバンドだったが、オーディエンスもそれを好んだのさ、と吐き捨てるように言う。字幕がなかったので正確な意味はわからないがそんな自嘲的な感じだった。あとは、解散間近のライブでsister discoかなんかをやっている時に、ロジャーがPeteに近づいていくと、Peteがものすごい形相で、あきらかにこっちに来るなという意思表示をしているところとか。あと、全般的にPeteが非常に高く、頻繁にジャンプしている映像が収められている。DVD化はされなかったようで、アマゾンで探しても出てこない。


VHSテープをオークションで入手した。やはりいい作品である。Peteはデビュー間もないころも、解散して60歳くらいになったときも、同じようなことを話している。
TheWhoは音楽的にはけっして上質ではない。むしろ汚くて下劣であると。しかし、聴衆は決して上質なキレイな音楽だけを求めているのではないと。Peteは自虐的に皮肉っぽく発言しているけれど、それは実はThe Whoの素晴らしさ、偉大さ、単なるキレイな耳障りのいいだけの音楽をやっているんじゃない、ということを言っているのである。

「悪い音の方が観客を刺激する」

2008/03/11

OZAKI 東京ドーム

1988年9月のドームでのライブはビデオになって発売された。そのテープはレンタルで見たが、そんなにいいものとは思わなかった。それから彼がなくなって10年たったときに、NHKで彼のライブ映像特集が放映された。それを録画して編集してDVDに保存してあたものを久しぶりに見た。

圧巻は東京ドームでの「猫」である。どうしてこれがビデオに収録されていなかったのか、理解に苦しむ。編集したやつは頭がおかしいのではないか。尾崎の映像にはそういうものが多い。彼の独特のオーラが周囲を狂わせるのだろうか。

そして、ピアノだけの伴奏で歌う「街路樹」ではピアノがミスする。これはビデオにも収録されていたと思う。尾崎は途中でミスに気づき、歌うのをやめてしまう。応援するような歓声が起こり、何事もなかったようにまた歌い続けるシーンがある。尾崎は怒るでもなく、動揺するでもなく、まるで演出ででもあったかのようにふるまうのである。涙が出そうになる。

論語

論語・・・あまりに有名だが、なんだか言い古された月並みなお説教のようなイメージを持っている人が多いだろう。私は儒教的な考えが基本的には好きであり、そうありたいと思っているが、男として、あるいは技術者として、あるいはビジネスマンとしては、論語の教えは物足りないような無力なような気がしていた。しかし最近になって、自分の心がすさんでくるのを感じると、論語をもう一度読み直さないといけないのではと思った。といっても論語なんか全部は読んだこともないのだが。

剛毅木訥近仁

巧言令色鮮矣仁

これらは私の基本ポリシーである。

君子豹変、小人革面

論語を探してもないとおもったら、これは易経の言葉だそうである。

これも好きな言葉

至於犬馬、皆能有養、不敬何以別


鞠躬如と言う言葉はたまに聞くが意味はよく知らなかった。調べて見ると身体を鞠のように丸くして、門をくぐった、つまり遠慮がちにつつましく通る、という意味のようだ。すっかり忘れていることである。

そういえば敬愛するjohn rydenが孔子はロクでもないやつだ、とどっかで言ってたな。

論語を読んでいると、恥ずかしくなってくる。いつの間にか私は「小人」になって、利ばかり求めて、謙虚さややさしさや思いやりを忘れてしまった。孔子のいっていることなんかたいしたことじゃないと思っていたけど、改めて読み直してみると、いったい何者なんだろうと不思議になるくらい、異常なまでの常識人だ。確か論語にもそういう記述があったと思う。


2008/03/03

Angus Young

録画したまま見ないでたまっていたベストヒットUSAを見ていた。5週分くらい見て、2箇所、じっくり見た。ひとつはスザンヌベガのインタビューと新曲である。彼女は大好きなのだが、デビュー後数年で才能が枯れてしまったように思う。

そしてもうひとつがAC/DCである。AC/DCを見るのは初めてではない。アルバムも2枚くらい聴いた。1枚は有名なback in blackであるが、正直よさがわからなかった。もう1枚はカセットテープで、let there be rockが入っている。今回ベストヒットUSAでやった曲だ。

angus youngという人はよくわからない人だ。まず、顔がよくわからない。無個性・無表情な顔であるうえ、終始アタマを振っているから全然見えない。おなじみの超高速ダックウォークも改めてみると大した運動量である。このビデオは上半身裸であったが、アスリートのような体である。

AC/DCを聴こうと思ったきっかけは、たしかguns'n rosesが、俺達は weak AC/DCだなんて言われてるけど、俺にとってAC/DCといえばwhole lotta rosieなんだ、といってカバーしていたのを聴いたことである。

懐かしい・・・。AC/DCのライブの動画がみたくなって、youtubeを探して whole lotta rosieを見つけた。ものすごく激しく弾いているが、もしかしてものすごい簡単なフレーズではないかと思って、タブを探したり弾いてみたりしたら案の定簡単であった。ソロはのぞいて。

しかし、何かが違う。スピードとか音量だけでなく、多分「間」だと思う。

2008/03/02

Roxette

一時期心酔していた。Dangerousを聴くと必ずあそこでhand clapをしてしまう。

Macで作ったみたいなリズムとベースの音、Smalltalkとか、Vulnerableとか、絶対そのスジの人だ。ただ、売れはしたが一時的なブームという感じで、周囲にも好きだという人はあまりいなかった。といっても周囲には誰もいなかったが・・・。いくつかの曲はprinceをパクったのではと疑っていたがどれがどれだか忘れてしまった。

2008/02/09

平野啓一郎

再び「暗夜行路」を再開したが、やっぱり激しくつまらない。びっくりするほどおもしろくない。なんてパサパサな文章だろう。なんて味のないストーリーだろう。どうしてこんなものが日本文学史上に残っているのだろう。インターネットやテレビやロックなど刺激の強いものに慣れすぎてしまったのだろうか。別に難解な言葉を使っているわけでもないのだが苦痛でたまらない。

「金閣寺」(について)

初めて読んだのは、中学生のとき、国語の問題集を解いていたときである。
「大人の文章だな」という印象だった。難しい文章、きいたことのない言葉、優しくなくて、悪く言えば高慢な感じ。その後新潮文庫で「金閣寺」を買って、高校生のころ寝しなに読んで見たがなかなか読み進まなかった。それからしばらく三島からは遠ざかって太宰とかサリンジャーとかドストエフスキーとか、その他感傷的な、センチメンタルな、博愛的な、みんななかよく俺はどうせダメな奴さ的な世界に浸っていくのだが、それにもうんざりして三島作品はめぼしいものはほとんど読むことになる。

平野啓一郎が「金閣寺」について書いたものがあるというのを、彼のブログで知った。
それは、こないだ「鹿鳴館」がTVで放映されたときに、彼自身が「鹿鳴館」について書いた本が出てますからとさりげなく宣伝していたのだ。私は劇団四季の「鹿鳴館」を見に行っている。三島由紀夫+自分の見た数少ない演劇+平野啓一郎となれば読まないわけにはいかない。
念のためどんな本なのかをアマゾンのレビューで確認すると、「金閣寺」についても、「日蝕」についても書かれているというので、これは読まねばなるまいと思った。

私は彼が芥川賞を受賞してセンセーションを巻き起こしたので普段買わない文芸春秋を買って日蝕を読んでみたのだが難しい漢字がたくさんでてきてすぐに読むのをやめた。しかし、若いことと、三島と鴎外を意識しているというので無視はできないと日蝕だけをひっぺがしてとっておいた。それから数年が過ぎて、古本屋で文庫になった「日蝕」を100円で買って、ようやく読むことができた。

そうそう、神とかキリストがテーマになっていたことも、看過できない理由のひとつだった。
特に、受肉したことに意味がある、というところに。

彼はタダモノではないのは間違いないが、三島の再来というよりは鴎外の再来だと思う。
三島のような無邪気さと天然ボケさがないから。

「日蝕」については特に文体について議論を醸したが、愚評もあってムカついた、とは書いていなかったがそんなニュアンスのことを書いていた。多分そのうちの1人は石原慎太郎ではないだろうか。文芸春秋ではいつも受賞作品について審査員がいろいろと述べる。私は作品は読まなくてもそこは読む。特に石原のコメントは読む。
彼は最近だいたい受賞作に対して批判的である。カタルシスがないとかよく言っている。ほめていたのは花村萬月くらいだった。「日蝕」もけちょんけちょんにけなしていた。実は私も否定的な印象を持った。文体も気に食わなかった。しかし石原の書いていた霊肉の相克は日本では問題とはならない、とかいうことには同意できなかった。

それから数年たって読んだときには、文体がそんなに難しいとも奇をてらっているとも感じなかった。別に私が成長したわけではなく、多分その後たんなる早熟なガキではなくて、立派な作家であることが世間に認められたので、私も謙虚な気持ちで読む姿勢になったのだと思う。

石原慎太郎は、三島の悪口もよく言っている。自分は三島に認めてもらって文壇に受け入れられたんじゃないのか。死んだ後に彼をあざわらうかのような思い出話を書いた本を読んでみたが、とても気分が悪く、それ以来彼のことをあまり信用しなくなった。

2008/02/02

Baba O'Rileyのタブ


2007/12/29(Sat) 14:53

カネもないしだるいし寒いので横浜ライブを見ながらTokaiLPを弾いていた。ミキサでTV(PC)出力とギターシミュレーターを一緒にして。

BABAを弾いていると、なんか違う。F-C-Bbという3コードの繰り返しなのだが、ギターコードブックにのっている1フレットをセーハするF、人差し指で2弦1フレット・中指で4弦2フレット・薬指で5弦3フレットを押さえるC、2・3・4弦の3フレットを押さえるBbを弾いていると響きが違う。CをBbを2フレットずらしたのにしても違う。そもそもPeteの手の動きがぜんぜん違う。C-Bbで平行移動などしていない。

よく見るとカポ1にしている。そうかそうかとカポをつけて、E-B-Aを弾いてみた。しかしフィンガリングが全然違う。よーく見てみて、この単純なコード進行に隠された秘密に今日ようやく気づいた。


E

E |-|-|-|-|-|-|-|-
B |-|-|-|-|o|-|-|-
G |-|-|-|o|-|-|-|-
D |-|-|-|-|-|o|-|-
A |-|-|-|-|-|-|-|-
E |-|-|-|-|-|-|-|-

B
E |-|-|-|-|-|-|-|-
B |-|-|-|o|-|-|-|-
G |-|-|-|o|-|-|-|-
D |-|-|-|o|-|-|-|-
A |-|-|-|-|-|-|-|-
E |-|-|-|-|-|-|-|-

A

E |-|-|-|-|-|-|-|-
B |-|-|-|-|o|-|-|-
G |-|-|-|-|-|o|-|-
D |-|-|-|-|-|-|o|-
A |-|-|-|-|-|-|-|-
E |-|-|-|-|-|-|-|-

で、ジャーン、ジャンジャーン!と。
開放弦が「気が遠くなる感」を醸し出す。

RGLBでも、カポ3で A-E-F#-Dを、同じような感じでやっている。
F#とDは普通のフォームだが、F#は6弦を親指で押さえている。

WGFAは、Aから全開放でG、Dは7フレの2・3・4弦押さえか。
最近のWHOはいとこ(だっけ?)がバックにいるのでかなり奔放に弾いている。


ネットのtabを探すと、こんなのが出てくる。
F5 C Bb

e|--------------------|
B|------5---3---------|
G|------5---3---------|
D|-3----5---3---------|
A|-3----3---1---------|
E|-1------------------|

私もこうなのだと思い込んでいたが、kidsのときも、横浜でも、こんな風には弾いてない。いい加減だよなタブ譜なんて。



2008/02/02(Sat) 15:23

まだちょっと違うようなので、
再検討した結果、以下のようになった。

E

E |-|-|-|-|-|-|-|-
B |-|-|-|-|o|-|-|-
G |-|-|-|o|-|-|-|-
D |-|-|-|-|-|o|-|-
A |-|-|-|-|-|-|o|-
E |-|-|-|-|-|-|-|-


B

E |-|-|-|-|-|-|-|-
B |-|-|-|o|-|-|-|-
G |-|-|-|o|-|-|-|-
D |-|-|-|o|-|-|-|-
A |-|-|-|-|-|-|-|-
E |-|-|-|-|-|-|o|-


A

E |-|-|-|-|-|-|-|-
B |-|-|-|-|o|-|-|-
G |-|-|-|-|-|o|-|-
D |-|-|-|-|-|-|o|-
A |-|-|-|-|-|-|-|-
E |-|-|-|-|-|-|-|-


です。

5,6を開放してもそれはそれでいいのだが、そんなスカしたような感じはない。低音を入れたらビシっと締まった。


のど自慢とか、カラオケとか、歌謡曲でハモるのはなんかイヤだ。なんか大声を張り上げてこれみよがしな感じ、ぶつかり合っているような感じが。

しかし、pete townshendのコーラスは素晴らしい。彼はwhoでバックコーラスに甘んじていることがよくあるが、その宇宙人みたいな声は、メインボーカルを邪魔せず、脇役に徹していて曲の調和を乱していない。

2008/01/28

isis



DylanのDesireの2曲目。hurricaneは有名な名曲なのだが、それが終わった後に始まるこの曲も隠れ名曲である。3拍子で、短い詩がたくさん続くdylan得意のパターン。ある女と結婚して別れてまた戻ってくるというような話。古い映画のような、絵が浮かんでくる。あっさりしてて、しずかで、淡々とした感じ。普段の生活にはない、水墨画のような世界。

このアルバムはJacques Levyという人と共作している。たぶん詩の物語っぽいところは彼によるものだと思う。dylanのアルバムは、余計なことをすると嫌うファンが多いようだが、彼はどんなプロデューサーや共演者とやっても常にそれを消化して、節操がないくらいに豹変するところが素晴らしいのだと思う。

高校3年の頃はこのレコードを60分テープに録音したものを死ぬほど聴いていた。マークノップラーがblonde on blondeを1000回だか1万回だか聴いたと語っていたが、私の場合desireがそれにあたる。blondeも結構聴いたが、今はもう聴くと飽きる。desireも一時期そうなっていたが今はまた新鮮に聴くことができる。

2008/01/13

宮本輝 「幻の光」

今朝の朝刊にインタビューが載っていた。そのなかで、「なるべく抽象的に書くようにしている」と書いてあった。持っていた「幻の光」という短編集を読んでみた。表題作のほかに、夜桜、こうもり、寝台車という作品が収められていて、表題作は少し長いので他の3つを読んでみた。不思議な、不気味といってもいい作品ばかりである。「抽象的」というのがどういうことかはまだ掴みきれていないが、わかったことは、オチのある話でも、「いい話」でもない、ストーリーが中心ではないということである。これが小説である。小説と言うのはいったい何がいいたいんだ、という、つかみどころのないものである。


「幻の光」

また自殺の話。くらい話。でもうっとりする。文学とはこういうものである。オチのある話、イイ話、主義主張を述べる話、そういうのではなくて。

2008/01/07

I am Legend

疲れててサウナでも行こうかなと思ってたのだがちょうど上演時間だったのでフラっと入った。単純な話である。少年漫画でやってそうだ。役者も少ない。しょうもない映画だ、といいたくなるところだが、最後に主人公が身を挺してワクチンを守るところでは泣いてしまった。いつもはこういう、テレビでCMやるような映画は見ないんだけど。