2005/11/25

シラー 「群盗」

「群盗」というシラーの戯曲を読み始めました。
御茶ノ水の古本フェアで「君主論」と一緒に買ってきました。
やっぱり、読書は古本に限りますな。

読み終えました。
よくわかりませんね。

2005/11/18

マルホランドドライブ

takeshis'に似ているという話を聞いたのと、武がリンチのワイルドアットハートが好きだというのを聞いて、見た。
似てるということについては、夢みたいな話と言う事くらいだろうか。しかし、武映画の本質は古臭い日本的なものであって、手法的なことは重要ではない。

映画の話をすると、特筆すべきはオーディションシーンである。
裸にすらならないが、わたしは今までこんなにスケベなシーンを見たことがない。これだけで参った。

謎解きみたいな事は興味がない。
リンチって、エレファントマンのカントクで、ツインピークスもこの人なんだね。

2005/11/12

TAKESHIS'

これは傑作である。
1回目は途中で飽きたが、2回目は楽しんだ。
もう、武の映画は客観的には見られない。
でも、傑作だ。武はどんどん腕を上げている。

2005/10/23

太宰治 「斜陽」


「桜桃」、「老ハイデルベルヒ」、「ヴィヨンの妻」を青空文庫で
「斜陽」を集英社文庫で。

やっぱり太宰とは「『斜陽』を書いた人」ということになるのだろう。
「人間失格」が確か新潮文庫でもっとも売れている作品らしい。最近「こころ」を抜いてトップになったらしい。
しかし「失格」はちょっとやりすぎだ。何でも正直に言えばいいってもんじゃないだろう。
かくいう私も「斜陽」よりも「失格」の方をよく読んだのだが。

まず女性が語るという形式がいやなのと、その女性にまったく共感できないのが苦痛である。あ、と言うとか、スープの飲み方とか、貴族だとか爵位だとか、上品とかげびてるとか。蛇がどうしたボヤがどうしたとか。
本当の貴族だとかいうママにも、まったく魅力を感じないし。
直治が出てきて、ようやく一息つける。彼の気持ちはわかる。でも、わざわざ小説にするような事でもないと思う。

初めて読んだのが高校3年だったが、こんなオトナの汚い世界を理解できるはずもない。20年たって読み返してみて、読めていなかったところ、誤解していたところがかなりあった。

まず、一番大事な直治の遺書と、最後のしづこの手紙。しづこじゃない、かず子。
直治がけなしている「洋画家」とは上原のことである。上原のことをいっているんだろうとは思っても私は、画家だから違う、本当に画家のことを言っているのだと思った。上原の知り合いの画家がちらっと出てくるが彼のことかなと思ったりした。しかし「フィクションにして書く」という断りがある。
その奥さん「スガちゃん」。これも誰だろうと後ろに戻ってみたがそんな人はでてこない。上原の奥さんのことである。

こういう回りくどい言い方をさせたのは、この作品が実話すれすれだからだろう。
これは最近あらためて調べて知って驚いたというかあきれたのは、
その実話であるというのが、過去の事実を打ち明けたというのではなく、執筆と同時進行、下手をすると事実が小説を追っかけていることだ。

昭和22年2月、太田静子を訪ね、斜陽の1・2章を書く。
7月から10月、「斜陽」が連載され、11月に静子が子を生む。
作中の最後の手紙の日付が昭和22年2月。そのときに子ができたようですといっているから、もはやこれは私小説どころか、まさに「仮名を使う程度のごまかし」をほどこされただけのドキュメンタリーだ。

やはり作家と言っても、何もないところからすべてを作るのではなく、経験とか、古典とか、人の日記という素材を加工しているのだ。
これは文学に限らず、絵画でも音楽でも、ソフトウェアでも同じことだ。

高校生当時に読んだときほどではないにしても、やはり私は太宰の文体に異様な、嫌悪に近いものを感じる。
彼の作品を読む動機の主要な要素が、週刊誌のスキャンダルを読むような低級な好奇心であるのは間違いない。

初めて太宰の作品を読んだのは、確か中学生のとき、図書館で、御伽草子を立ち読みしたのだが、そのときははっきりと嫌悪を感じて棚に戻した。
私は当時は非常に潔癖であり、夏目漱石ですらふざけていて嫌いなくらいだった。
国語の授業で鴎外の最期の一句を読んだのだが、教科書に漱石の文章も載せられていて、両者を比較して見ましょうというような事が書いてあり、確か我輩は猫であるだったか、そして先生がどっちが好きですかと聞いてごく少数の鴎外派だったのを覚えている。

これは触れねばならない。
MCについて。マイ・チエホフ、マイ・チャイルド、マイ・コメディアン。
これは、なんというか、気持ち悪いというか、サブいというか。
これは太田静子が実際やったことなのだろうか?
マイ・コメディアンは太宰の案かもしれないが。
私はこういう言葉遊びが大嫌いです。
ましてやそれを手紙に書くなんて、ぞっとする。

2005/10/22

カメラ目線

カメラ目線は禁じ手である。武はよく人物を真正面から映すが、あれはカメラ目線ではない。カメラ目線というのは、見ている人に愛想をふりまく行為のことである。ゴダールの「勝手にしやがれ」の冒頭にはまぎれもないそれがあるが、あそこまで行くと可である。

私が言っているのは、AVの話である。AV嬢がカメラを見ると非常に萎えるのである。それから基本的にカメラが接近しすぎである。実はフルショットは局部を映すことと同様禁じられているらしいのだが、それだけが理由ではないと思う。

場面転換の多様も不快だ。これはシーンの変化のことではなく、たとえば男女が会話するときに交互に顔を映すような手法のことである。
このテレビドラマなどでよくある手法も、実はなるべく広い背景を映さないですむようになどの事情によるものらしいのだが。

それに大人数が映りこんでしまうロングショットは、NGによる撮り直しの確率が増すこともあるだろう。

2005/10/17

七人の侍

ついに「七人の侍」を見たが、たいしたことはなかった。
セリフが1/3くらい聞き取れない。
黒澤映画は、私が受け付けないモーツァルト・エリッククラプトン・スピルバーグ的である。

2005/09/10

モリエール 「ドン・ジュアン」

「ドン・ジュアン」を読んだ。最後はカミナリに打たれて地面にのみこまれるというアニメのような結末。よくわからん話だったが、なぜこんなものをいまさら読んだかというと「ドン・ファン」の原型を知りたかったからなのだが、解説を読んでわかったのだがドン・ファンとはスペインに伝わる伝説でモリエールはそれを下敷きにして戯曲化したんだそうだ。

2005/08/18

太宰治 「ダス・ゲマイネ」

「ダス・ゲマイネ」 (das gemeine) というのは太宰の初期の作品である。
高校生の頃読んだがあまり印象はよくなかったというか何がいいたいのかわからなかった。
太宰の作品はほとんど読んでいるのだが、いい奴、面白い奴、という好意はあってもすばらしい作品を書く優秀な作家という印象はない。

先日ふとしたきっかけでインターネットに公開されているのを見つけて読んだ。文庫本で紙に印刷された縦書きの文章を読むのとちがうしフォントもなんだか安っぽくて違和感があったがそこは割り切って読んだ。

das gemeineは、簡単に言ってしまうと「通俗でいいじゃないか」、という太宰の自己弁明であろう。もしくは、「通俗のように見えるが実はそうじゃないよ」という自己主張かもしれない。

2005/07/16

DOLLS



「DOLLS」を見た。なんだかアラが見えてくるが、追っかけの話とお弁当の話は泣ける。結末があまりよろしくない。

2005/05/24

トオマス・マン 「トニオ・クレエゲル」

「トニオクレエゲル」も再読した。前回はほとんど無印象だったのだがなんとかつかめた気がする。しかしやはりあまりに自意識過剰であるので好きにはならない。しかし、「ヴェニスに死す」の虚無的な冷たい肉感のような不思議な感覚が忘れられない。


2005/04/07

トオマス・マン 「ヴェニスに死す」

「悪霊」は初期の作品だと思っていたが結構後期であった。
いつも途中で誰が誰だかわからなくなるので、メモをしながら慎重に読む事にした。たしかに膨大で、とっつきにくくはあるが、苦痛ではないのが不思議。

カラマーゾフ、白痴、罪と罰、地下室等を読んできた。なんせあの膨大さで、電車の中や寝床できれぎれに読んだために、きっちり読み込んだわけではないが、だいたい、ドストエフスキーとは何者であるかはわかっていたつもりだった。埴谷雄高の解説本を読んで、大体自分の読み方は正しかった、と確認した。彼は根はやはり懐疑派であり自由主義者であり無神論者である。しかし、そうでもなければ作家になどならないし作家でなどいられないだろう。私は芸術は肯定するが、いったい文学が芸術でありうるのだろうかと、ずっと疑っている。ほとんどの作家は文学が芸術であることを疑わずに神や信仰は疑っている。
でも、信仰と文学は相容れないものではないだろうか?
文学とは行き着くところは神への反抗なのではないか?

「罪と罰」は、最近読んだのだが、どうしても評価できない。
あれは非常に自己中心的な話である。聖書を引き合いにだすのも気に食わない。あれは、まじめに罪や罰や信仰を考えたのではなく、苦労して創ったドラマチックな小説にすぎない。

「カラマーゾフ」は、少し真剣さを感じたが、やはりむなしい。イワンやミーチャがリアルすぎるのに反して長老はどっかから引用しているみたいだし、アリョーシャはマンガみたいだ。
しかし、先ほども言ったように、神を肯定して真理と善と美を追求したら、おもしろい小説はできないのだ。

「悪霊」が難航している。分厚すぎて気軽に持ち歩けないせいだ。
その合間をぬって「ヴェニスに死す」を読んだ。
トーマス・マン。前に平野が言及していたので「トニオ・クレエゲル」を読んだのだが、なんて傲慢で自意識過剰な人間だろう。
しかし「禁色」があきらかにこの話に影響を受けている、というかパロディといってもいいのかもしれない、のがわかった。
「魔の山」も、いつか読んでみよう。


「悪霊」は、中断します。
もっと余裕のあるときにします。
今はダライラマの本を読んでますが、これは小休止です。
次のターゲットは「魔の山」です。
「悪霊」よりきついかもしれない。

2005/03/17

ヨブ記

旧約聖書にある、有名な話である。
何も悪いことをしていない正しい人であるヨブが、サタンに懲らしめられ、家族や財産を失ったあげく、自分自身も病気になる。
そこでヨブは神に文句を言う。

ヨブ記は何度か読んだのだが、今一ピンとこなかった。
今日、久しぶりに聖書を開いて読んでみて、わかったような気がした。

ヨブは悪いことをしていないが、サタンがヨブを試みることを神に持ちかけ、神がそれを許す。
まずここが納得のいかないところだ。たとえヨブはサタンに試みられても信仰を失わないからと言って、どうして病気になどならなければならないのか?

そして、ヨブが神を恨むのを聞いて、三人の人間がヨブに反論する。
表面的には皆、神を信仰しているような事を言う。
そして最後にもう一人エリフという男が現れ、この人間はヨブにも、3人にも反論する。
5人は、誰も神を否定しない。
そして最後に神が現れて、ヨブは怒られる。
しかし、神について語ったことは、ヨブは正しく、3人は間違っている、と言う。エリフについては何も言わなかった。

3人は何が間違っていたのか。
彼らが言ったのは、こんな災難にあったのだからヨブあるいは彼の家族が悪いことをしたのに違いない、だから神に打たれたのだ、ということ。
一方、ヨブは、自分は悪いことをしていないということについては譲らなかった。また、悪を行なうものがのうのうと生きていることも語った。
神がヨブが正しいといったのはここのことだ。
つまり悪いことをすると打つのではない、ということ。

ただし、あくまでも大雑把に言ってのことである。
最後にはヨブは再び祝福されている。
まるでこの試練に耐えたことに対するごほうびででもあるかのように。
ただ、そうではないのだ。
人の行いによって神は祝福したり罰したりするのではない、
それがヨブ記のテーマである。これは間違いない。


2005/02/11

カミュ 「シーシュポスの神話」

次は、谷崎。
と思ったけど、「蓼食う虫」、最低。やめた。
シーシュポス。

さかんにキルケゴールが出てくる。
「キェルケゴール」と書いてほしいところだが世間はキルで通っているからしかたないか・・・
あとニーチェも出てくる。
カミュも、どうしても、神を認めたくない。何があっても、神だけは信じたくない。

通勤時間が、電車に乗る時間が3分程度になって、本を読む時間がなくなってしまった。

ドストエフスキー、カフカ、「白鯨」が出てきた。
とくにカフカとドストエフスキーは何度も。
「審判」を非常にほめている。「城」も。「城」はちょっと読んでみたくなった。
しかし確かこれは今出版されていないはず。
で、あの分厚さと題材から敬遠していた「悪霊」の2冊を買った。

2005/01/27

ヘッセ 「荒野のおおかみ」

次は「荒野のおおかみ」。
ヘルマンヘッセ。間抜けなタイトルだとは思ったが、
まさに俺のことだと、シーシュポスと一緒に買ったものだ。
タイトルになっているだけでなく何度も繰り返されるので、
いったい原文ではなんていうんだと原題を見ると、Steppenwolfとある。
あぁ、ステッペンウルフか!

辞書を引くとコヨーテとあります

フランスものの退廃ぶりに嫌気がさして清いものをよもうとヘッセにしたのに、なんてこった。ヘッセもこんなものを書いていたのか。コカインとか出てくんだぜ。もうすぐ読み終わる。あぁ、なかなかいい本にはめぐりあえないなぁ・・・

ファウストみたいなのを書きたかったのかね?モーツァルトが出てきたところでそんなことを思った。ヘッセはもう、つい最近の人なんだね。